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第21話 橘家の盃

「うん、安定しているみたいね」


 女性は、目の前の畳に置かれた小さな包みから顔を上げると、ほっ、と小さく息を吐いた。先ほど、橘が包みを解こうとしたのだが、鋭く制止された。包まれたままでいいと言う。


「しばらくは問題ないでしょう」

「しばらくは」。しばらくとは、どれくらいだ。そこをはっきりさせてほしいと思いながらも、橘は向かいに座る渡会恵わたらいめぐみに向かって頭を下げる。

「ありがとうございました」

 二人の間に置かれた和紙の包みの中には、橘家に伝わる呪いのさかずきが入っている。所持していると早死にすると言われる正真正銘の呪物で、橘が山形の実家を出る際に持ち出した。

「また三か月後に見せてね」

 三か月ごとの面会というのも、まるで歯医者の定期健診かと突っ込みたくなる。世話になっている相手なので、もちろん決して口には出さないが。

 恵は、何もかもお見通しだといわんばかりに穏やかに微笑み、「必ず来てよ」と念を押した。


 恵とは、数年前の仕事のイベントで知り合った。

「真夏の怪談トークショー」と称したイベントで、呪物蒐集家の橘と、二人の怪談士、それに霊能者の恵が演者として出演した。恵はイベント出演者の中で最年少だったが、霊媒師としての経歴は十年以上と相当長く、誰よりも貫禄があった。実際は、今年二十七歳になる橘より幾つか年下だと聞いている。


 その日、実家から持ち出した「呪いの盃」を身に着けていた橘に向かって、恵は顔を歪めて金切り声を上げた。

「それ以上、私に近付かないで! あなた、なんてものを首から提げているのよ!?」

 初対面にしてなんて失礼な人間だと思った。と同時に、本物の霊能者なのだと確信した。これまで様々な呪物を惜しみなく紹介してきたが、我が家に伝わる「呪いの盃」については、誰にも打ち明けていなかった。ネックストラップに取り付けた盃入りの巾着を、服の外に出したこともない。それを会ってすぐに見抜くのだから、本物の能力があるのだと思った。


 それからというもの、恵は、定期的に盃の霊視をしてくれている。知り合ってしまったからには、橘が呪い殺されるのを黙って見ているわけにはいかないらしい。かれこれ、三年の付き合いになるだろうか。


 面会は、いつも八王寺にある恵の実家で行われる。いたって普通の、一家の茶の間という雰囲気の和室で恵と向かい合う。一般的な茶の間と違うのは、恵の背後の床の間に、様々な仏像が所狭しと並べてあるところだ。折り重なるように並べられているさまは、橘の呪物棚と少し似ているが、もちろん呪物とは真逆のご利益のある仏像なのだろう。


 盃から顔を上げると、恵の柔和な目と視線が合った。

 彫りの浅い柔らかな顔立ちと、優し気な喋り方。真っすぐな黒髪を、いつも一つに括っている。時に無垢な少女のようにも見えるし、ふと黙り込むと、老齢の巫女みこのようにも見えた。だが、こういう雰囲気の穏やかな女性が怒るのが一番怖いのだ。母も、こんな感じだった。


 橘は畳から盃の包みを拾い上げると、巾着にしまった。

「いつもの繰り返しになるけど。あまり感情の起伏を大きくしないこと。特にネガティブな感情はその盃の好物だから、粗暴な言動は慎むこと」

「そんなこと言ったって、仕事で理不尽な目に遭ったらネガティブな感情にもなりますよ。返答の遅い担当者やら、原稿料の未払いやら。この野郎、っていつも思います」

 笑いごとではないのに、ふふふ、と恵が小さく笑う。

「その程度は大丈夫。私が言っているのは、『死ね』だとか『殺したい』だとか、そういう感情。だめよ」

 虫も殺さぬような穏やかな顔で「死ね」と口にする。

「……さすがに殺したいとまでは思いませんね」

「なら、安心ね」


 恵は、額に手を当て、今日はもう限界だと言うように目を瞑った。橘の盃に近付くと、いつもひどい頭痛に襲われるらしい。右手で眉間を揉む。

「そろそろ限界。じゃあまた三か月後ね」

「ありがとうございました」

 辛そうな恵に申し訳なくなり、早々に退出しようと腰を浮かす。橘が部屋の出口まで移動すると、ようやく恵が額の手を外した。

「あれはどうなの? まだ生きてる?」

 別れ際の問いかけに、思わず橘は眉をひそめた。振り返り、恵と視線を合わせる。恵はまったく悪びれず真っすぐに橘を見ていた。「あれ」。恵はいつも、ミズキを「あれ」と呼ぶ。

「もちろん、元気にしていますよ」

「そう。いつまでこの世にいるつもりかしら」

 冗談などではなく、恵は本気でミズキを忌み嫌っている。実体を伴って死から生き返ったミズキを、世の道理に反していると、頑なに認めなかった。


 こんな時、どうしようもなくミズキが可哀想になる。普段は生意気で、冷酷で、厄介者ばかりを呼び寄せるトラブルメーカーだが、ミズキ自身は何も悪くないのにと、哀れに思える。


 本人が望んで生き返ったわけじゃないのに。

 何も知らず、何も与えられず、古びたアパートに一人取り残されていたのに。勝手に生き返らせられ、それなのにいつまで生きるのかと忌み嫌われる。

 もとより、望んで子供のうちに死んだわけじゃないのに。

「そんなふうに言ってやらないでください。戻ってきたからには、できる限り生かしてやりたいですよ。ミズキが何者だって」

 声を荒げても、恵は表情を変えることなく、「わかったから」と右手を振った。

「その盃を、あれには渡さないでね。呪物同士でどんな影響があるかわからないから」

「――ミズキは、物じゃありませんよ」

 挨拶もそこそこに、恵の家を後にした。


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