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第11話 逢魔時の煙草屋

「こんばんは。またいらしてくださったんですね」


 脳に直接響くような低い声で、意識が覚醒した。

 顔を上げると、目の前にあの長身の兄がいた。

「……あ、」

 いつの間にか、青年の手は外れていた。わたしは、煙草屋の前の狭い通りにぼんやりと突っ立っていた。――今、何時だろう。あたりが薄闇で、早朝か、夕闇か、それとも火事の煙にでも巻かれているのか、何もかもわからない。


 ぼんやりしているわたしの目の前で、兄はタバコを咥えた。優雅な仕草でマッチを擦って火を点ける。真っ黒いパッケージの、見たこともない銘柄のタバコだった。

 ずしりと、肩掛け鞄が肩に食い込む。立っているのもやっとで、項垂れたまま目玉だけを動かし兄を見上げた。


「おや、」

 兄の視線が、わたしの右肩に留まる。

「もうすっかり圧し掛かられて」

 重いでしょう、と労わるように微笑みかけられた。

 わたしは弾かれたように顔を上げ、兄の視線の先を追った。右肩を見るが、今は何も見えない。

「あなたにも、見えるんですかっ……!」

 助けて、と縋ると、彼は苦笑した後、もう一口ゆうゆうとタバコを吸い込んだ。ひとが困っている時に……。腹立たしく思ったが、今、頼れるのはこの兄しかいないと思うと何も言えない。


 兄はわたしの右肩に向かって、ゆっくりとタバコの煙を吹きかけた。

「ひっ……」

 煙の隙間に、またあの腕が見えた。今度は、血の気を失った、ドス黒い爪まで確認できた。その爪が、今にもわたしの胸に食い込みそうで、脈が激しく乱れた。

「こ、これはっ、いったい何なんだ!? どうしてわたしの肩にっ」

 兄は悠然と微笑んだ。

「どうしてって聞かれても。知りませんよ。あなたが、この女性に何かしたんでしょう?」

「な、なにか……?」

「この女性、死んでますよね? あなたが、殺しちゃったんですか?」


 ――――殺した……?

 足を投げ出して寝転ぶ今井――。


 許せなくて、憎らしくて、夢中で鞄を振り下ろした。 

 爪先が何度か震え、動かなくなった……。やり過ぎか、と一瞬肝が冷えたが、すぐに裏切られた悔しさが僅かな理性を塗り潰した。――大丈夫だろう。少し叩いたくらいで、人間が死ぬわけがない。それにこれくらいの仕打ち、受けて然るべきだ。親切にしていた上司を陰で裏切っていたのだから。今井を放ってアパートを出た。


 あの後、彼女は――。


 しばらくして起き上がり、あの汚い部屋で怠惰に過ごしていたのだ。わたしと顔を合わせるのが気まずくて、ずる休みをしていた。ただそれだけだ。


 だが、……もし起き上がらなかったとしたら?

 わたしの、あの殴打で……。わたしは……、わたしが……。

 わたしが、今井を――。


「し、死ぬなんて、あれしきで、死ぬなんて!」

 気を失っていただけだ。あの後、すぐに起き上がり、会社をさぼっていただけだ。あれしきで……、少し頭を殴ったくらいで、死ぬわけがない、死ぬわけが……。


「つ、つまりこれは、死んだ今井の幽霊で、わたしをっ、わたしを恨んでいるというわけかっ? そんな! 殺すつもりなんてなかったんだ! 少し突き飛ばしたら、起き上がらなくて……。なんとかしてくれっ! 肩が、肩が重くて死にそうだっ」

 必死で兄に縋る。しかし、兄は相変わらずゆったりとタバコをふかしている。

「残念ですが、私は見えるばかりで、何もできないんですよ」

 そう言って、もう一度わたしの肩に煙を吹きかける。今度は視界の端に、肩に垂れかかる、幾筋もの黒髪が見えた。恐怖と重みで立っていられず、その場に膝を着く。一度崩れ落ちると、身体が鉛のように重く、もう二度と立てない気がした。兄の膝に縋りつく。

「では君の弟は!? 彼、そうだ彼なら! 化け物を祓えるんだろう!? はじめにこれに気付いたのも彼だった!」

 兄の身体越しに青年を見る。青年は煙草屋のカウンターに頬杖をつき、こちらをぼんやりと見下ろしていた。


 唐突に、腑に落ちた。

 侘しい場所にたつ、寂れた煙草屋。浮世離れした雰囲気の美青年たち。とても商売人には見えない彼らには、他に生業なりわいとしていることがあるのでは? 

 妙な力や小道具で、幽霊を具現化して見せる特殊技能もある。彼らはきっと、霊能者や霊媒師と呼ばれる、特別な力を持った人間なのだ。わたしのような、不幸な目に見舞われた人間を救う。わたしは来るべくしてこの煙草屋に辿り着いたのだ。


 わたしは、兄の身体越しに青年に助けを求めた。

「きみ、助けてくれっ! これをっ、これを何とかしてくれ!」

「……弟? ああ、あのこのこと」

 しかし、答えたのは兄だった。困ったような笑顔で溜め息を吐く。

「それこそ無理です。あのこは――」


 何かが頬をくすぐり、兄の声が遠のいた。

 右肩に、女の顔が乗っていた。

 顔を横に振れば、頬が触れんばかりの位置に。風になびく蓬髪が、頬を撫でる。

 髪があるから頭部だとわかるが、顔はない。陰がかかったように、墨でも吹き付けられたように、顔の部分が真っ黒だ。けれど、こちらをじっと見ているのだとわかる。


 ――今井だ。

 直観的に、今井だとわかった。かつての面影は完全にないが確かに今井だ。わたしを、恨んでいる。恨みの権化と化している。


 ――あの時、薄々感じていた。

 首を不自然な方向に曲げたまま動かない今井。……殺したかもしれないと。けれど、必死で打ち消してきた。死ぬわけがない、あれしきで。死んだとしたら、不幸な事故だ。死ぬわけがない。わたしが、何の罪もないわたしが、殺人をするなんてあり得ない。そんなこと――――


 張り詰めていた糸がついに切れ、意識が途切れた。



【女性を殺した容疑者、山中で見つかる】


 埼玉県和幸市のアパートで、住人の女性が頭部を殴られて殺害された事件で、埼玉県警は、昨日、四十代の男性を逮捕した。

 逮捕されたのは、殺害された女性と同じ職場に勤務する笹倉勉ささくらつとむ容疑者(四十九)。笹倉容疑者は一昨日から職場に出社しておらず、千葉県花取市の山中で衰弱しているところを逮捕された。県警は今後、容疑を殺人に切り替えて動機などを追及する方針。

 この事件は、十一月三日の午後八時ごろ、和幸市のアパートの一室で、この部屋に住む二十代の女性が殺害されているのが見つかったもの。女性は頭部が激しく殴られ、玄関先で死亡していた。死後一週間ほどたっているものと見られている。他、玄関に押し入った形跡がなかったことから、埼玉県警は、顔見知りによる犯行として捜査していた。

 逮捕された笹倉容疑者は、すでに和幸警察署に身柄を移送されている。笹倉容疑者の勤務先の社員は「もともと物静かな人。人殺しをするなんて信じられない」「あまり喋らず、何を考えているのかわからない人だった。最近は外回りをしてばかりで、あまり社内にいなかった」と話す。

 現場は東武東上線和幸駅から、西に一キロほど離れた住宅街。通報した男性は、「数日前から異臭が酷かった」と語った。



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