翌日、いつものように宇佐神課長に起こされ、彼の部屋で朝食を食べる。
ストーカー事件の翌朝のごはん、小ぶりのおにぎりとお味噌汁が私のお腹にはちょうどいいのがわかり、それからそうしてくれている。
ちなみに宇佐神課長はおにぎりがふたつになり、冷や奴と作り置きの小鉢がつく。
「なあ」
身支度を済ませた私を見て、なぜか課長は不満げだ。
「それでいくのか」
「そうですけど?」
今日の私は量販店のきれいめカットソーとスキニージーンズ、会社と同じく髪を高めの位置でひとつ結びだが、なにか問題でも?
もう日常になりつつある、ふたりでの後片付けが終わり、手を拭きながら課長ななにやら悩んでいる。
「あーうー、あーっ!」
なんかわからないが課長はせっかくセットしてある髪が乱れるとか気にせず、掻き混ぜて悶えている。
「座れ!」
「あっ、はい」
力一杯命じられ、反射的にテーブルの前に座っていた。
「ちょっと待ってろ」
課長が寝室へ消えていく。
少しして彼はボックスを三つばかり抱えて戻ってきた。
テーブルの上に広げられたそれは、メイクボックスのようだ。
ただし、私なんかと違い、滅茶苦茶いろいろそろっている。
「俺がメイク、やり直す」
「えーっ」
それにはつい、不満が漏れる。
私だって一応は化粧品会社の社員なわけだし、社内のメイク研修にはときどき顔を出している。
なのにやり直すとは不本意だ。
「黙れ。
気に入らないんだよ、そのメイク」
それ以上私に反論させず、課長は有無を言わさずクレンジングシートで私がしたメイクを落としていった。
こうなったらもう従うしかないし、それに宇佐神課長のメイクの腕も気になる。
なのでおとなしくした。
――その後。
「えーっ!
全然違う!」
「だろ?」
メイクが終わり、鏡で確認する私に課長が勝ち誇ったように笑う。
ポイントメイクの色味はほぼ同じだが、肌が二、三歳若返った感じがする。
それに私がやるとただ地味だった化粧が、そういうのを狙ったお洒落なメイクになっている。
宇佐神課長のしてくれたメイクをきっちり基礎からやって建てた高級ホテルに例えるなら、私のメイクはよくて掘っ立て小屋だった。
これでは完敗だ。
「毎日のメイクは時間かけられないから仕方ないけど、休みの日、とくに街に出るときくらいは七星を綺麗にしたい」
軽く私の顎に添えた手を持ち上げ、彼が視線をあわせさせる。
眼鏡の向こうから彼は、うっとりとした目で私を見ていた。
その目と視線があい、ゆっくりと熱が下から顔へと上がってくる。
「えっ、あっ、えと。
……ありがとう、ございます」
そのせいで俯いて口をぱくぱくとさせ、小さく呟くようにお礼を言うだけに終わった。
兄との待ち合わせ場所には宇佐神課長の車で行った。
『帰りに買い出しに行きたい』
……の、らしい。
まあね、平日は仕事があって終わるの遅い日も多いし、とくに今週は警察署にもちょくちょく呼び出されたし。
食材を買い足したい気持ちはわかる。
私はといえば毎日、課長のお宅でごはんを食べていたのでほとんど食材が減っていないが。
ええ、小腹が空いたときのお菓子すら減っていないんですよ!
だって、夕食後も誰かさんがなかなか部屋に帰してくれないから、帰ったときにはもう歯磨きして寝るしかなくなっているのだ。
「はぁっ」
「そんなにお兄さんに会うのが嫌か?」
流れていく窓の外を見ながら私が憂鬱そうなため息をつき、くつくつとおかしそうに喉を鳴らして宇佐神課長が笑う。
「兄に会うのは嫌じゃないですが……」
私たちは仲良し兄妹なので兄に会うのは別に問題ではない。
普段ならたまに買い物に付き合ってもらったりして、兄妹デートすらするくらいだ。
しかし今日は。
真っ直ぐに前を見て運転している課長の顔をちらりと見る。
兄が私の彼氏だと誤解している、宇佐神課長も一緒なのだ。
いや、別に課長が本当に私の彼氏だったとして、兄にあわせるのが嫌だとかはない。
ただこのあいだ、私に彼氏ができたとショックを受けていた兄の反応が意外すぎて、どうしていいのか戸惑うというか。
兄はもしかして、シスコンだったんだろうか。
だから、今まで彼女ができなかったとか?
だとしたらさらに、どうしていいのか困る。
「ちゃんと俺が話をしてやるから心配するな」
「それが。
心配なんですよ」
また私の口から憂鬱なため息が落ちていき、宇佐神課長は笑っている。
しかしその課長だってお兄さんに会うのだしとスーツ姿だ。
……もしかして少し、緊張しているのかな。
運転している彼を盗み見る。
普段どおりに俺様で私をからかっている彼だが、なんとなくそんな気がした。
私の悩みをよそに、待ち合わせのレストランに着いた。
彼氏問題はまだしも、ストーカー被害の話などセンシティブな話もあるので個室にしてくれた、兄と宇佐神課長の配慮は大変ありがたい。
「ごめん、お兄ちゃん。
待たせて」
待ち合わせ時間五分前だけれど、兄はすでに着いていた。
「いや、いい。
ナナを待つのは……」
私の顔を見て兄が言葉を途切れさせる。
「男!
男ができたからなのか!?」
かと思えば突然、キレられたけれど……ああ。
今日の私のメイクが違うと気づいたのか。
「男ができた途端に急に、色気づいて!
お兄ちゃんはそんなふうにナナを育てた覚えはないぞ!」
これはもしかして、もしかしなくても予想どおり、兄はシスコンだったんだろうか。
しかし、小さい頃から兄にお世話されてきたので、育てられた覚えはあるだけになんともいえない。
「まあまあ、お兄さん。
落ち着きましょう?」
「オマエにお兄さんとか呼ばれる覚えはない!」
宇佐神課長が兄をなだめにかかったが結局、火に油を注ぐだけで終わってしまった。
「えっと。
改めて紹介するね。
会社の上司の、宇佐神課長」
「七星さんの上司で彼氏の宇佐神です」
ことさら、課長が〝彼氏〟と強調する。
おかげで兄はますます不機嫌になった。
「なんでただの上司の宇佐神さんがナナのマンションにいたんだよ?」
しかし兄は華麗に〝彼氏〟の部分をスルーし、オマエはただの上司だと主張してくる。
「お隣さんなの。
偶然、前からあのマンションに住んでたみたいで」
「そうなんです、隣に住んでるんです」
それを聞いてさらに兄の顔がさらに苦々しげになった。