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第17話 水の底から

 どれくらい走り続けていただろう。目の前に黒黒とした川が見えてきた。

 八重山のふもとを流れる小野川おのがわだ。この川を渡りきると八重山の山道に入る。小野川は、山と平地とを隔てるように流れている。


 橋のたもとに、轢き逃げ犯の目撃情報を募る看板が立てられていた。昨日会った、廃墟カメラマンの小倉が言っていた事故だろう。


 川に架かる橋の手前で、ミズキがぴたりと立ち止まった。

「どうしたの? 早く行こう」

 急停止を喰らい、青年が焦れたように振り返る。それでもミズキは、今まで引きずられていたのが嘘のように、頑としてその場を動かない。

「ねえ、早く行こうよ! 聡が、」

 ミズキが青年の手首を掴み返して、ぐいと自らに引き寄せた。

「ねえ、あんた」

 ミズキが、青年の鼻先に顔を近づける。

「あんた、一昨日も助けを求めて煙草屋に来たよね? あの後、どうしたの?」

 急に手首を掴まれた青年は、びっくりしたように棒立ちになった。

「一昨日……?」

 きょとんとした顔で繰り返す。

「一昨日って、なに?」

「一昨日は一昨日だよ。来ただろ? 煙草屋に。『助けてくれ。一緒に友達を探してくれ』って。俺が煙草屋の外に出たら、あんたはもういなくなってた。家に帰ったの? それとも、また寺に戻って、ずっと聡とやらを探してたの?」

「一昨日も……? ずっと、探して……?」

 青年が、ミズキの言葉をたどたどしく繰り返す。


 ふいに、青年の輪郭が頼りなくなった。青年をかたどる輪郭が、まるで陽炎のように揺れて薄らいだ。目に入った雨粒で視界が霞んだのかと目を擦ったが、違った。

「一昨日……、俺は、聡を……」

 声もガラス一枚を隔てたようにくぐもって聞こえる。慌てたり、涙を流したりと目まぐるしく変化していた表情は、今やすっかり生気が抜けた人形のようになっていた。

 さっきまで、無尽蔵のスタミナで走り続けていたのが嘘のようだ。


「俺、俺……聡を探さなくちゃいけなくて……。聡が、いなくて……」

「いつまで探してんの? その聡ってやつは、もう寺にはいないよ」

 青年が押し黙った。ミズキのほうに顔を向けてはいるが、瞳はうつろで、どこを見詰めているのかわからない。何を見ているのか、見えているのかどうかも、わからない。束の間、誰も口を開かなかった。

 雨で増水した小野川の激しい水流の音だけが響いている。


 おもむろに、ミズキが口を開いた。

「聡はたぶん無事だよ。もうとっくに家に帰ってんの。無事じゃないのは、あんたのほう」

「……え、俺?」


 もしかして、この青年は――。

 呆然と立ち尽くす青年に向かって、橘は低く問いかけた。

「君、名前は?」

 青年がよろめくように橘を振り返る。街灯の下、顔が陰って表情が見えない。

直人なおと。……志村しむら直人なおと


 ――ああ、君か。

 君こそが、助けが間に合わずに溺死した不幸な青年か。いつまでもいつまでも同行した友人と再会できず、探し続けているのか。


 小野川で発見された志村直人の遺体は、全身の損傷が酷かったらしい。

 特に骨盤が粉々に骨折しており、水死ではなく轢死の可能性も高いと書かれていた。車に接触した際に、勢いで川に落ちてしまったか、事故の隠ぺいのために川に遺棄されたか――。死因は現在調査中だ。


 ミズキが、直人の鼻先に人差し指を突きつける。

「あんた、もう死んでるんだよ」

「……え」

「もう、死んでんの」

 ミズキが言い聞かせるように繰り返す。

 友人の聡を探して廃寺に入り、見つけられずに車のところまで戻ったのだろう。そこで、おそらく轢き逃げに遭った――。

「自分が死んでるって、気づかないのかよ?」

 ミズキが、呆れたように吐き捨てた。容赦のない言い方に、制止しようか一瞬迷った。

 もう少し言い方を……、けれど、これが正解なのかもしれない。変な期待を持たせたり、回りくどい言い方をしたら、霊はいつまでたっても自分の死に気付けない。


「……俺、死んで……?」

「そ。死んでんの」

「――死ん……」

 直人の暗い瞳が、不安定に揺れ始めた。

 だんだんと頭ごと揺れだし、左右の目が不規則に泳ぐ。次第に、両目がぐるりと反転し、眼窩がんかのくぼみに眼球が溶け落ちた。人間の声とは思えない、耳障りなだみ声で、支離滅裂な言葉を繰り返す。


「死んで、……おれ、死んで……聡を、……サトしが、死ンで、ないか……」

 お前が死んでんだよ、とミズキが素っ気なく繰り返した。直人の身体が、より一層頼りなく透ける。

「直人くん」

 音もなく、直人の左腕が肘の部分で捩じれた。みるみると衣服が傷んでゆく。顔は、紙のように蒼白に変わり、目はただの空洞になっていた。

「――聡くんとはぐれた夜のこと、他に何か、憶えていない?」

 橘が訊ねると、今にも崩れそうな佇まいで直人が橘を振り返った。

「……サ、さとシ、いなくて、車に戻った……ひ、かり、すごく眩シ、ひ、光が……それ、から……」

「眩しい光……、車のライト?」

「わか、わかラな……さと、聡、い、ナくて……」

 他の肝試しに来た御一行に轢き逃げされたか。

「車に、ヒかれた……サ、聡、……お、おれが……?」

「そう、君が」


 糸の絡んだ操り人形のように、直人の身体がぐにゃりと捻じれた。音もなく地面に崩れ落ち、濡れた地面に俯せに倒れた。左腕が捩じれ、おかしな方向を向いている。伏せた顔面が、雨でできた浅い水たまりに水没した。――この姿で、川で発見されたのだろうと思った。


 顔を半分ほど水に浸けたまま、直人が最後の一言を振り絞る。

「――サ、さとシは……無事……なの」

 地面に膝をつき、直人の耳元に口を寄せる。

「無事だよ」

 橘が答えている間にも、直人の身体は朽ちてゆく。全身が、ぐずぐずと水たまりに溶けだしてゆく。

「サ、さと……ぶ、じ……?」

「大丈夫、無事だよ」


 無事、と言い終えた瞬間に、直人の身体が水たまりに消えた。

 親友の無事を確認して、安心したか。もともと、タイムリミットが迫っていたのか。


 やがて直人の肉体は完全に消え、真っ黒い水たまりだけが残った。表面に、ひと房の髪が浮いている。

「お、呪物。祐仁のコレクションに加えれば?」

 掬い上げようとするミズキの手を制し、橘は首を横に振った。

「直人くんを呪物にはさせない」

 もう聞こえていないとわかっていても、黒い水たまりに向かって「聡くんは無事だよ」と語り掛け続けた。


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