「あ、あの。
インフルエンサーの件でご相談したいことがあって」
会話が途切れ、必死になにか探すが出てきたのはこれだった。
だって宇佐神課長と私の共通の話題なんて、仕事しかないのだから仕方ない。
「家で仕事の話、禁止」
不機嫌に言い、彼がグラスを口に運ぶ。
「え……」
そう言われてもそれしか話題がないので、困惑して固まった。
「七星はなにが、好きなんだ?」
「なに、とは……?」
意味がわからなくて、首が斜めに傾く。
「俺は唐揚げだな。
一時期ハマって、いかに美味しい唐揚げを作るか試行錯誤し、毎日一キロ揚げていたこともある。
今度、作ってやろう」
「ありがとう、ございます……?」
うんうんと課長は頷いているが、彼の頭のてっぺんから脚まで視線を這わせていた。
毎日一キロって、そんなに食べきれるんだろうか。
課長はそんな大食いに見えないくらい、細い。
仮に連れ込んだ女性にこうやって振る舞っていたとしても、普通の女性ひとりが食べる量なんてたかがしれている。
「それで七星はなにが好きなんだ?」
これで食べ物の話題だと遅ればせながら合点がいった。
少し考えて、口を開く。
「そうですね……。
サーモンのお寿司とかですかね」
生ものは得意ではないが、サーモン、特にお寿司は別なのだ。
スーパーで握り寿司は買わないが、サーモンだけのパックがあったときだけは買う。
「ふぅん。
じゃあ、高い寿司屋は無理だな」
「そうですね。
ああいうところは食べられるものが少ないので。
接待のときは困ります……」
「食べられるものが少ない?」
怪訝そうに宇佐神課長が尋ねてくる。
「白身やエビは大丈夫なんですが、ああいうところでウリのマグロなんかは苦手なので……。
いつも見られてないところでお茶で流し込み、吐き気を抑えてますね」
魚のにおいが強いものはとにかくダメだ。
サバやイワシはもちろん、マグロもブリもダメ。
接待でたまに行く高級寿司はそういうものがメインだから、私には悩みの種だったりする。
「すまない、気づかなかった。
でも、そういうときは言っていいんだぞ」
箸を置いた彼は、真剣に私を見つめた。
「あ、いえ。
我が儘言うわけにはいきませんし。
それに、どうにか食べられますから」
慌てて笑ってその申し出を断る。
少し酔っているせいか言い過ぎたなと後悔した。
「食べて吐き気がするほどのものを、食べられないというのは我が儘じゃない。
そんな無理はしなくていいから、そういうときは言え。
俺も次からは配慮する」
じっとレンズの奥から見つめる宇佐神課長は、完全に私を心配している。
それに、酷く驚いた。
会社のできた上司の宇佐神課長ならわかるが、家での俺様宇佐神様なら仕事なんだから無理してでも食えとか言いそうなのに。
「ありがとう……ござい……ます。
お言葉に甘えて、次からそうさせていただきます」
戸惑いつつも素直にお礼を言う。
「うん」
それを聞いて課長は満足げに頷いた。
もしかして態度が俺様なだけで、本当はいい人なんだろうか……?
だったら、アレも相談したら力になってくれる?
「……その」
食事もほぼ終わり、そろりと口を開く。
なぜか、正座をしていた。
「うん?」
そんな私に何事か感じ取ったのか、最後のひとくちを飲んでグラスを置き、宇佐神課長も姿勢を正した。
「実はストーカー被害に悩んでまし、て」
「ストーカー?」
僅かに課長がこちらへ前のめりになる。
とりあえず、彼は茶化すことなく真剣に聞いてくれそうで、先を続けた。
「はい。
ここに越してきたのもそれで、なんです。
もう大丈夫だと思ったのに最近、駅で同じ視線を感じるようになって。
今日はとうとう、以前と同じストーカーからの手紙が入っていて……」
俯いたら視界が滲んだ。
慌てて顔を上げ、目尻をさりげなく指先で拭う。
「やっぱりな」
「え?」
どういうことかわからず、まじまじと課長の顔を見ていた。
「このあいだ、帰りに声をかけたときの怯え方が尋常じゃなかった。
そしたら今日は、駅で七星をじっと睨んでる男がいたし。
なんかあるんだろうなとは思ってた」
そうか、宇佐神課長は気づいてくれたんだ。
それだけで嬉しくて、胸の中が温かいもので満たされていく。
「よく相談してくれたな」
ぽんぽんと軽く、慰めるように彼が私の膝を叩く。
それで気持ちが決壊した。
「どうしていいかわからなくて、兄に相談して引っ越ししたんですが、ここまで突き止められるとか思ってなくて。
