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第6話 逢魔時の煙草屋

 ついにわが社のビルも全面的に禁煙となり、喫煙者は、通りを渡った場所にある、区の指定喫煙所を利用しなければならなくなった。いちいち外に出るのが億劫な上、業務中にタバコを手に立ち上がろうものなら、事務の女性に眉をひそめられた。愛煙家は、肩身が狭くなる一方だ。


 寒風に晒されながらタバコを取り出していると、隣の部署の男がやってきた。わたしに気づくと、「っす」と、舌打ちのような挨拶を寄越し、隣というには微妙な位置に並び立った。

「お疲れさま」

 手本を示すような気持ちで、丁寧に挨拶を返す。

 年若い同僚は、かくっと首を折るようにして会釈した後、タバコをくわえた。若い女性が好みそうなメンソール系のタバコだった。

「……」

 世間話をしたほうがよいのかどうか迷い、落ち着かない気分になった。

 彼は隣の課の課長で、名ははやし。役職はわたしと同じだが、一回り以上も年下の三十五歳で、一歩オフィスを出れば縁のない人間だ。こうして隣り合っても、何を話してよいのかわからない。

 仕事の進め方も自分とはかけ離れていて、常々、林が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。

 彼は毎日zoomを起ち上げ、誰とも知れぬ相手と画面越しに話をしている。メールとチャットツールを駆使し、ほとんど取引先を訪ねることがないようだ。ゆえに、時間に追われることもなく、ほぼ毎日、定時に退社している。残業をするのは、せいぜい月末の繁忙期のみだ。それを周囲は「仕事が早い」などと評価するものだから、わたしは首をひねるばかりだった。

 営業とは、靴底を減らして地道に取引先を訪ね歩くものではないのだろうか……?


「いよいようちのオフィスも、禁煙になっちゃいましたね」

 唐突に、林が砕けた調子で話しかけてきた。

 世間話を振られたことに安堵しながら、わたしは自然を装って頷いた。

「そうだね」

「そろそろ俺も禁煙しようかな。俺の同期も、禁煙するって言ってクリニックに行こうとしてるんです。禁煙パッチって言うんですか? こう、腕に丸い絆創膏みたいなの貼って」

 林が親指と人差し指で輪を作り、二の腕に当てて見せた。

「効くんですかね、あれ」

「どうだろう」

 わたしは、くだらない話を聞き流しながら、当たり障りのない相槌を打った。

「しかも結構高いらしいんですよ。二週間分で一万円。それでろくに効き目がなかったら、笑えますよね」

「……そうだな」

 タバコをくわえながら喋るため、もごもごと発音が篭り、ところどころ何と言っているのか聞き取れない。適当に話を合わせる。

「いきなりゼロってのもキツイみたいで。手始めに軽めのタバコに変えようとしたらしいんですよ。キャメル吸ってたらしいんですけど、アメスピに」

「ああ、うん」

「で、営業帰りにコンビニで、最後のひと箱を買おうと思ったんですって」

「そう」

「そうしたら、そのコンビニの店員が好みのタイプだったらしくて、『もう一回あの店に行って、彼女に話しかける』なんて息巻いてました。ありゃ、ついでにタバコも買って、結局辞められないパターンだな」

 何が可笑しいのか、林は、タバコをくわえたまま引き攣るように笑った。


 林の「店員」の一言で、わたしは昨日の浮世離れした美しい青年を思い出していた。

 彼は学生だろうか? 高校生、いや大学生か。やや暗い印象だったが、最近の若者のように髪を染めたりせず、清潔な美しさを備えていた。きっと、しっかりとした両親に育てられたに違いない。

 あとから現れた長身の男は、やはり兄だろう。古い煙草屋におよそ不釣り合いな、涼やかな風貌の青年たちだった。本来ならば、腰の曲がった老婆がカウンターに座っていそうな店なのに。普段は彼らの祖父母が切り盛りしている店なのかもしれない。次の訪問で確かめてみよう。


「ところで笹倉ささくらさん、電子承認まだ使ってないんですか?」

 ふいに話題が変わり、目の醒めるような思いで顔を上げた。

「……電子承認? ああ、使っていない」

 何だ、急に。

 適当に流したにもかかわらず、林はしつこく食い下がった。

「便利ですよ、電子承認。出先でもできますし。ほら、笹倉さん外出多いじゃないですか? 事務の女性たちが、笹倉さんのところで書類が止まってしまうって困っているみたいです」


 オフィスに長くいるせいか、林は女性陣の信頼を一手に集めていた。わたしは林に悟られないよう小さく鼻を鳴らす。

 なるほど、事務の女性らに泣きつかれたというわけか。彼女らも彼女らだ。書類の回りが遅いくらいで、いちいち他部署の人間に告げ口のような真似をしないでほしい。

 会社は、書類仕事で成り立っているのではない。営業マンが足で稼ぎ売上を上げるからこそ、はじめて会社が利益を得られる。そこを少しは理解してほしいものだ。

 催促するにしても、タイミングを見て慎ましく声を掛けてくれれば、わたしはいくらでも対応するのに。

 伏し目がちに喋る、物静かな事務員の姿が脳裏を過った。あんなふうに控え目に、わたしの仕事の合間を見計らって声をかけてくれたら――


「いいですよ、電子承認。設定、手伝いましょうか?」

 再び林に問いかけられ、我に返った。

「……結構だ。書類は今夜にでも処理しておく」

 察しの悪い林は、なおも話を続ける。

「手伝いが必要になったらいつでも声をかけてください。それから、笹倉さんの部署の事務の女性、大丈夫ですか? 休み始めて今日で三日目……」

「平気だ。構わないでくれ」

 しつこく食い下がる林を振りほどき、わたしは喫煙所を後にした。


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