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第13話

「いい加減にしろよ、おい。

いちざきぃ」


課長の声が聞こえ、おそるおそる目を開けた。

私に見える後ろ姿の彼は、ぶるぶると細かく震えている。


……まさか、刺されたんじゃ。


怖くて怖くて、うっすらと目に涙が溜まっていく。

なにかしなきゃと思うものの、パニックになった頭ではなにをすべきなのかすらわからない。


「好きな女にこんなもの向けるとか、どういう了見だ!」


課長の怒号があたりに響き渡る。

よくよく見ると課長が男の手首を掴み、頭上高く持ち上げていた。

男の手から落ちたナイフが、課長の頬を掠めていく。

おかげで眼鏡が、外れた。


「あ、あ」


邪険にぽいっと突き落とされ、ストーカーの男が無様に尻餅をつく。

腰が立たないのかそのまま這って逃げようとしたが、宇佐神課長がその前に立ちはだかった。


「逃げられると思うなよ。

なあ、市崎いちざきさんよぅ」


「ひ、ひぃっ!」


仰け反った男の視線の先には私の顔がある。

目があった途端、彼は私に縋り付いてきた。


「た、助けてくれ!」


それを妙に冷めた頭で見ていた。

先ほどまで殺そうとしていた人間に助けを求めて、応じてくれると思っているんだろうか。


「おい」


課長が私から男を引っぺがす。

ようやく動き始めた頭で、落ちているナイフを拾ってハンカチでくるみ、男から取られないように確保した。

さらに課長の眼鏡を拾って渡す。


「サンキュー」


受け取ってかけた課長の頬からは血が、出ていた。

それを見ていっぺんに血の気が引いていく。


「宇佐神課長、血が!」


「ん?

ああ。

かすり傷だろ」


乱雑に彼はシャツの袖口で傷を拭ったが、まだ血は出続けている。

慌ててバッグの中からポケットティッシュを探し出し、袋から全部抜いて傷口に当てた。


「ああ、わるいな」


それを片手で押さえ、しゃがみ込んで課長は男と目をあわせた。


「あんた、元緑淡舎の市崎だろ?」


「ち、ちがっ」


男は宇佐神課長に殴られるとでも思っているのか、腕で頭を庇い丸まった。

しかし、元緑淡舎の市崎さん、って?

緑淡舎は仕事をしたことがあるから知っている。

けれどこの、宇佐神課長が市崎と呼んでいるストーカー男はまったく記憶がない。


「勤務態度が悪くて半年前にクビになったらしいな」


「クビになんかなってない!

不当解雇されたんだ!

アイツらがオレがどれだけ優秀なのか理解できないから!」


逆ギレしながらする男の言い訳を聞いて、遠い目になった。

うちの部署にも前にそういう社員がいた。

間違いを指摘されても逆ギレし、自分の能力に宇佐神係長――その頃は係長だった――が嫉妬して陥れようとしていると人事に泣きついた人が。

さすがの宇佐神課長もほとほと困り果てていたし、人事はなにも知らずにその男の言うことを信じるしで大変だった。

もっとも、あの当時から宇佐神課長は人気だったので、他の社員たちの証言によって現状がバレ、反対に男はクビになったが。

しかも素直に辞めてくれればいいのに不当解雇だと変な労働組合に訴え、さらに大変になった……。

とにかく、この手の人間には通常の考えが及ばない。

相手にしないのが一番なのだが、当事者になってしまったというわけか。


「ハイハイ」


宇佐神課長はいかにも面倒臭そうだが、はからずともまた同じタイプの人間と関わり合いになってしまったわけだ。

その気持ちは痛いほどわかるし、そうなってしまって大変申し訳ない。


「別にキサマが会社をクビになったのか不当解雇だったのかとかどーでもいいんだ。

それよりも俺の七星に危害を加えようとしたこと、どう落とし前をつけてもらおうか?」


「ひ、ひぃっ!」


課長が凄み、男が悲鳴を上げる。


「どうされました!?」


そのタイミングで誰かが通報したのか、ふたりの警察官が駆けつけた。

まあ、こんなところで、しかも大声で言い争っていれば、誰かが通報してもおかしくない。

しかも、交番は徒歩圏内だ。


「た、助けてくれ!

