「入居は、あなた一人で間違いないよね?」
引っ越しの
「ええ。……」
いつから背後にいたのだろう。もっと普通に声をかけてくれたらいいのに。
「先日書類を提出した通り、私一人の入居です」
当然だろうと言いたいのを堪え、丁寧に頭を下げる。この八畳一間の古びた和室に、どうやって複数人で入居しようと言うのだ。しかも、トイレと風呂は共同だ。
橘が新居に選んだのは、築四十年ほどの木造アパート「日の出荘」。二階の角部屋が破格の家賃で貸しに出されており、即決した。千葉県Ⅰ市の東端、しかも最寄り駅から徒歩二十分ほどかかるが、通勤に無縁の橘にはなんら問題なかった。
一階には大家が住んでおり、小さな煙草屋を営んでいる。
部屋は日当たりが良く、湿気が少ない。形も完全な長方形で、変な欠けや出っ張りがなく、使いやすそうだ。
「ひと段落したら、改めて挨拶に伺おうと思っていました。橘です。これからよろしくお願いします」
「橘さん、ね。よろしく」
大家は、やや申し訳なさそうに視線を逸らすと、あたりに積み重なる段ボールの山に目を向けた。
「随分と荷物が多いと思ってね。四人家族分の量はありそうだから」
あたりは足の踏み場もないほど段ボールであふれていた。およそ一人暮らし用の八畳間に収まりそうにない量だ。荷物の多さを不審がっていたのかと、橘はようやく気付いた。
「すみません。すぐに片付けます」
大家の年の頃は六十代、いや七十に近いか。顔色が暗く、疲れ果てて見える。実はもっと若いのかもしれない。服装は、膝の出たスエットパンツに、洗濯を繰り返してすっかり生地がヘタれたネルシャツ。清潔ではあるが、かなりくたびれていて、身なりに頓着しないタイプのようだ。白髪混じりの髪も、中途半端に伸びて寝癖がついている。
大家に背を向け、橘は荷解きに戻った。そろそろ本腰を入れて作業しないと、今夜は眠れそうにない。布団一組を敷くスペースもないのだ。引っ越し業者が指定してきた午後の便で引っ越しをしたため、時刻はすでに十七時を過ぎている。
手近にあった段ボールを開け、素早く中身を取り出す。まずは大きな物から取り出して、細かい物は、棚を組んでから開封しようと、頭の中で段取りを組む。
「仕事柄、荷物が多いんです。でもご安心ください。廊下のものも、すぐに片付けますので」
大家が立ち去る気配がないので、大きな独り言のように言ってみる。口先だけではないのを示すため、喋りながらも手は止めなかった。独り言を言う間にも、三つのダンボールを開け終えた。といっても、残りはまだ三十以上ありそうだが。
「――仕事は、何をしているんだっけ?」
大家が、ぼんやりとした声色で尋ねてきた。
「古物商、というか古物を収集して調べる、研究職みたいなものです。研究対象をすべて自宅に置いているので、この通り」
呪物の一部だけでも、どこか倉庫にでも預けられたらいいのだが……。何が起こるかわからないので、山のような呪物をこうしてそばに置くしかない。
荷物を指し示して説明するが、大家の反応がない。背後を振り返ると、大家はこちらを見ていなかった。さっきまで戸口に凭れていた身体を直立にし、窓辺を凝視している。視線の先を追うと、今、箱から出したばかりの
ふらふらと、大家が許可もなく部屋に入ってきた。崩れるようにしゃがみ込み、藁人形に手を伸ばす。
「触らないで!」
橘の鋭い制止に、大家の肩が、びくりと跳ねた。
「す、すまない」
「ああ、いえ、こちらこそ大声を出してしまってすみません。でも、手を触れないでください」
熱に冒されていたような顔をしていた大家が、ふと我に返った。
「……申し訳ない。そんなに高価な物だとは思わず」
「いえ、高価ではないんです。高価ではないんですが」
何と説明してよいのか迷った。しかし、ある程度仕事について打ち明けておいたほうがいいだろうと顔を上げる。
「実はその藁人形は、触ると不幸が訪れると言われているんです。……おかしな話に思われるでしょうが」
大家は、無表情で橘を見ている。
――頭のおかしい人間だと思われているだろうか。
「私、骨董品や、まあこうしたちょっと曰くのある物を研究する仕事をしていまして。呪物コレクターと巷では呼ばれているんですが……。呪物って、聞いたことありますか」
大家は一度藁人形に視線を移し、再び橘の顔を見た。もう一度同じ動きを繰り返し、みるみると顔を紅潮させていった。
「もちろん……、もちろん知っているよ!」
大家の瞳には、
「実は僕もそういった物に興味があってね! そうか、これが本物の呪物か……。もう少しそばで見てもいいかい。ああ、もちろん手を触れたりはしない」
大家の妙なテンションに驚きつつも、橘は頷いた。
「……どうぞ」
大家は畳の上に跪き、じっと藁人形を見ている。それから、他の段ボールにも呪物が入っているのかと、と訊いてきた。
「ええ、ほとんど呪物です」
試しに手近なダンボールを開け、中にあった日本人形を取り出す。軽く髪を整えて、大家に手渡す。
「これは表情の変わる人形です。面白いんですよ、俺が何かとちったりすると笑みが深くなるんです。これは触れても大丈夫なので、よかったら」
大家は、恐る恐るといった手つきで人形を受け取った。人形の顔を、上から、下から、真横からと、角度を変えて観察している。
「呪物好きな方って、結構いらっしゃるんですよね。怪談がお好きなんですか? それとも、民俗学がお好きとか?」
「いや、うん。そうだな。怪談と言うより、……魂や、……死後の世界といったものに興味がある」
「オカルトが好きなんですね」
「好きというか、まあ……」
大家の歯切れが急に悪くなったのに、少々の違和感を抱く。
「オカルトに興味を持ったきっかけは何です? 大家さんの世代だと、『あなたの知らない世界』とかですか?」
「あったね、そんな番組。……俺の場合は特に、これと言ったきっかけはないんだ。気づいたら、夢中になっていた、というか」
「――なるほど」
相槌を打ちながら、変わっているな、とこっそり思う。
たいていのオカルト好きは、幼少期にそのきっかけがある。
印象に残ったオカルトアニメだとか、衝撃を受けた怖い話だとか、稀に、自分自身が心霊体験をして、どっぷりとオカルトにのめり込む者もいる。
そのままオカルトマニアの道を突き進む者もいるが、長じるうちに一般常識や科学の知識を身につけ、一度オカルトから離れる者が多い。しかしふとした時に思い出し、そういえばこんな世界が好きだったのだと思い出す人間がほとんどだ。
大人になってから、しかも壮年期でオカルトにハマるパターンは珍しい。
「決して壊したりしないから、またこうして君のコレクションを見にきてもいいかな?」
さっきまでの尊大な態度から打って変わって、大家は橘を振り返ると許しを請うように訊いてくる。
「もちろん、君が部屋にいる時に」
橘は大家の変わりぶりに驚きつつも頷いた。
「もちろん。構いませんよ」
「よかった、嬉しいな」
それから大家は、共用部にある段ボールも慌ててかたづける必要はない、何だったら、置ききれない荷物は下の自分の部屋においてもいいと言い出した。それは丁重にお断りする。
「何か困ったことがあったらすぐに言って」
「ありがとうございます」
急に軟化した大家の態度に驚きながらも、ここでうまく暮らして行けそうだと、ほっとした。