日の出荘の家賃は手渡しで支払うシステムになっており、毎月月末になると、現金を持って大家の部屋を訪ねていた。アナログだが、お互いの生存確認も兼ねていてなかなか理にかなっている。
いつも通りに家賃を収めに行くと、大家に呼び止められた。
「やあ、知り合いにミカンを貰ったんだ。一人では食べきれないから、少し持っていってくれ」
ちょっと待っていてと、大家が再び部屋に引っ込んだ。
開けっ放しの扉の隙間から、がさがさとプラスチック袋を広げる音が聞こえてくる。そっと覗き込むと、箱の中のミカンを選別している大家の背中が見えた。
大家の部屋の中に入ったことはなかった。
見た感じ、内装は二階の部屋とそう変わらない。古びた和室で、二階の間取りよりもゆったりと広く作られている。奥に
襖の手前に、大きな仏壇があった。詮索するつもりはなかったが、質素な部屋に不釣り合いな豪奢さに目を奪われた。飾られた写真には、母子が写っている。青いワンピースを着た女性と手を繋ぐ、小学校低学年くらいの少年。写真は全体的に色褪せている。おそらく、何十年も前のものだろう。
「――お待たせ」
声を掛けられ、顔を上げた。大家が硬い表情でこちらを見ている。仏壇を見ていたことは火を見るよりも明らかで、隠しようがなかった。橘は遠慮がちに大家に尋ねた。
「ご家族、ですか?」
「そう」
大家も仏壇を振り返り、息を吐き出すように一息に応えた。
「妻と、一人息子。交通事故でね」
幾度となく尋ねられ、幾度となく答えているのだろう。淀みのない言い方だった。
「そうだったんですか……お悔みを申し上げます」
「もうだいぶ前のことだから」
と、大家が顔の前で右手を振り回す。やがて手をだらりと下ろすと真顔に戻り、ぽつぽつと語り出した。
「……妻に、買い物に誘われたんだ。近所のスーパーに行くから、散歩ついでに行かないか? とね。ようするに荷物持ちだよ。正直、面倒臭いと思った。けれどもはっきりと断る度胸もなくて、生返事をしてね。息子が『お父さん、行くの? 行かないの?』って寝そべる俺の身体をゆすった」
当時を思い出しているのか、大家が、口の中で小さく笑う。
「それでも動こうとしない俺に痺れを切らして、妻が『留守番お願いね』と家を出た。ホッとした。日曜の夕方でね。明日からの仕事を思うと、少しでも長く身体を休めていたかった。これで晩飯まで少し昼寝ができるぞ、なんて安心していた。――まさかあれが、二人との最期の会話になるなんて思ってもみなかった」
「――お気持ち、お察しします」
なるべく抑揚のない声で、機械的に相槌を打つ。お察しします、とは言ったものの、妻子を失う悲しさなど、独り身の自分には到底想像できない。
「俺も一緒に買い物に行って、みんなで一緒に死ねば良かったんだ。一人取り残されるくらいなら、いっそ――」
「そんなこと、おっしゃらないで」
大家は、喋り過ぎたと悔いるように咳払いした。
「ごめんごめん、喋り過ぎた。もう二十年も前のことだから、吹っ切れているんだ。当時は怪しい宗教にハマったり、胡散臭い催眠術師のところに行って記憶を消してもらおうとしたりね……色々足掻いたんだけど、今はすっかり」
ちっとも吹っ切れてはいない表情で大家は笑った。
「はい、これ。さっき一つ食べてみたが、とても甘かった」
「……ありがとうございます。いただきます」
橘がミカンを受け取ると、大家はいつものように呪物の話はせず、静かに内側から扉を閉めた。あらためて、亡くなった家族について喋り過ぎてしまったと後悔しているのかもしれない。
妻子の死からの年数を正確に覚えていることや、最後の会話を一言一句を憶えていることからも、未だに喪失の苦しみが癒えていないのがわかる。清潔ではあるが乱れた身なり。どこか意欲が薄く、残りの人生を惰性でやり過ごしているような普段の姿勢。すべてが腑に落ちた。
狭い居室にしつらえられた仏壇。古い母子の写真。
痛々しい。急に妻子を失い天涯孤独になってしまったのだろう。
ただ、気の毒だと思う反面、胸に妙な違和感が残った。
その違和感の正体が何なのか、まだ分からなかった。