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第20話 水の底から

「いつもお世話になっております!」

 前回の訪問からそれほど間を置かず、持田がやってきた。今回は、対象の煙草を買った客に渡すキャンペーングッズを持って来ている。ここでキャンペーングッズが捌けるとは到底思えないが、持田の熱心な営業活動かと思うと無下にもできなかった。橘はしぶしぶグッズを受け取った。もちろん、煙草の在庫は、前回の訪問からほとんど減っていない。


「ミズキくん、こんにちは! 調子はどうですか」

 持田の姿を見つけるなり、ミズキはすぐに奥の部屋へと引っ込んだ。

 最近では橘以外の人間と接する機会も多くなり、他人とのコミュニケーションに慣れてきた頃かと思ったがそうでもないようだ。持田が来ると、逃げるように別の部屋へ消えてしまう。 

 ただ単に、持田を嫌っているだけかもしれないが。


 そんなミズキの態度を気にすることなく、持田は隅にあったスツール椅子を引き寄せた。

「このへんは一方通行や私道が多いから、ここに来る時は社用車では来ないようにしているんですよ。花取かとり駅から歩いてニ十分。いい運動です」

 橘は、常々気になっていたことを持田に訊いた。

「納品は、ルート配送でも構いませんよ?」

 暗にしょっちゅう来ないでほしいと伝えたつもりなのだが、鈍い持田は、顔の前で大きく手を振り「お気遣いなく!」と照れた表情を浮かべた。

「客先を訪問するのも、営業の務めですから!」

「……」

 外から距離を置いて暮らす橘たちにとって、確かに持田によってもたらされる情報は少なくない。橘は改めて持田を見て、少しは感謝しなければいけないだろうかと考え込んだ。なんとか社会の枠組みから零れずに生きていられるのは、たしかに持田や友人たちのおかげかもしれない。


 橘は窓の外に目を向けた。何日かぶりに雲一つなく晴れ、空が高く澄み渡っている。

 橘は購入してきた新聞を広げた。誌面にひと通り目を通し、志村直人の轢き逃げ事件の続報を探す。どこにも記事は見当たらず、進展はないようだった。


 持田は、勧められてもいないのに、すっかりスツールに腰を落ち着け、膝の上でタブレットを操作している。足繁くここを訪れる理由は、営業活動の他に、休憩も兼ねているようだ。

 僕は学生時代はテニスをやっていて、だとか、もうすぐ決算なので残業が続いているだとか、持田の独り言とも会話ともつかない喋り声をBGMにして新聞に目を通す。


「そういえばさっき、駅の反対側の商店街で祭りをやっているのを見ましたよ。小規模だけど出店が並んで、そこそこ子供たちが集まってきていました」

 知ってます? と訊かれ、かぶりを振る。地域の催し事や祭りには、まったく関与していない。それに駅の向こう側ともなれば、見知った顔も皆無だ。普段足を運ぶこともほとんどない。


「祭りのために通行止めにしているからかな。周辺の車通りが激しくって。スマホを見ながら歩いていたら、轢かれそうになっちゃいましたよ」

 ははは、と持田が頭を掻きながら笑った。持田なら、車に轢かれても軽傷でいそうだな、などと失礼なことを考える。身体能力や身体の頑丈さが理由でなく、なんとなく、悪運が強そうに見えた。


「歩きスマホしていた自分が悪いんですけどね。狭い通りだってのに、かなり飛ばしているんですもん。危ないですよ。子供たちもたくさん歩いているんだから、危険運転はやめてほしいな」

 何かしら喋っていないと落ち着かない性分らしく、持田はタブレットを操作しながら滔々と喋り続けた。橘が反応しなくても、さして気にしていない様子だった。


「いったいどんなやつが運転しているんだろうって、少し走って後を追いかけてみたんです。ほら、僕テニス部だったから、足には自信があるんですよ。白いワンボックスカーで、新車かな、ピカピカでした。ウィンドウには目隠しのフィルムが貼られていて、中がまったく見えませんでした。……まさかとは思うけど、あの車で誘拐とかしているんじゃないだろうなって、ちょっと怖くなっちゃいました。だって、ワンボックスでスモークフィルムですよ? それに子供がいる道を暴走するような車です。つい、怖い想像をしてしまうじゃないですか? で、後をつけてはみたものの、相手は車です。しかもけっこう飛ばすタイプの。当然、すぐに見失ってしまいました」

 たはは、と照れたように頭を掻く。車を走って追いかけられると、本気で思っていたのだろうか。


「そりゃあ、走って追いかけるのは、無理でしょう」

「でもね、ほら、あの住宅街の中にぽつんとある八百屋さん。あの店の前で再会したんですよ、白いワンボックスに」

川口青果店かわぐちせいかてん?」 

「ええ、そう、川口青果店。八百屋さんの車だったんですよ、その車。ちょうど店の前でバックドアを開けて、若い男の子が荷下ろしをしていました。彼、二代目ですかね? 大学生くらいかな、耳にピアスをじゃらじゃらつけて。ああいうの親父さんに怒られないのかな。窓にフィルムを貼っていたのは、野菜に日が当たらないようにしているんでしょうね。……ははは、早とちりですよね。僕、てっきり。

 配達の車、買い替えたんですね。以前は車体に大きく『川口青果店』と書かれたシルバーの車でしたもん。僕、何度もすれ違ったことがあるので、憶えてます。買い替えたばかりだからかな、まだ店の名前も入っていませんでした。最近はカッティングシートで自分でもできるのにな。業者にお願いするより、何万円も安く済むんですよ。

 ああ、そうそう、川口青果店の息子さん。――でもまぁ、他人の僕が言うのもなんですけど、安心しました。あの八百屋さんも、親子二代で頑張っているんだなぁって。家業を継ぐって、親子間で揉めたりして、けっこう難しいじゃないですか。僕の実家が町の不動産屋で、兄が跡を継いでいるんですけど、しょっちゅう親父とやり合ってます。僕、次男で良かったなぁなんて……」


 橘の視線に気付き、「おっと」と持田が口を押さえる。

「すみません、話が逸れちゃいましたね。とにかく、白いワンボックスカーは八百屋さんの車でした。買い換えたばかりの新車! でも、いくら慣れた地元の道だからってあんまりスピード出さないで欲しいなあ。危ないですよ。あんな運転してたら、いつか人を轢きますよ。――でもまぁ、この辺はさびれているから店の売れ行きはどうなんだろう、なんて余計な心配をしてましたが、新車に買い替えられるくらいだから、経営はまずまずなんでしょうね。そうですよね、店頭に買いにくるお客さんが少なくても、配達とかありますもんね。飲食店とかに」


 空は高く澄み渡っている。

 直人の気配は完全に消えた。再びこの煙草屋に現れることはないだろう。

 聡の無事さえ確かめられれば、思い残すことなど、何もないのだろう。


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