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第13話 水の底から

***


 行くんじゃなかった。

 なんて馬鹿なことをしたんだ。心霊スポット巡りなんて、はじめから断れば良かった。

 こんな目に遭うなんて。……二人で無事に、帰れなくなるなんて。

 もつれる脚を叱咤して、暗い通りを駆け抜ける。走れども、走れども、まるで雲でも踏むように足が地面に呑まれ、思うように進まない。アドレナリンが出まくっているのか、身体の疲労は感じない。今はただ、早く早くと気持ちばかりが焦る。早く誰かを見つけて、あいつを助けに戻らなければ。


 暗い通りが、永遠に続く。

 ひと気のある場所に、なかなか辿り着かない。当たり前だ。来る時は、あいつの車で来た。

 膝ががくがくと笑い出す頃、遠くにぼんやりと灯りが見えてきた。

 小さな赤い看板。平仮名で「たばこ」と書いてある。

 やった! ようやく人のいる場所まで来た――


***



 ぽとん、ぽとん、と小さく畳を打つ音で目が覚めた。

 布団に寝転がったまま、首を捩じって音の出所を確かめる。部屋の隅の呪物棚から、一定間隔で水滴が落ちている。畳が濡れて色を変えていた。雨漏りでもしているのかと、橘は身体を起こした。

「なんだ、なんで濡れてる……」

 棚の上のほうから、ぽとり、ぽとりと水が落ちている。傍によると、上段に飾っていた「呪われた遺髪」がぐっしょりと濡れていて、毛先から水滴を落としていた。雨でも吹き込んだのかと窓を見たが、昨夜は窓をしっかり閉めて寝た。

「なんでこれだけ……」

 他の呪物には水滴一つ付いていない。


「呪われた遺髪」は、数年前にコラムの読者から送られてきた呪物だ。読者の実家である古い一軒家の奥から見つかったそうだが、家族の誰もこの髪の毛のことを知らないと言う。なぜ家にあるのか、誰の髪なのか、本物の人毛なのか……家族全員が気味悪がり、手放したがった。そこで橘のコラムの愛読者だった長男が、編集部に送り付けてきた。

 後日、長男の調べによると、祖父の愛人の遺髪であることがわかった。愛人は、祖父の不貞を呪い、遺髪を残して入水自殺をしたそうだ。

 指三本分ほどの分量の毛束で、長さは三十センチほどあるだろうか。中間を紐で縛ってある。片側の毛先はぱつりと切りそろえられているのだが、もう片側には、乾いた皮膚のような物が付着している。切ったのではなく、頭皮ごと剥がす勢いで抜いたのかと思うと、死んだ女の恨みの深さがうかがえる。

 その呪われた遺髪が、ぐっしょりと濡れている。

「なんだよ。台風でもくるのか……?」

 何かの悪いことの前兆か……。水の事故でも起きなければいいが、と橘は窓に目を向けた。


 夜間に降っていた雨は止み、すっきりと晴れている。橘は窓を開け放ち、外の澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。

 煙草屋の横の申し訳程度の庭から、雨上がりの青臭い匂いが立ち上ってくる。まだ土が乾ききっていないようだ。


 一階に降りると、煙草屋の商品受け渡しの小窓が開けっ放しになっていた。

 煙草屋の開店時間は、日によってまちまちだ。

 早朝から始める日もあれば、昼前になって、ようやく店を開ける日もある。稀に、昼のうちに開店できず、夜間のみの営業となる日もある。

 閉店時間も決まっていない。時々、ミズキが暇つぶしに、夜通し店を開けたままにしている。ミズキは典型的な夜型で、遅く起きて正午まではぼんやりと過ごし、暗くなるにつれて元気になってゆく。


 昨夜も夜通し営業だったようだ。カウンターの上にはお釣りケースが出しっぱなし、明け方に眠気が襲ってきたのか、カウンターの下でミズキが丸くなって眠っていた。

 足元で丸まるミズキを見下ろす。

 すっかり現世に馴染み、一見すると本物の高校生のようだ。

 いつまでこうして暮らしてゆくのだろう。学校には通わせなくでいいのだろうか。自分と関わるだけの人生でいいのか? 他人とのコミュニケーションはどうやって学ばせれば……?  

 ミズキの人生。アンデッドの人生についてこんなに頭を悩ませることになるとは。


 小窓から陽射しが差し込み、空気中の埃がチラチラと光っている。

 呪物たちも日光に晒され、まるで静物画の中の果物のように大人しく鎮座している。煙草屋の唯一の窓は東側に面しており、午前中のわずかな間だけ、明るい陽射しが店内に差し込んできた。


 橘は掃除用具を手に取り、気持ちばかりの開店準備に取り掛かった。

 カウンターを拭き、小窓を半分ほど開ける。窓を半分開け放つことが、店が営業中である目印になった。ほとんど客の訪れない店だが、週に一度ほど近所に住む中国人が、十日に一度ほど、昔馴染の老爺が煙草を買いに来た。


 在庫を確認していると、裏口の扉が勢いよく開いた。大きな開閉音に、ミズキがびくりと覚醒する。

「いつもお世話になっております!」

 扉が開かれるのと同時に、スーツ姿の男が顔を覗かせた。

 定期的に煙草を納品に来る、業者の持田もちだだ。いつも場違いなほど元気で、橘たちと決定的に波長が合わない。傍らのミズキが、耳を塞いで眉間に皺を寄せている。

「おはようございます。今日は早いですね」

「ええ、ちょうどこっち方面に仕事で来る用事がありまして。ついでに補充持って来ちゃいました。ミズキくんの顔も見たかったですし」

 笑顔を向けられたミズキは、五月蠅そうにその場を離れ、店の隅で膝を抱えた。持田のトークが煩わしかったのもあるし、窓から差し込む光を避けたようにも見えた。

 長く闇の中に漂っていたらしく、ミズキは、日光や明るい光にめっぽう弱い。現世に戻って一年ほどになるが、いまだ光に当たる時間が長いとひどく消耗するようだ。自然と、ミズキの活動時間は夜間になった。



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