梅雨が明けると一気に暑くなり、十七時を回ってもまだ気温が三十度を超していた。暑さに肩を窄めて歩くミズキを西日から庇い、橘は大願寺へと向かっていた。
小野川にさしかかると、橋のたもとで手を合わせている人影が見えた。キャップを目深に被っていて、顔は見えない。しゃがんでいるので上背はわからないが、逆三角形の精悍な背中が、日常的にスポーツをしているのだと感じさせた。足元には、白い花と、ペットボトルのスポーツドリンクが供えられている。
「こんにちは」
橘が低く声を掛けると、青年は弾かれたように顔を上げ素早く立ち上がった。
「ああ、すみません、邪魔でしたか」
青年は機敏な動きで歩道の隅に寄り、橘たちに先を促すよう道を譲った。涼し気な一重が印象的な顔立ちだ。一見冷たそうに見えるが、言動から優しい性格がうかがえる。一目で、直人の友人の聡だとわかった。聡の足元で、白い花が震えるように風に揺れた。
「大丈夫。俺たちも直人くんに会いに来たんです」
「え」
聡は一重の目を見開き、橘とミズキの顔を代わる代わる見た。
「え、直人と同じ大学のかたですか……?」
「いいえ。ちょっと個人的な付き合いで」
聡の目じりがじわじわと赤く染まる。涙が浮かぶ寸前で、痛みを堪えるように目を伏せた。
「……そうですか」
「車の事故だったとか。――お悔み申し上げます」
続報で、やはり直人は轢き逃げに遭っていたとわかった。橋の上で車に轢かれ、勢いのまま河川に落下。その日は雨が降っており、落下後数十メートル流されたようだった。犯人は現在もまだ捕まっていない。目撃者を募っている最中だ。
「……ええ、はい」
消え入りそうな声で呟き、聡は項垂れた。首がじわじわと直角に折れてゆき、橘の目線からは、西日を浴びた紺色のキャップしか見えなくなった。
「直人が死んだのは、俺のせいです」
誰に謝っているのか、ごめんなさい、と聡は掠れた声を絞り出した。
「車を買ったのが嬉しくて、毎晩と言っていいくらい、直人とドライブしていました。千葉に入った時に、話題になっている廃寺が近いのに気づいて、行ってみようぜってなったんです。直人は、すごく嫌がっていました……。昔からそういう、オカルト的なものが大嫌いだったんです、あいつ」
聡が顔を上げる。目尻と鼻が真っ赤だった。
「この橋に着いても、怖いから車から降りたくないって。俺はそんな直人を揶揄ってから、一人で寺の境内に入って行きました」
相槌を返さなくても、苦しみを吐き出すように聡は喋り続けた。時々声が裏返っても、気にする様子もない。長話に飽きたのか、ミズキがその場を離れて歩き回り始めた。
「境内を見て回っているうちに、土砂降りの雨が降ってきました。俺は本堂の中に避難して、雨が弱まるのを待ちました。本堂の中は荒れてはいましたが、これと言って何も……」
聡が本堂の中に退避している間に、探しにきた直人とすれ違ってしまったのだ。怖がりな直人に、本堂の中まで確認するという発想はなかったのだろう。
「雨が降り止む気配がなかったので、車まで走って戻ろうと思いました……寺を出たあたりで、ものすごいブレーキ音と、岩でも割れたような、重い音が聞こえてきました。ちょうど、車を停めたあたりからです」
聡が、激しく咳き込むように泣き出した。
「物凄い音でっ、車を、ぶつけられたのかと思いました! まさか人が、……直人が轢かれた音だなんて思いもしませんでした! 急いで車を停めた辺りに戻ったけど、急ブレーキの犯人も、直人の姿もない……、さっきの音は、なんだったのかと」
「他の車は、見なかった?」
聡が激しく首を横に振る。
よそ見運転で撥ねて、そのまま逃走――。
橘の脳裏に、車に撥ねられた衝撃で吹き飛ぶ直人の姿が浮かんだ。橋の欄干を越え、浅瀬の岩に激突して腕を折る直人の姿が。落水した音は、豪雨にかき消されたか。
ははは、と、突然聡が場違いな明るい笑い声を上げた。
「物凄い音がしたのに、直人の姿も、他の車もない。俺は本気で、心霊現象かと思ったんですよ? 直人が何かやばい心霊現象に巻き込まれて消えちゃったんだって。馬鹿でしょう?」
聡は、タガが外れたように笑い続けた。目からは涙が止めどなくなく溢れ、まるで狂人のようだ。
「馬鹿だ……。まさか直人が真下にいたなんて……川に落ちていたなんて……。俺が馬鹿なことを考えている間も、あいつは助けを求めて苦しんでいたのかもしれないと思うと、辛くて、苦しくて……。いや、苦しかったのは直人のほうなんですけど……」