会社に戻ろうか。それとも、このまま「直帰」としてしまおうか。午後四時少し過ぎ、判断に迷う時間だ。
今から急いで戻れば、五時半過ぎには職場に辿り着く。
わが社は六時終業だから、ほとんどの社員がオフィスに残っていることだろう。周囲に、真面目な勤務姿勢の片りんを示すこともできるし、小一時間ほど、なにかしらの雑務を片付けることもできる。
しかし、どうにも気乗りがしなかった。
勇んで就業間近のオフィスに戻ったとて、誰かが労をねぎらってくれるとは思えない。
自分の帰りを、心待ちにする者がいるとも思えない。
隣の席の男が、口の中でもごもごと、適当な挨拶をよこすだけなのが容易に想像できた。
若者だらけの部署で、四十九歳という年齢だけで管理職になれたのだと噂されているわたしには、オフィスに居場所などなかった。
取引先を訪ねた帰り、わたしは千葉のとある町を歩いていた。
市街地から外れ、閑散とした地域だ。顔を上げると、遠くに山の稜線が見える。一日の終わりの強烈なオレンジ色の光に照射され、自分がまるで、光で滅菌される細菌かなにかになった気分だ。
わたしはポケットの中の百円ライターを指先でもてあそびながら、地面に靴底を擦るようにして歩いた。気が付いたら、就業間近になっていた――そうなるのを期待して、ことさらゆっくりと歩を進めた。
ふと、視線の先に赤いものが掠めた。
二十メートルほど先の軒先に、何か赤いものがぶら下がっている。近付いてゆくと、平仮名で「たばこ」と書かれた、錆びた看板だった。田舎の古めかしい小売店でよく見かける、赤いあれだ。赤い塗料がだいぶ薄れ、さらに全体に錆びがびっしりと浮いていた。
看板の下には、商品を受け渡しする木製の小窓があった。小窓の下の陳列ケースは、ひどくガラスが煤けており、中に何が飾られているのかさっぱり見えない。外に自販機の類はなく、ぼんやりとしていたら通り過ぎてしまいそうな店だった。
あまりにも寂れた佇まいの煙草屋に、思わず足を止めた。
小窓の奥に、ほんのりと灯りが見える。辛うじて営業しているようだ。ガラス窓も半分開いている。
ちょうどタバコが残り少なくなっていた。一箱調達して帰ろうと、その古びた小窓に近づいた。
「すみません」
小窓のガラス戸が細く開いているものの、中に人の気配がない。
腰を屈めて覗き込んでみると、奥に光源はあるが、店の内部はちっとも見えなかった。ひどく濃い闇が店内を満たしている。暗いというより、黒く湿った
わたしは、再び声を張り上げた。
「すみません、誰かいませんか、……っ!」
目の前の小窓から、ぬるりと白い腕が伸びてきた。
辛うじて悲鳴は抑えた。が、肩が跳ね上がるのを抑えられなかった。
わたしの呼び掛けに、店員が慌てて対応に出てきたのでもない。小窓の下から、誰かが立ち上がったのでもない。腕は、闇の中から伸びてきた。本当に突然、なんの前触れもなく、マネキンのような白い腕が現れた。
肘から上、白い半袖の袖口から肩、と、するすると腕の正体が露わになる。
「――はい?」
掠れた声と共に、色白の顔が現れた。
ひどく色の白い、少年……いや青年だった。ほっそりと長い首の上に、男とも女ともとれる滑らかな輪郭の顔が乗っている。肌が白磁器のように白く、作り物のようだ。伸びすぎた前髪の隙間から、気だるげな二重の大きな瞳が、じっとこちらを見上げている。
「なにか?」
今まで出会った中で、最も綺麗な人間だと思った。
一瞬、女かとも思った。しかし、筋張った手の甲や、しっかりと突き出た喉ぼとけを見て、やはり男だと思い直した。
濁りのないガラス玉のような目を見ていると、実家にあった菊人形を思い出す。血の気の無い白い頬は、本当に陶器のようで――。
「おじさん? なにか用?」
ぞんざいに問いかけられ、はっと我に返った。
青年は、微かに眉間にしわを寄せ、鬱陶しそうにわたしを見つめている。わたしは、小さく咳払いをしてから「マイセン一つ」と答えた。
「――マイセン」
青年が掠れた声でわたしの言葉を鸚鵡返しにした。それきり、ぼんやりとこちらを見つめ返すばかりで動こうとしない。タバコの銘柄がわからないのだろうか? 未成年で、アルバイトを始めたばかりとか……?
