笑い止むと、聡の顔は、十くらい歳を重ねたように見えた。眉間に皺を寄せ、痛みをこらえるように顔を顰めている。まるでその身に、撥ねられた衝撃を感じているかのように。今、事故の犠牲を代われるものなら、彼は喜んで直人と代わるだろう。
「痛かったよな、苦しかったよな……。ごめん……。助けに来なかった俺のことを、恨みながら死んでいったのかな」
「違うよ」
いつの間にか、ミズキが聡の背後に戻ってきていた。
「そんなことを思う間もなく、すぐに死んだみたい」
聡が呆気に取られてミズキを振り返る。何を言われたのか、意味を飲み込めていないようだった。
「え?」
「すぐに死んだんだよ。たぶん車にぶつかった瞬間に。ええと、そういうのを何て言うんだっけ」
助けを求めるようにこちらを見る。
「即死?」と、助け船を出すと、それだ! とミズキが顔を輝かせた。随分語彙が増えたものだ、とこんな時につい感心してしまう。
「それ、それ。『即死』」
聡はぽかんと口を開けている。表情に少し、あどけなさが戻った。
「あなたたちは……警察のかた……?」
「違います」
一歩踏み出し、橘はミズキの後を引き取った。
「ほんの少しだけ、直人くんと話をしたんです」
「直人と話って、……いつですか?」
聡の質問には答えず、橘は続けた。
「――直人くんも、最期まで貴方の安否を気にしていました。犬が苦手だから、野良犬にでも追い立てられて山に迷い込んだのかもしれないって。山で遭難しているかもしれないから一緒に探してくれって」
「え……?」
「直人くんに、一緒に探してほしいと頼まれたんです。貴方が絶対助けを求めているはずだからって。
「どうして、俺の名前……? いつ、そんな話を……?」
泣き止んで乾いていた聡の目が、再び潤みだす。
「直人くんが消える前に、ちゃんと貴方は無事でいると伝えましたよ。直人くん、安心して逝きました。彼、最期だっていうのに、自分のことより貴方のことばかり。貴方のことしか口にしていませんでした」
「逝くって……? 聡はいつ、あなたたちの前に? 俺は、もう直人には、会えないんですか?」
ぼろぼろと涙を溢す聡に向かって、橘は静かに首を振った。
「もう逝きました」
「直人は、直人は苦しんでいませんでしたか? 痛がっていませんでしたか?」
「何も。ただ貴方のことを心配していました」
聡の目から、止めどなく涙が落ちる。グレーのTシャツの襟が、濡れて色を変えてゆく。
「直人、……直人っ」
聡がその場に崩れ落ちる。ミズキが驚いて、まるで泥はねを避けるように後ろへ下がった。
直人の最期を伝えることで、聡は救われたのだろうか。かえって後悔を増幅させてしまったようにも見えた。
正解がわからない。
だが、正解なんてないのかもしれない。直人が最期に伝えられなかったことを、代わりに伝えるだけ。何かをしてあげようだとか、救ってあげようだとか、そんな図々しいことは考える必要はない。ただ、互いを思いやっていた気持ちが、すれ違いから一生背負う後悔に代わってしまうのは見ていて悲しい。それだけは伝えてあげたかった。
泣きじゃくる聡を置いて、橘たちはその場を去った。
「あいつ、あんなに泣いて、どうしたの」
いまだ道に蹲って泣く聡を振り返り、ミズキが心底驚いている。
「――大切なひとを……」
大切なひとを失うと、人は悲しいんだ。そう続けようとして止めた。喪失の悲しみを伝えたくとも、『大切なもの』を持たないミズキが理解できるとは到底思えない。大切とは何かと問われ、問答が延々と続くのが容易に想像できた。
「いつも一緒にいた人間が急にいなくなったら、寂しいだろう? 『寂しい』ってわかるか」
一拍考えた後、ミズキが顔を上げた。
「いなくなってつまらないってことだよな?」
つまらない。張り合いがない。喪失感を感じる。――「寂しい」の代替としては遠からず。
「まあ、近いかな」
ミズキが、うん、と納得したような相槌を打つ。
「祐仁がいなくなったらつまらないな。うん、寂しいってことだな」
「おい、勝手に俺を殺すな。それに、それは寂しいじゃなくて『困る』だろう? 俺がいなくなったらただ単に困るんだろう」
「困る……。うん、困るし、つまらない」
ミズキが首を捻りながら「困る」「つまらない」を繰り返す。成り行きで共に暮らしているだけだが、少なくとも、頼りにはしてくれているようだ。
「じゃあ、聡も直人を生き返らせるのかな?」
朗らかな声で問われ、背筋がぞっと冷えた。簡単に蘇りが可能だと信じて疑わない様子に、何と応えてよいかわからない。死んだ人間は生き返らない。死から蘇って暮らしている人間はいない。いつか、生き返ったお前が特別なのだと、教えなければならない。
「……生き返らせない。生き返らせたくても、普通のやつには無理なんだ」
「なんで? 俺は生き返った」
父親の、大家の執念がミズキの蘇りを成功させた。二十年もの間燻ぶらせた、喪失の悲しみと、孤独の苦しさと、後悔の行き着いた先がミズキだ。
「お前の父親が、お前にひと目会いたかったんだ。会いたくて会いたくて、極限まで思いつめて、俺の呪物を盗んでまでお前を蘇らせたんだ。普通の人間はそこまでできない」
ミズキの蘇りも、正解かどうかなんてわからない。正解なんて、どこにもない。誰にもわからない。
「そもそも普通は、そばに呪物がないしな」
「――そんなにまでして俺に会いたかったんだ、父親は」
「そりゃ、そうさ」
ふうん、と表情を変えずにミズキが呟く。
父親の執念に対して、ミズキの態度は随分と素っ気ない。素っ気ないどころか、愛情や絆がまったく感じられなかった。ミズキの中の父親や家族の記憶、受けた愛情も、すべて消えているのだと思うと物悲しかった。