いつものようにひと通り呪物の手入れを終え、壁の時計を見上げた。時刻は七時過ぎ。七月の日は長く、まだ外は明るかった。
手持無沙汰に日本人形をいじるミズキに声を掛ける。
「ちょっと八重山に行ってくる」
「なんで」
ミズキが不思議そうに訊いてきた。薄暗い部屋の中、ミズキの青みがかった白目が潤んで光っている。
「今朝のお前の話が気になる。誰かが本当に八重山で遭難していたら夢見が悪い」
「夢見ってなに?」
「悪い夢を見るってことだよ。……ミズキも来るか? 八重山に行ったことがないだろう」
一人で留守番させるのも不安だ。断られても強引に連れ出すつもりだったが、意外にもミズキはあっさりと頷いた。
「岩山は嫌いだけど、木が生えている山は好きだ。いろんな生き物がいるから」
「? そうか」
ミズキのよくわからない好みを聞きながら、八重山への道を辿る。
八重山は、標高八十メートルほどの小ぢんまりとした丘陵地だ。「山」と名がついているものの、なだらかな斜面が続き、徒歩でも三十分もあれば頂上に辿り着ける。大願寺はその五合目あたりにある。
大願寺のほかは特に見所のない山なので、頂上までの山道はあまり整備されていない。道の両側には鬱蒼と木々が茂り、かなり早い時点でアスファルトから土の道に代わる。かつては大願寺を参る人たちは、車を山の麓に停め、徒歩で寺まで行っていた。
ひと気のない住宅地を抜け、小さな田畑を抜ける。近隣の者しか知らない、裏の細道から山に入って大願寺を目指した。
昨晩降り続いた雨のせいで、山の麓の川の水量がずいぶんと増していた。茶色く濁った水面が、随分と間近に押し迫って見えた。
なだらかな斜面を歩いていると、十分ほどで大願寺の山門が見えてくる。
内部は、雑草が勢いよく生い茂っていた。
本堂の板塀は、ところどころが割れ、あばら家然としている。台風や豪雨で割れたのか、良くない輩が面白半分に荒らしたか。中を覗くと、板張りの床にいくつかの靴跡が残っていた。
「何もいないな」
人の気配がないのを確認して振り返ると、ミズキが宙に向かって両手を振り回していた。
「いるよ、いろんな生き物が」
右手を勢いよく振り、羽虫を握り取ろうとしている。幼稚園児の遊びそのものだが、見た目が身長百七十センチを超す高校生なのでやや狂気じみている。無駄な殺生はするなよと、当然の注意をしたいが、アンデッドのミズキ相手だとうまく言えない。
「今朝、お前が言っていた若い男の話だよ。『一緒に友達を探して』って言われたんだろう? ここにはその友達はいないみたいだ」
「いないよ、人間は」
当然だと言うように、ミズキが応える。こちらを振り向きもしない。
夢中で遊ぶミズキを放って、念の為、本堂の中を再度検める。本堂の裏の側溝や、雑草の生い茂る手水屋の裏も見てみたが、人が倒れている様子はなかった。
草を分け入る音が聞こえて、橘は顔を上げた。
山門を潜り、男二人がやって来るのが見える。先を歩く男は、背に大きなリュック、手には三脚を抱えている。小柄だがよく日に灼けていて、全身にアスリートのような無駄のない筋肉がついていた。もう一方の男は、アスリート男の二、三歩後ろについて、男の様子をスマホで撮影していた。スマホを構える男は、中肉中背で色も白い。
アスリート男が、目を輝かせて周囲を見渡している。
騒がれる前にここを立ち去るにはどうしたらよいだろう。様子を窺っているうちに、アスリート男のほうが、先に橘たちに気付いた。
「おっと、先客がいた」
同行の男も、橘たちに気付き、まるで化け物でも見たかのように派手に肩を跳ね上げた。
「どうも」
橘は二人に向かって頭を下げた。ミズキは無言のまま、興味がないと言うようにその場を離れた。
「どうも、こんにちは! 私、カメラマンをしておりまして、写真を撮りに来たんですが、構いませんか?」
小柄な男が、物怖じしない様子でこちらに近づいてきた。職業と氏名が書かれただけの簡素な名刺を差し出してくる。