またあの日々が始まるのかと思ったら、怖くて……」
ぽろぽろと涙を零しながら話す私の声を、課長は黙って聞いてくれている。
「大丈夫だ、俺がなんとかしてやる」
ぎゅっと彼が私の手を握ってくれる。
それが酷く心強かった。
「ところで警察には相談したのか?」
渡されたティッシュでぐちゃぐちゃになった顔を拭い、黙って首を振った。
「こんなことで休みをくださいとは言えなくて……」
考えなかったわけではないし、兄も勧めてくれた。
しかし受付時間を調べたら平日と書いてあって、仕事を休むのに躊躇してしまった。
「そういうときは遠慮なく言え。
事情を話しづらいなら、役所に手続きに行きたいとか適当な理由でもかまわない。
それで七星に……部下になにかあったほうがつらい」
本当につらそうに課長が顔を歪める。
「まあ、そういう真面目なところが七星のいいところだけどな」
彼の手が伸びてきて、乱雑にわしゃわしゃと私の髪を撫でた。
「えっ、やめてくださいよ!」
それに抗議しながら、ようやく笑えた。
「月曜にでも警察に行ってこい。
あれなら俺が、付き添ってやる」
「えっ、そんなの悪いですよ!」
「悪くない。
これくらい当たり前だろ」
当然だと彼は頷いている。
宇佐神課長が上司でよかったと思った。
それでも休み明けいきなりは休みづらく、課長もいくつかアポイントが入っているのもあって、さすがに月曜は無理だった。
それでも調整して、今週中には一緒に警察に行ってくれるという。
「ご迷惑をおかけします」
精一杯の感謝を込めて、頭を下げる。
「迷惑って、悪いのはストーカーのほうだろ。
七星はなにも悪くない」
そう言ってくれる課長は素敵だ。
ただし、女性関係に関しては最低だが。
遅くに帰ってきたのもあって、時刻は深夜近くになっていた。
「すみません、すっかりお邪魔してしまいました。
今日はありがとうございました。
食事も、ストーカーの件も」
「いや、いい。
食事に誘ったのは俺だしな」
にぱっと課長が笑う。
「片付け……」
「それより、こっちなー」
「えっ、あっ」
私を立たせ、課長が肩をぐいぐい押していく。
連れていかれた隣の部屋は、うちと同じく寝室だった。
ただし、角部屋だからか少し広い。
うちはシングルベッドがギリギリだが、課長の部屋はセミダブルのようだった。
まあ、課長は大きいし、ゆっくり寝たければこのサイズになるだろう。
「よっ」
「あっ」
課長がぽんと私の肩を押し、あっけなくベッドの上に倒れた。
「な、なにするんですか!?」
慌てて起き上がろうとしたが、課長がのしかかってくる。
「なにって、ベッドで男女がすることなんて決まってるだろ?」
するりと課長の手が、私の頬を撫でる。
眼鏡の奥からは艶を含んだ瞳が私を見ていた。
お風呂を済ませてこいとはそういう理由だったんだろうか。
少しずつ近づいてくる彼の顔が怖くて、ぎゅっと力一杯目を閉じた……が。
「……へ?」
唐突に鼻を摘ままれ、変な声が出た。
「なんて顔、してるんだ」
身体を離した宇佐神課長は、おかしそうに笑っている。
「そう警戒しなくても、変なことはしない。
ま、キモチイイコトには違いないが」
ふふふとまるで悪い魔法使いのように課長が笑い、やはり私は怯えていた。
――それから。
「あっ、あっ、ああーっ」
「ほら、いいだろ。
ここか、ここがいいのか?」
「あっ、そこ、そこがいいのー!」
……と、宇佐神課長にフェイシャルエステから全身マッサージを受けていた。
「七星、猫背だし、絶対あちこちこってるだろって思ってたんだよなー」
嬉しそうに笑いながら、課長が私の全身を解していく。
「てか、こんなのどこで覚えたんですか?」
「んー、エステは社内の技能研修、積極的に出てるしなー。
整体は昔凝ってて、いろいろ勉強したんだよな」
私は広告宣伝部だからと、メイク等の必須ではない研修に出ていないが、宇佐神課長は専門外もやっているんだ。
なんかちょっと、尊敬するな。
それにしても、滅茶苦茶気持ちよくて寝落ちてしまいそうで危険だ。
「宇佐神課長。
そろそろ……」
そうじゃないとまぶたが落ちてきそうになっている。
「ん?
気にしないで寝ていいぞ」
「いえ……そういう……わけ……には……」
身体と一緒に意識もとろとろと溶けていく。
必死に眠らないように頑張るが、すぐに寝落ちていた。