「あ」
「あ」
何となく聞き覚えのある声に顔を上げれば、どこかで見たことのある品のよさそうな長身の男性がそこに立っていた。
この人は確か。
「前に会ったことあったよね?」
「ええ、そうですね」
前に図書館に居た貴族の人だ。
もう会うことはないだろうと思っていたのに、こんな場所に居るなんて。どんな偶然だ。というか、ここは貴族の人が泊まるような宿ではなく、庶民が泊まるような普通の宿。
その安宿の中に貴族がいるだなんて違和感しかないんだけど、お忍びって奴? もし、そうならあたしは黙っていた方がいいよね。
とりあえず、あたしはシーツの交換をしている途中でうっかりお客様に遭遇してしまった。
宿泊客に出くわすのはあんまりよくないから、そそくさと交換している途中でこの人が宿の一室から出てきた。隠れるにしたって今からじゃ遅すぎる。
後で宿の主人にバレて怒られなきゃいいけど。
うっかりお客様とシーツを持った時に会ったため、動揺してシーツを落としそうになって慌てたら落ちる寸前で受け止めてもらえて恐縮した。お客様に荷物を持ってもらうだなんてバレたら絶対に怒られるやつだ。
これもバレてくれるなよ。
「申し訳ありません!」
「別にいいよ。それより……」
「ジゼル」
「ああ、うっかりしていた。それじゃあ、お嬢ちゃんまた今度会おう」
「え? あ、ありがとうございました」
慌てて謝っていたら、もう一人いたらしい。
奥からもう一人来て、ジゼルと言うらしい貴族の青年に声を掛けて客室を出て行った。
それを頭を下げて見送った後、一瞬掃除に入ろうかと思ったけど、掃除を頼まれてない。
それに、彼らが宿泊の予定ならすぐに掃除に入ったら気分がよくないかもしれない。お貴族様は怒らせないに限る。
だから、最初の予定の仕事だけしてその日は終わった。
そして、もう会うことはないと思っていたあの貴族の青年はその後も何度も
会うことになるだなんて誰が思うだろうか。
最初に出会った時は図書館は偶然だったのだろう。
だけど、宿屋以降のは偶然ではなく向こうから近付いて来たと後になってからネタバラシされて殴りたくなったあたしは悪くないよね。
だって、ある時は仕事帰りにとか、市場でとか普段貴族が居るような場所じゃない。貴族なら高級住宅街とか、高級感溢れるような場所をうろつけって。
本人もお忍びのような格好をしてたりするから声を掛けないようにしていたのに、向こうからぐいぐいと来るから少しずつお互いの話をするようになった。
旅一座に居たことと妹が怪我をしているからその病気療養のためにここで働きながら暮らしていることだけだったけど、ジゼルと呼ばれた青年貴族はこちらの事情を気遣ってあれこれとよくしてくれる。
隣国で指名手配されているから、もしかして油断させて捕まえるつもりかと身構えていた頃にそれを言われた。
「は? 今何て言った?」
「うん、だからその妹のリハビリとか住む場所の世話なんかしてあげるよ」
「えっ何で……」
時はお昼。
場所は近所の公園。
あたしは仕事の休憩を兼ねてお昼を食べようとしていたら、散歩をしていたらしいジゼルに出くわした。最初は普通の世間話だったんだけど、何故かお互いの家族の話になってった。
その辺りからちょっと雲行きが怪しいような、警戒して逃げておけばよかったのに、お腹が空いていたあたしは食べることを優先してしまった。
ジゼルは思ってた通り貴族だったけど、妾の子で結構大変な目に遭っていたんだとか、今は正妻の息子が死んでくれたお陰で貴族の跡取りになれたそう。
ジゼルって名前は母が正妻を怒らせないように女の子として育てていた時の名残で今はジャスティンって名前があるが、自分は母のことを忘れたくないからジゼルという名前を名乗ってるんだとか。
貴族の世界のことはあまり詳しくはないけど、妾の子から貴族になるのって結構大変だと聞いたことがある。
ジゼルはその大変な世界に飛び込んですごいなと思う。あたしはユリアを連れて逃げ出すのが精一杯だった。
復讐はしたい。でも、あたしはそのために何をしていいのかも分からない。
一矢報いたいと思うだけなら、あの場に残って王子が来るのを待って刺してやればよかった。けど、あたしはあそこにあれ以上居たくなかったから仕方ないんだけど、後悔してしまう。
ユリアの怪我のことは詳しくは話していない。
あたしは後から知っただけだけど、ユリアのことを思うととてもじゃないけど、言葉が出ない。
殆ど言えないからジゼルからしたら訳ありだと分かるはずなのに、リハビリの費用を出してくれるだなんてどういうことなんだろう?
もしかして、愛人になれとか?
でも、あたしもユリアもまだ15だ。
ジゼルからしたら子どもだろうし、痩せた体は魅力的とは言いがたい。愛人にしたいのなら他の人をあたって欲しい。
どうやって断ろうかと考えている間に昼からの仕事の時間が迫って来てので、ジゼルに返事はせずにその場を後にした。