普段は彼の祖母か祖父がこの煙草屋を経営しているのかもしれない。そう思うと、さっきからのぞんざいな口調や、まるでなっていない接客態度も、許せるような気がした。
「マイルドセブン。ほら、その横にある青い箱。今は『メビウス』って名前になっているんだっけ?」
右の棚を指さして教えると、青年は、緩慢な動きでタバコをひと箱摘まみ、無造作にこちらに放ってよこした。
「……」
再び無言。金を払わずに持ち去っても、済まされそうな雰囲気ですらあった。そういうわけにもいかず、わたしは金額を口にしながら、カウンターに小銭を置いた。
「五百四十円」
この様子だと、釣り銭の受け渡しにも手間取りそうだと思ったからだ。案の定、青年はカウンターに置かれた小銭をただじっと見ている。
おかしな青年だ。
学生だとしても、あまりに頼りない。
わたしは青年の反応を待たず無言で店を離れた。足早に道を進み、煙草屋から死角になる物陰まできて足を止めた。くるりと背後を振り返り、煙草屋を窺う。
ここからはもう、青年の姿は見えない。
「……変なこだ」
奇妙だが、美しい青年だった。あの綺麗な顔を、もう少し拝んでいてもよかった。
見つけたときと同じように、煙草屋はすっかり人の気配を失っていた。小窓から弱い光が漏れ出ているものの、物音も、なんというか、人のいる温度のようなものがまるでない。このような有様で、商売が成り立つのだろうか。こんなひと気のない住宅街で。
かつて西新宿の高層ビルにあった取引先が、この春、千葉へと移転した。
テレワークが主流となり、社員全員が一堂に会する機会がすっかり減ったそうだ。これを機に、若き二代目社長は、自身の地元である千葉県の山沿いの町にオフィスを構えた。環境は素晴らしいが、都内に住む社員たちは通勤時間を倍にして千葉に通う羽目になった。付き合いの長い担当者が、「通勤に二時間かかるようになってしまいました」などと苦笑していた。
「ですが出社するのは週に一度ほどなので、それほど苦でもないですがね」とも言っていた。
そこを訪れた帰りだった。取引先の最寄りの駅から二駅、乗り継ぎのために下車した駅で、気分転換に周辺を歩いてみようと思い立った。先述の通り、早く社に帰ったとて、やることもない。
このあたりは本当に静かだ。
所々に民家が点在しているものの、夕飯の支度の香りも、子どもたちの声もしない。
家から漏れ出るテレビの音や、家族の談笑といった生活音もまったくない。車も通らず、本当に静かな――
「あのこ、釣り銭を間違えませんでしたか?」
「ぅわっ」
耳のすぐそばで男の声がして、今度こそ派手に悲鳴を上げた。
振り向くと、肩のすぐそばに彫りの深い顔があった。背の高い男が、背後からわたしの肩に顎を乗せる勢いで顔を寄せてきていた。いつの間に背後に? 足音も、気配もまったくしなかった。それに、普通に言葉を交わす距離にしては、ちょっと近すぎる。
「釣り銭、合っていますか? お客さん、あそこでタバコを買われたんでしょう?」
男は視線で、煙草屋のほうを示した。
「……ええ、いえ。ええ、……大丈夫です」
わたしは、しどろもどろに返事をしながら、大男から距離を取った。
見上げるほど背の高い、端正な顔立ちの男だ。目も鼻も口も、恵まれた造りをしているのに、全体的にどこか陰鬱な印象を受ける。真っ黒い癖毛の隙間から覗く、三白眼のせいだろうか。
上下黒っぽい服を身に着けており、そのせいか、彼の顔もひどく蒼白に見えた。
「そうですか、よかった」
あのこ、まだ慣れていなくて。ですから心配で。男はそう言って、軽く頭を下げて煙草屋へと向かって行った。
抜けるような白い肌と、整った容貌がどことなく先ほどの青年と似ている。兄だろうか? 父というには若過ぎる。
彼らの白い肌に
顔を上げると、すっかり日が落ちている。燃えるような赤い陽と、これから訪れる夜の闇が混じり合い、空が禍々しい色合いに染まっていた。
時計を見ると、六時を過ぎていた。
いつの間にこんなに時間が過ぎたのだと愕然とし、あわてて社に電話を入れた。出先から直帰する旨を伝えると、機械的に「了解です。お疲れさまです」と返され、すぐさま電話を切られた。――なんだ、焦る必要などなかったのだ。
携帯電話をしまうと、靴のつま先も見えなくなるほど日が落ちていた。
時間の経過が、体感とうまくリンクしない。寂れた店でタバコを買い、長身の男と二言三言、会話しただけ。それだけなのに、地球が自転を速めたように時間が経過していた。黄昏時とは、いつもこんなだっただろうか。
最後にもう一度、煙草屋の方を振り返る。
小窓の奥の灯りも消え、そこに煙草屋があったのかどうかもわからぬほど、闇に沈んでいた。