こ、殺される!」


転がるように警察官に駆け寄り、ストーカー男は助けを求めた。


「大丈夫です、もう安心してください」


警察官も男を保護しているが、あのー。

殺されそうだったのはこちらなんですが。

状況的に誤解されるのもわかるけれどね。

どう見ても宇佐神課長がストーカー男を脅しているようにしか見えないもの。


「おとなしく手を上げろ」


男を保護したのと別の警官が高圧的に宇佐神課長へと向かう。


「ハイハイ」


またあきらかに面倒臭そうにため息をつき、宇佐神課長はおとなしく手を上げた。


「そちらのあなた」


「あの女はこの男とグルだ!」


男に糾弾され、私の口からもため息が落ちていく。


「あのー。

私たちが被害者で、その男が加害者なんですが……」


「え?」


驚いた顔で警察官が男の顔を見る。

男が首を勢いよく横に振り、全力で否定していた。


「とりあえず一緒に交番へ来てもらう」


「はい、わかりました」


とにかくこの誤解を解かなければならない。

素直に警察官に伴われ、宇佐神課長共々交番へ行った。


事情聴取はひとりずつおこなわれた。

私はあの男――市崎にスートーカーされていたこと、勝手に私と付き合っていると思い込み、宇佐神課長と一緒のところを見て浮気だと激高して刺されそうになったことなど説明した。


「本当に付き合ってないんですか」


警察官は懐疑的だ。


「付き合っていません。

名前だってさっき、初めて知ったくらいです」


どこであの男と関わったのか考えるが、いくら考えても思い出せない。

それくらい、面識がないのだ。


「市崎さんはあなたが、上司に怒鳴られていたところ慰めてくれて、それからの仲だと言っていますが」


「はぁ……?」


いや、知らないし。

そもそも市崎さんとの接点って、前に仕事をした出版社の社員という点しかない。

彼がその雑誌の編集だったというならまだしも、文芸部だったというし。


「まったく心当たりがないですね。

それどころか、名前も今さっき知ったくらいです……」


「そうですか……」


はぁっと警察官の口から疲労の濃いため息が落ちていく。

もしかしてあの男はやはり支離滅裂な主張をして、警察官を困らせているんだろうか。

ありうる。


「その。

市崎さんがずっとうちのポストに入れていた手紙、全部じゃないですが保管してあります」


驚いたように私を見る警察官は、それはやはりラブレターで大事に取っているんじゃないかといった顔だが、首を振って否定した。


「市崎さんにストーカーされていた証拠になるからと、兄から完全に諦めるまでは取っておけと言われて。

あ、兄も私がストーカーされていたの知っています。

頼んだら、証言してくれると思います」


私が浮気女でそれに逆上した彼氏に刺されそうになって……などと思われているのも腹立たしいが、私を守ろうとして巻き込まれてしまい、殺人未遂犯だと思われている宇佐神課長にはさらに申し訳ない。

早く、嫌疑を晴らさなければ。


「わかりました、連絡先を教えていただけますか」


「はい」


警察官に兄の連絡先を教える。

そのうち、近頃出ていた不審者の目撃情報と市崎が一致するのもあって一応、解放された。


「ううっ。

本当に申し訳ないです……」


交番からマンションまでの道をふたりで歩く。

交番で応急手当を受けた宇佐神課長の頬には大きなガーゼが貼られていた。

それが痛々しくて、泣きたくなる。

私のせいで彼に怪我を負わせてしまった。

しかも課長を下手すれば殺人未遂犯にしてしまうところだった。

そうならなくて本当によかった。

まだ、完全に疑いは晴れていないけれど。


「なんで七星が謝るんだ?

悪いのはアイツだろ」


それは確かにそうなのだが、それでも申し訳なさが先に立つ。


「これで一安心……とはいえないところが困るよな」


困ったように彼が笑う。

つい先日、警察に捕まって被害者に近寄らないように誓わされたにもかかわらず、執拗につきまとって殺した事件があった。

宇佐神課長の心配はもっともだ。


「まあ、それでもとりあえずは一安心ってことで。

ほら、早く寝るぞ。

今日も仕事だしな」


時刻はもう、朝といっていい時間になっている。

こんな時間まで本当に申し訳ない。


「本当にすみません……」


「だから。

七星は謝んなくていいの」


マンションに帰り着き、部屋の鍵を開ける。


「でも……」


「でもじゃない」


宇佐神課長は私の手を掴み、なぜか私の部屋へと入ってきた。


「七星が無事ってだけで十分」


ぎゅっと彼が、私を抱きしめてくる。


「もしあのとき七星が刺されていたら、俺はアイツを殺していたかもしれない」


「え?」


驚いてその顔を見上げていた。

レンズの向こうで課長の目が、苦しげに歪む。


「とにかく。

七星が無事で本当によかった」


そっと彼の手が、私の頬に触れる。

ゆっくりと顔が傾きながら近づいてきて、唇が重なって離れた。


「おやすみ、七星」


するりと私の頬を撫で、課長が離れる。


「……おやすみなさい」


「ん」


にこっと笑い、彼は部屋を出ていった。


「つか、れた……」


とりあえず拭き取りシートで化粧を落としてしまい、それ以上は気力がなくてベッドに潜り込んだ。

勝手に好きになられて逆上して殺されそうになるなんて、勘弁してほしい。

しかもそれで、宇佐神課長に冤罪をかけるとこだった。

……でも。


「……格好よかった、な」


私を庇ってくれた彼は、私の目からはヒーローに見えた。

あんな状況なのに、――あんな状況だから?

胸が無駄に高鳴ったのも事実だ。

とりあえず、朝食のときにもう一度、きちんとお礼を言おう。

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