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最初に声を掛けて来たのは、今井のほうだった。
「よろしければ、一緒に洗いますよ」
カップを洗おうと給湯室へ行くと、事務の今井まど香が、来客用の茶器を洗っているところだった。マイカップを手に立ち尽くすわたしに向かって、濡れた手を差し伸べてくる。
この部署に異動してきて三年、カップを洗おうと申し出てこられたのは初めてだった。ITスキルの低いわたしは、常々、部署内でお荷物扱いされているのを感じていた。年齢だけで管理職になれたのだと、陰で噂されているのも、もちろん知っていた。そんな
以来、わたしは特別に今井に目をかけるようになった。
事務主任の佐藤が言うように、今井は物静かだが責任感の強い女性だった。化粧や服装ばかりに気を使う怠惰な事務員とは違い、真摯に職務に向き合い、真面目だった。清楚で、いつも落ち着いた服装をしているのも好ましかった。
わたしは、常に今井を見守り、不安そうにしていれば声を掛け、質問をされれば丁寧に指導した。
今井が体調不良で会社を休んだ時には、家まで食事を差し入れに行った。東北から上京し、埼玉のアパートで一人暮らしをしていると聞いていたから心配だった。食事にも苦労していることだろう。以前、個人情報のファイルを確認し、住所は調べてあった。
「風邪を感染してしまうから」と、今井はわたしに会おうとはしなかった。わたしは、仕方なく弁当や飲み物の入った袋を玄関のドアノブに引っかけ、帰途に着いた。
礼を欠いたふるまいだ。わざわざ訪ねてやったのに、顔も見せないとは……。少々腹立たしく感じたが、しかし、わたしを気遣っての対応だと思うとやむなしと思えた。真面目な彼女らしいと言えば彼女らしい。
二度目に今井のアパートを訪れたのは、彼女が貧血で会社を休んだ時だった。――一週間ほど前の、金曜の夜。
わたしはまた、食事を差し入れに今井のアパートに向かった。今度は、風邪のように
ところが、チャイムを押すと今井は扉も開けず「帰ってください」と金切り声を上げた。
「帰ってください、お願いです!」
一瞬呆然としたが、気を奮い立たせた。
「突然訪問してすまない。部屋が片付いていないのなら、ここで待っているよ」
寝間着姿でいるのか。それとも、部屋の掃除を怠っているのか。わたしは急な訪問を詫び、散らかっていても構わないと伝えた。
だが今井は、扉の内でいっそう声を張り上げた。
「そうじゃありません! この前も申し上げましたが、どうしてうちの住所を知っているんです!? こっそりと調べたんですか? ……信じられない、怖いです!」
――思い切り、横っ面を張られた気がした。
心配して来てやったのに。
臥せっているだろうと、食事まで持ってきてやったのに。
これだけ心配させておいて「帰れ」? 「怖い」? 上司が部下の体調の心配をして、何が怖いと言うのか。
わたしは怒りで早鐘を打つ心臓をなんとか抑え、声が震えないよう唾を飲み込んだ。
「……わたし一人で来たんじゃないよ。君の欠勤が多いのを心配して、今日は事務主任の佐藤さんも一緒に来ているんだ。今後の君の業務分担について相談をしようと思ってね」
「えっ……」
扉の内で、今井が小さく息を飲む。
今井が、覗き窓から様子を伺っている気配を感じ、わたしはそれらしく振り向いて、背後に向かって手招きをした。
「佐藤さん、こっちだ。――とりあえず、扉を開けてくれないか? 三人で、今後の仕事の進め方について話をしよう」
すぐに、かちりと鍵の回る音がした。
細く扉が開き、「佐藤主任も……?」と、今井が顔を覗かせる。
わたしはすかさず靴の先を隙間に差し込み、勢いよく扉を開いた。驚いた今井が、目を見開いたまま
「さ、佐藤主任は!? 嘘を吐いたんですか? 最低――」
言い終わらないうちに、肩を思いっきり突き飛ばす。小柄な今井は、人形のように後ろへ吹き飛び、廊下に転がった。
靴のまま上がり込み、狭い廊下に倒れ込む今井を見下ろした。
頭でも打ったのか、呆けたように仰向けになっている。淡い色のパジャマに、グレーのパーカーを羽織っていた。パーカーはサイズが大きく、肩の線が合っていない。 自分のものではないのかもしれない。――男のものかもしれない。
視線を上げると、廊下に設えられた小さなキッチンに、カップラーメンの空き容器が置かれていた。使った割り箸が、刺さったままだ。
開け放たれた扉の奥に、衣類が散らばった居室が見える。
――だらしのない……。
今井はまだ、ぼんやりと天井を見詰めたまま、起き上がる気配がない。肩をはだけ、両脚を広げ、突き飛ばされたショックでか、ぼうっと寝転がっている。
だらしのない女。
さんざん淑やかそうに振る舞って、わたしを騙した。
――急に、目の前の女が許せなくなった。こいつも他の奴らと同じ、わたしを影で馬鹿にしていたに違いない。
「俺を騙しやがって!」
起き上がらない今井の頭をめがけ、書類の詰まった鞄を振り上げた――
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