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第21話

ごはんが終わったあとはいつものように並んで洗い物をする。


「二人分だと多いし、食洗機買うかなー」


すすぎながら宇佐神課長はなにやら思案している。


「え、私のせいで出費とか悪いです!」


課長ひとりならこんなに食器も多くないのだ。

私がここでごはんを食べているせいで食洗機を買わせるとか申し訳なさすぎる。


「んー?

前から考えてたし、この先も七星はずっと俺と一緒にメシを食べるんだろうし、だったら買ったらいいよな」


最後のお皿をすすぎ、彼は私の顔をのぞき込んでにぱっと笑った。


「ずっと私が宇佐神課長と一緒にごはんを食べるなんて保証はないですが」


「え、あるだろ」


さも意外そうに彼が、眼鏡の向こうで一回、瞬きをした。


「七星はずっと俺の彼女なんだから、一緒にメシを食べるに決まってるだろ」


「えっと……」


その自信はどこから?

しかし、それがまんざらでもない私もいる。


「明日、食洗機見に行くかな」


「あ、買うんだったら半分出します!」


「おー、それはありがたいな」


手を拭いて一緒にリビングへ戻りながら、なんか引っかかった。

宇佐神課長なら冗談で結婚するんだからとか言いそうなのだ。

なのに、彼女って。

ううん、きっとなにも意味はないに違いない。


明日が休みの日は食後、なぜか宇佐神課長とソファーに並んで座り、サブスクで映画を観る。

話題作だったり、オールドムービーだったり。

インプットは仕事のよい刺激になるからと言われれば納得だが、なぜふたりで観なければならないのかは謎だ。


「そういえば、お願いってなんですか」


仕事の相談に乗ってやる代わりにちょっとしたお願いを聞いてくれと言われた。

それがなにか、非常に気になる。


「ふたつある。

が、両方は可哀想なので選ばせてやろう」


「はぁ」


身体を少し斜めにし、私と向かいあった課長は偉そうだが、それが家では通常運転なのでスルーした。


「A.七星から俺にキスする」


「私からキス……って、無理!

無理です!」


前に手を突き出し、思いっきり振って拒否する。

いまだに宇佐神課長からキスされるのだって慣れないのに、自分からなんて無理に決まっている。


「そこまで拒否されると傷つくな……」


「うっ」


らしくなく彼がしゅんと項垂れてみせ、悪いことをしている気持ちになった。

いや、でも、無理なものは無理だ。


「も、もうひとつはなんですか?

場合によってはそちらなら大丈夫かと思います」


「場合によってかよ」


おかしそうに課長がくつくつと喉を鳴らして笑う。

もう立ち直ったのか、先ほどのは演技だったのか。

私には判断がつかない。


「じゃあ。

B.俺を名前で呼ぶ」


「名前……」


それならキスよりもずっとハードルが低そうに思えた。

だって、名前で呼ぶだけでしょ?

いとこの子だって名前で呼んでいる。


「えっと」


口を開きかけて、止まる。

よく考えたら私は課長の下の名前なんて知らない。


「……宇佐神課長の名前ってなんですか?」


「はぁっ」


私が曖昧な笑顔で誤魔化しつつ聞いた途端、彼は呆れるように大きなため息をついた。


「お前、上司のフルネームも知らないのかよ」


「えー、知らないですよ。

小山田部長だってわからないです」


だいたい、上司どころか職場の人間のフルネームを知る機会なんてそうそうない。

名刺を見たときか、そういうプライベートな話をしたときかくらいだ。


「そういえば宇佐神課長は、よく私の名前を知ってましたね?」


プライベートな関係になってから彼は、ナチュラルに私を七星と呼んでいた。

いまさらながら不思議だ。


「あのな。

お前は一部のデザイナーとかに七星ちゃんって可愛がられてるだろ。

それで知らないほうがおかしい」


「そうでした……」


少し前にポスターデザインでトラブったKENEEさんをはじめ、幾人かのデザイナーさんやカメラマンさんに私は「七星ちゃん」と呼ばれ、可愛がられている。

とはいえ、彼らは他の女性も名前呼びだったりするし、私だけが特別ではないと思う。


「それで。

俺の名前は龍志だ」


こほんと小さく咳払いをして仕切り直し、今度こそ課長が名前を教えてくれる。


「えっと。

じゃあ」


眼鏡の向こうから期待を込めたキラキラした目で課長が私を見つめ、自分の名を呼ばれるのを待っている。

おかげでただ名を呼べばいいだけなのに、気恥ずかしくなってきた。


「りゅ、りゅう、……じ……さん」


そのせいで言葉は尻すぼみになって消えていき、火を噴きそうなほど熱い顔で俯いていた。

――なのに。


「聞こえないなー」


わざとらしく課長がため息をつく。


「ほら。

もう一度、言ってみろ」


軽く握った拳に私の顎をのせ、彼が無理矢理顔を上げさせる。

眼鏡越しに視線のあった目は愉悦を含んで光っていて、その妖艶な瞳に見つめられて目は逸らせなくなってしまう。


「ほら」


いつまでも言わない私に彼が促してくる。

震える唇を開き、彼の名を紡いだ。


「……りゅ、りゅう……じ、さん」


「聞こえない」


私はこれで精一杯だというのに、彼は許してくれない。

名前を呼ぶだけなんて簡単だと侮っていた自分を叱り飛ばしたい気分だ。


「ほら、ちゃんと言え」


「……りゅう、じ、さん」


「〝さん〟はいらない。

呼び捨て」


これで許してくれるだろうと思ったのに、彼はハードルをガン!と上げてきた。

年上で上司を呼び捨てなんて、無理に決まっている。


「無理無理無理。

これで許してください」


「ダメだ。

それともAに変更するか」


Aとは私から彼にキスをするというもののわけで。

そんなの、どんなに頑張ったってできないに決まっている。

それに比べたら呼び捨てのほうが簡単……なのか?


「ううっ。

意地悪」


「聞こえないなー」


許してくれとうっすらと涙のたまった目で上目遣いをして見上げる。

しかし、困り果てている私を前にして、課長は酷く愉しそうだ。

宇佐神課長は俺様だけじゃなく、ドSだったのか。

まあ、薄々気づいてはいたけれど。


「ううっ。

……りゅ、りゅう、じ。

これでいいんですか?」


視線を結んだまま、課長が顔を傾けながら近づけてくる。

なにをするのかと思ったら、唇が重なった。


「ギリ合格」


右の口端をつり上げ、彼がにやりと笑う。

それを見てとうとういっぱいいっぱいになった私は頭から湯気を噴き、彼の腕の中にくたくたと崩れ落ちていた。

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