「あ、もしかして所有者のかた? すみません、許可を取らずに」
橘は間を置かず、いいえ、と応えた。
「私たちも通り掛かっただけです」
「通り掛かるって、何しに……?」
色白のほうが小さな声で呟き、辺りを見回している。こんな荒れ果てた寺へ何しにきたのだと訝っているようだが、それはお互い様だ。返事をする義理もないので黙っていた。
橘が所有者でないとわかると、小倉はすぐに「では、構いませんよね」と、撮影の準備に戻った。朽ちた本堂の前に三脚を据え、何度も角度を確認している。風景写真家、あるいは廃墟愛好家か。
刻々と日が沈んでゆき、あたりはまさに廃寺にうってつけの雰囲気になっている。
「お兄さん、写真撮ってもいいですか?」
小倉が思い出したように顔を上げ、橘を呼び止めた。
「……私ですか?」
「お兄さん、身長も高いし、なんか独特の雰囲気がありますね。もしかして、モデル経験とかあります? オーラというか、雰囲気がこの風景にぴったり」
小倉がレンズを覗く姿勢のまま、手振りで本堂の前を指さした。
「ちょっとその辺に立っていただけません?」
橘はその場から離れ、やんわりと撮影を断った。
「写真は勘弁してください。先に失礼します。どうぞごゆっくり」
「向こうにいる、あの綺麗なこもだめ?」
小倉が山門のあたりで佇むミズキを指す。ほんの一瞬しか顔を合わせていないのに、目ざとい奴だと思う。
「あのこもダメです」
橘が首を振ると、小倉は食い下がることなくあっさりと頷いた。
「そうですか」
やがて小倉はカメラに向き直り、試すように何回かシャッターを切った。
持田と言い、この男と言い、なぜ圧しの強い人間ばかり回りに集まってくるのだろう。
「ちなみに」
橘が声をかけると、小倉はファインダーを覗いたまま「はい?」と応じる。
「ここへはよく撮影に来ますか? 最近、ここらへんで何か事件があったりはしませんでした? 行方不明者が出たとか」
「事件」と聞き、色白が怯えた顔をする。さっきからおどおどと挙動不審で、漫画に出て来そうなキャラクターだなと思った。一方小倉は、カメラから顔を上げ、さあ、と首を捻った。
「先週もここに来ましたけど、特に何もないと思いますよ? 肝試しにくる連中にはしょっちゅう遭遇しますけど。どうしたんですか? どなたか探しているんですか?」
「……いえ、探しているというか」
直接の知人を探しているわけではないので明確に応えられない。
ああ、と小倉が納得したというように笑顔を見せる。
「ここで噂されている心霊話は全部でたらめですよ。幽霊なんて、いません」
出てきたら写真に収めたいくらいです、と小倉が歯を見せる。なんだか幽霊の噂を信じて怯えていると思われたようで面白くないが、何とも反論のしようがない。
「――そうですか」
オカルト話を信じてここに来たわけじゃない、と主張したいが、掘り下げられても面倒なのでやめておいた。そろそろ、飽き始めたミズキが勝手に彷徨い出す頃だ。
二人に背を向けると、背中に「あ、待って」と、小倉の溌溂とした声がかかった。
「ここへは何で来たんですか?」
「徒歩です」
「じゃあ、平気か。ふもとの橋で、事故でもあったのか警察が現場検証をしています。表の参道は車も歩行者も通行禁止になっているので気をつけて」
「……ありがとうございます」
来るときに、裏道を選んで正解だった。
山門に戻ると、ミズキが空を見上げるようして立っていた。日が落ち、夜が得意なミズキの表情は来た時よりも明るい。瞳に欄欄と光が宿っている。
「人もいないし、幽霊もいない」
「そうみたいだな。やっぱり何もなかったのかな」
「今日はいない」
「……今日は? どういう意味だ?」
ミズキは何も応えず、寺を背にして歩き出した。とにかく、こちらが心配するようなことはここでは起きていないようだ。
空には星がなく、