週明け。
一緒のところに住んでいて、一緒のところに出勤するとなれば宇佐神課長と出勤時間が重なるわけで。
「おはよう」
「お、おはようございます」
ちょうど私がドアを開けたところで向こうも出てきて、不審な行動を取ってしまう。
「なんか出勤前から会うとか、不思議な気分だよな」
苦笑いしている課長は朝から爽やかだ。
マンションを出て、一緒に駅までの道を歩く。
「これもなにかの縁だ、なんかあったら遠慮なく相談しろ。
ゴキブリが出たとかでもいいぞ」
おかしそうに課長が笑う。
もしかして今まで、それで彼女に呼び出された経験でもあるんだろうか。
「Gはあれですけど、なにかあったときはよろしくお願いします」
ぺこんと感謝を込めて軽く頭を下げる。
「うん。
てか井ノ上さん、ゴキブリって言うのも嫌なタイプ?」
「ううっ。
ダメなんですよー、アレ」
昔は平気で、丸めた新聞紙で叩き潰していた。
けれど実家で昼寝をしていたときにカサカサと手のひらの上を這っていかれたまではまだよかったが、足下へ回ったヤツはブーンと嫌らしい羽音を立てて私の身体を縦断していった。
そのおぞましさからそれ以来、ダメになってしまったのだ。
「そうなんだ、なんか意外。
井ノ上さんって思いっきり、足で踏み潰しそうっていうか」
「私ってそういうイメージなんですか?!」
なんだかんだ言っているうちに駅に着いた。
隣が上司、しかも彼女ありとか気を遣って嫌だなとか少し思っていたが、宇佐神課長はいい人なのでここに越してきてよかったかもしれない。
一週間が何事もなく過ぎていく。
しばらくはあのストーカーに引っ越し先を突き止められていたらどうしようと怯えたが、その気配もない。
ポストに不審な封筒も入っていない。
ようやく危険は去ったのだと、張ってきた気を緩められた。
「じゃあねー」
次の休みの日曜朝、コンビニへ行って帰ってくると隣の部屋から女性が出てきたところだった。
そりゃ、宇佐神課長には付き合っている女性がいるんだし、おかしくないよ?
ただしそれが、一緒の女性ならば、だ。
「あ、おはよう」
ちょうどドアを閉めようと手を伸ばした課長と目があった。
彼は何事もないように爽やかに挨拶をしてきたが、つい睨んでしまう。
「なにか?」
などと彼は不服そうだが、このあいだの女性と違いませんか?とか間違っても上司相手に言えない。
「いえ……」
曖昧に笑い、そのままそろりと部屋に入ってドアを閉めた。
もしかしてあの彼女とはもう別れたとか?
それにしては次ができるのが早すぎる気もするが。
二股……は最低なので、あの宇佐神課長がそんな人間だとは考えたくない。
そんな私の気持ちを裏切るがごとく、その後も。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
タクシーでマンションまで送ってくれた兄を見送る。
今日は引っ越しのお礼で仕事のあと、兄と食事をしていた。
「あ」
中に入りかけて、宇佐神課長が兄の乗ったタクシーが去っていった方向から歩いてくるのが見えた。
今日も、女性連れだ。
「今、帰りか?」
「え、ええ」
マンションでエレベーターを待ちながら、課長に腕を絡ませている女性をちらりと見る。
「誰?」
「会社の部下」
彼女は最初に見た女性とも二回目に見た女性とも違っていた。
「ふぅん。
あ、でも、
「俺はけっこう厳しいぞ。
なあ」
乗り込んだエレベーターの中、課長は私に話を振ってくるがやめてもらいたい。
女性からの視線が痛すぎる。
「そ、そうですね」
適当に笑ってこの地獄のような時間をやり過ごす。
エレベーターを降りてダッシュしたいところだが、相手は上司なのでそれもままならない。
「じゃ、じゃあ、しつれいしまーす……」
彼らが私の部屋を通り過ぎたところで、愛想笑いをしながら部屋に引っ込んだ。
「はぁーっ……」
ひとりになった途端、大きなため息が落ちる。
あの女性でもう何人目だろう?
宇佐神課長が連れている女性が毎回、違うのだ。
ここに越してきて一ヶ月、同じ女性を連れているのを見たことがない。
付き合う期間が超短期だとしてもサイクルが早すぎるし、何股もしているとか?
