人の少なくなった時間を見計らってオフィスに戻ると、なるほど、「未処理」ボックスに書類の山が出来ていた。無造作に積まれた書類やファイルが、今にも雪崩を起こしそうになっている。
わたしは、
「笹倉課長、すみません」
せっかく仕事にとりかかろうとしていたのに、冷たい声に遮られた。顔を上げると、いつの間にそばに来ていたのか事務主任の佐藤が立っていた。佐藤は、わたしが異動してくるよりずっと前からこの部署に在籍している古株の女性社員だ。
「今、よろしいですか」
佐藤は、慇懃な言葉遣いとは裏腹に、冷ややかな表情でこちらを見下ろしてきた。
「お疲れさま、佐藤さん。まだ残っていたんだ」
わたしは、出鼻をくじかれた苛立ちを微塵も見せず、佐藤に笑顔を向けた。にもかかわらず、彼女は表情筋の一つも動かさなかった。「あの!」と、刺々しい声で語尾を跳ね上げる。
「回ってきた書類は、なるべく早く処理していただけませんか? この中には指定日必着の請求書も混じっているんです。請求書が遅れでもしたら、入金してもらえないかもしれないんですよ? みんな、困っています」
佐藤の三角に尖った目を視界に映さないよう、わたしは手元を見たまま頷いた。
「――すまない、このところ、忙しくてね」
「お忙しいところ恐縮ですが、くれぐれもお願いします。課長の承認が遅くて請求書が間に合わなかった、なんて、先方には通用しませんから。これを機に、課長もオンラインの承認システムに切り替えたらいかがですか。他の課長はみんな、」
「わかったよ。気をつける」
気を抜くと舌打ちしてしまいそうで、歯を食いしばりながら頷いた。
「………それと」
――まだ何か文句があるのか。
溜め息を飲み込んで佐藤を見上げると、彼女はそれまでの冷たい口調を改め、言いにくそうに切り出した。
「今井さん、何かあったんですか……? 先週から欠勤が続いていますが。入院でもしているんですか?」
「ああ」
文句ではないとわかり、わたしは内心で安堵しながら、大仰に溜め息を吐いてみせた。
「いったいどうしたんだろうね。電話もかけてみたが、出ないんだ」
え! と、佐藤が芝居じみた仕草で口を押さえた。
「緊急連絡先には?」
「明日にでもかけてみるよ」
「今井さん、どうしたんでしょう……。警察に連絡したほうがいいのでしょうか」
大袈裟なことを言い出す……。どうして女はこう、小さなことで騒ぎ立てるのだろう。佐藤に気付かれないよう、わたしは溜め息を噛み殺した。
「あまり大ごとにしてしまうと、今井さんも出社し辛くなるだろう。明日にでも親元に連絡してみるから、そう心配しないで」
「……ですが」
佐藤が眉を顰めた。
「今井さんは責任感の強い女性です。連絡もせず何日も休むなんて考えられません」
佐藤がわたしのデスクの上にある卓上カレンダーをちらりと見た。一昨日から月が変わり、十一月に入っていた。
「事件かなにかに、巻き込まれているんじゃ……」
――また突飛なことを。わたしは冷めた目で佐藤を見返した。
「事件? 事件って、どんな?」
「わかりませんけど、……誘拐とか」
「誘拐? ……っふ」
堪えきれず、口から笑いが漏れた。佐藤があからさまにムッとする。
「悪い、悪い。誘拐だなんて言い出すから。小学生じゃあるまいし、携帯電話を持つ成人女性を、いったい誰が、何の目的で誘拐なんてするんだ」
「でも」
まだ言い足りなそうな佐藤を遮り、わたしは書類の山に手を載せた。
「八時だ。さあ、もう帰ったほうがいい。今井さんの件は、明日にでも対応しておくから。もちろん、書類もちゃんと片付けておく」
仕事に戻ると告げると、佐藤もおとなしく引き下がった。
「お仕事の邪魔をしてすみません」
軽く一礼をして、佐藤がオフィスを出て行った。
デスクに向き直る。一人になり、あらためて卓上カレンダーを見た。――十一月二日。
――あれから五日め。何日休む気だ? こちらの気を引きたいのだろうか。……なぜ、出てこない?
思考が、覗いてはいけない深淵に近づきそうになり、慌ててかぶりを振る。
ついでに凝り固まった首回りをほぐすように、何周か首を回す。十一月ともなれば屋外はそろそろ寒い。身を縮こめて煙草を吸うせいか、このところ肩が異常に重かった。相当凝っているようだ。