A社を訪ねたが、担当者は不在だった。
リモート勤務をしており、今日は出社していないと、対応に出てきた女性社員が言った。
では、彼の部下や業務を共有している者は? と尋ねるわたしを、女性社員は冷たく遮った。
「申し訳ございませんが、今日は部署のほとんどの者がリモートをしております。それに、」
女性は訝し気にわたしを見上げた。
「高橋から、御社との契約は終了したと聞いておりますが、今日の面会はお約束していたのでしょうか?」
一方的な物言いに、わたしは閉口した。――契約が終了したら、会いに来るなと言っているのだろうか。
足繁く通う取引先に対し、なんという応対だろう。リモートだのテレワークだのと時流に乗った単語を並べ、長年の付き合いを軽んじるとは薄情な。抗議しようかと思ったが、この女性に言っても無駄だと思い、A社を出た。
むしゃくしゃした気分のまま、駅を素通りして線路沿いを歩いた。しばらく歩いて、頭を冷やそうと思った。
煮え立つ頭に浮かぶのは、あの煙草屋の、涼し気な青年の顔だった。
無性に彼の顔が見たくなった。彼の、わたしを頼る素振りや縋るような視線が恋しかった。それに、彼はきっと今、安全でない環境にいる。好き好んであの煙草屋にいるようではない。彼が困っているのなら、わたしが救いの手を差し伸べなければいけない。
すっかり通い慣れた道を辿り、赤錆の看板を目指す。
「こんにちは」
腰を屈めて小窓を覗くと、奥から青年が出て来た。
焦ることなくゆったりとカウンターに着き、あのとろりとした視線でわたしを見上げてくる。
「――はい、なんでしょう」
青年は、いつもわたしの顔をじっと見る。この熱っぽい視線……やはり、あの怪しい男から救い出してほしいと助けを求めているのだろう。あの男が、兄かどうかすら怪しい。
わたしは素早く周囲を見渡し、兄がいないことを確かめた。
「わたしに言いたいことがあるんじゃないのかい? 何か困っていることがあるなら言ってほしい」
「……」
予想はしていたが、青年は無言だ。
やはり、と予想が的中する気持ちと、はっきりとしない態度への苛立ちが、混じり合った。そこに、明らかに下の立場の人間を前にして感じる、仄暗い喜びも加わった。
この青年も運がいい。わたしのように、大らかで面倒見の良い人間はごく稀だ。
「はっきりと言ってごらん。君が言ってくれないと、わたしもどうもしてやれない」
「はっきりとって、何を?」
青年の察しが悪く、わたしはほんの少し苛立った。
「何って、困っているんだろう? わたしに、助けてほしいんだろう?」
「……? 別になにも困っていない」
「ではなぜ、わたしのことをじっと見つめるんだ」
青年は、かすかに目を丸くした後、溜め息を吐いた。
「あんたを見ているわけじゃない」
「あんた」と呼ばれ、カッと血が上った。呆れたような物言いも許しがたかった。
「何だその口の利き方……それが客に対する言葉か? 初めから酷い接客だと呆れていたんだ!」
青年は何も返さず、涼しい顔でわたしを見返す。
「ほら! そうやってわたしの顔をじっと見るじゃないか!」
怒りに任せて青年の手首を掴んだ。
青年の肌に触れた瞬間、心臓が竦んだ。
冷たい。生物に触れたとは思えない冷たさだ。
皮膚の感触も妙にさらさらとしていて、潤いや、血や肉といった人間の組織をまったく感じなかった。触れてはいけないものに触れた気がして、わたしの手は、青年の手首を掴んだ状態で固まった。
「ねえ」
青年のほうから、わたしの手首を握り返してきた。それほど強い力ではないのに、危険な工具に挟まれでもしたような、不安な心持ちになった。
青年が、上目遣いにこちらを見て、ゆったりと微笑む。零れ落ちそうな大きな目が細まり、なだらかな弧を描いた。
この青年が微笑んだら、どんなにか美しいだろうと、何度か妄想したこともあった。
しかし実際に目にした彼の笑顔は、どことなく恐ろしく、背筋がぞくりと冷えた。あと一ミリどこかがずれたら、すべてが崩壊してしまいそうな危うさ――。美しい白蛇が、鎌首をもたげてこちらを睥睨しているようだ。あんなに青年の笑顔を望んでいたのに……。度の過ぎる美しさとは、怖しさと紙一重なのかもしれない。
「あんたを見ていたわけじゃないけど。――重くないの、それ」
何を問われたのかわからず、わたしは、おどおどと訊き返した。
「こ、この鞄か?」
わたしは、左肩にかけていたビジネスバッグを揺すり上げた。
「確かに重いが、大したことはない。仕事に必要な書類が入っているだけで……」
しかし青年の視線は、鞄を捉えてはいなかった。鞄をかけた左肩ではなく、右首筋の辺り、いや右肩の辺りに注がれていた。
「それ。その、肩の上に載せた
「?」
青年の視線を辿って、鞄とは反対側の、右肩を見る。
白いものが視界の隅を掠め、反射的に目で追う。首筋が無理な角度で捩じれる。痛みが走ったが、呻き声は喉元で詰まった。
上着の肩に、人の腕が載っていた。
肘から下の部分が、わたしの右肩からだらりとぶら下がっていた。まるで親しい者同士が肩を組むような形で。青白い肌に、幾筋もの紫色の血管が浮かび上がっている……
「うわぁっ」
反射的に、腕が載る右肩とは反対側に飛び退いた。それでも、依然として腕は載ったままだ。青年の手も、わたしの手首をがっちりと掴んだまま外れない。
「ひっ、ひっ」
肩の上の腕を直視できず、顔を反対に背けながら青年に問うた。
「これはっ、これはいったい……!?」
青年はまだ嬉しそうな表情をして、わたしの肩あたりをじっと見ていた。
「君がっ、君がこれを、……これは君の仕業か!?」
青年が首を横に振る。
「まさか。初めて会った時から、肩に載ってたよ、その腕」
青年が笑みを深くする。
「女の腕だ」