とにかく、憧れの宇佐神課長が女にだらしない、こんな最低な人間だとは知りたくなかった。
「あーあ」
引っ越してきた当初はあの宇佐神課長のお隣とかちょっとラッキーかも?とか思っていたが、こうなっては後悔しかない。
同じマンションでなければこんな姿は知らずに済んだのに。
「はー、気持ちいいー」
ここに越してきて危険がなくなり、休日の朝は近くの川沿いをジョギングするようになった。
走るのにちょうどいい遊歩道を整備してあるのだ。
これはもう、走るしかないだろう。
気持ちよく走ったあとは、コンビニに寄って朝食を調達して帰る。
これがこのところの習慣になっていた。
マンションに帰り着き、私が部屋のドアの鍵を開けるのと同時に隣の部屋のドアが開いた。
「ありがとう。
じゃあ、また」
「気をつけて帰れよー」
もう当然のごとく、知らない女性が出てくる。
それにまたかと心の中で呆れ気味なため息をついた私に罪はないはずだ。
こんな場面に会うなんて、運が悪い。
せっかくの爽やかな朝が台無しだ。
「あ」
ドアを閉めようとしていた宇佐神課長と目があった。
「おはよう。
朝からジョギングか?」
仕事中と同じく滅茶苦茶爽やかに彼は挨拶してきたが、もう私は彼の爛れた私生活を知っているのだ。
なのにいまだにそんな演技をしてくる彼に、イラッとした。
「宇佐神課長は昨晩も、お盛んだったみたいですけどね」
嫌みっぽいなと自分でも思う。
しかし憧れの人の最低な姿を目の当たりにさせられ、失望や怒りが溜まっていた。
「どういう意味だ?」
部屋から出てきた彼が私の前に立つ。
私よりも頭一・五個分ほど背の高い彼に見下ろされ、さらにその黒メタル眼鏡との相乗効果で半端ない威圧感にたじろいだ。
「ど、どうって。
いつもいつも違う女性を部屋に連れ込んで……」
少しでも距離を取ろうと後退するが、すぐにドアにぶち当たる。
どうして逃げられるように開けておかなかったんだと後悔したところで遅い。
「ああん?
別に誰にも迷惑かけてないからいいだろ」
追い詰められた私に逃げ場はない。
視線を逸らしたものの課長の手が私の顎にかかり、強制的にレンズ越しに目をあわせさせる。
眼鏡の向こうで彼の目は、私をどういたぶってやろうかと愉悦で歪んでいた。
「で、でも、人としてどうかと思うし……」
恐怖でうっすらと涙が浮かんでくる。
やはり、会社での優しくて頼れる上司は演技だっんだ。
これが、本当の課長の姿。
「迷惑かけてないんだから問題ないだろ。
彼女たちだって納得済みだ」
「で、でも……」
反論を試みようとするが、完全に怯えて上手く言葉が出てこない。
そんな私を課長は、面白がっているようだった。
「……それとも井ノ上も、同じようにしてほしいのか」
艶を含んだ重低音で囁かれ、脳を甘く痺れさせられる。
最後にふっとわざと息をかけられた耳を押さえ、宇佐神課長をおそるおそる見上げていた。
目のあった彼が、右の口端をつり上げてにやりと意地悪く笑う。
それを見た瞬間、私は腰が抜けたかのようにへなへなとその場に座り込んでいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。
私が悪かったです」
「へ?」
頭を抱えて小さくなり、怯える私の上に間抜けな声が降ってくる。
「あー、と?
井ノ上さん?」
それは完全に戸惑っていた。
「恋も知らない処女じゃあるまいし、その反応はないだろ」
課長は困り果てているけれど。
「その、恋も知らない処女なんですー」
「へ?」
再び彼が、間抜けな声を出す。
「嘘だよな?
彼氏いただろ」
彼氏とはいったい誰のことかと思ったが、たぶん送ってくれた兄を誤解しているのだろう。
「彼氏とかいません。
たぶん、誤解しているのは兄です」
半泣きの私に手を貸し、課長が立たせてくれる。
「ふぅん。
男を手玉にとってそうな井ノ上さんが恋もまだな処女、ねぇ」
「悪かったですね!」
馬鹿にするようににやにやと笑われ、反射的に喰ってかかっていた。
「いや、俺こそ悪かった」
降参だと彼が、半ば手を上げる。
「とにかく。
あの、憧れの宇佐神課長がこんな人で幻滅しました。
それだけなんで、じゃあ」
これで話は終わりだとドアノブに手をかける。
しかし目の前に影が差し、とてつもない圧を感じて動けなくなった。
「……なあ」
「ハ、ハイ」
振り返りたくない、けれど彼の手が私をそちらに向かせる。
「このままじゃオマエ、会社で俺のことしゃべるよな?」
「は、話したりしないデスヨゥ?」
恐怖で言葉は次第にカタコトになっていき、語尾はみっともなく裏返っていた。
「んー、オマエが俺の彼女になればしゃべらない?」
「……ハイ?」
真面目に悩んで課長が出した結論がちょっと理解できないんだけれど、普通だよね?
「そんなわけで」
少し身を屈め、近づいてくる彼の顔を間抜けにもぽかんと見ていた。
形のいいあの唇が私の唇に触れて離れる。
「……とりあえず、口止め料」
まるで私の味を確認するかのごとく課長がぺろりと自分の唇を舐める。
それを見て、みるみる顔どころか全身が熱を持っていった。
「えっ、あっ」
「これからよろしくね、井ノ上サン?」
宇佐神課長が愉しそうににやりと笑う。
いっぱいいっぱいになった私はとうとう頭が爆発した……気がした。