「……はぁーっ」
「どうした?」
そんな具合なので仕事中にもついため息をついてしまい、ちょうど通りかかった宇佐神課長から心配そうに顔をのぞき込まれた。
「えっ、あっ。
なんでもない、です」
内心焦りつつ、笑って誤魔化す。
「そうか?
ならいいけど。
でも、なんかあったら相談しろ?
仕事のことでもプライベートでも」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
課長が去っていき、私もパソコン画面に視線を戻しながらまたため息をつきそうになって苦笑いした。
……相談しろ、か。
ストーカーにつきまとわれているとかいったら、力になってくれるだろうか。
いや、宇佐神課長なら真摯に相談に乗ってくれそうだ。
もし引っ越ししてもダメなら、相談してみようかな。
「井ノ上せんぱーい、KENEEさんからポスターデザイン、届きました!
今度はバッチリというか、最高です!」
「どれどれ」
由姫ちゃんに手招きされ、後ろから画面をのぞき込む。
確かに前回のよりもさらによくなっていた。
異物感が強くて彼が拒否反応を示したがま口も、シックなレザーの眼鏡ケースになっていてよく馴染んでいる。
「これなら部長も文句のつけようがないね」
「はい!
一時はどうなるかと思いましたが、結果オーライですね。
KENEEさんにお礼のメール、送ります!」
本当に嬉しそうに由姫ちゃんが笑う。
とても可愛いその笑顔は眩しくて、つい目を細めていた。
「うん、私からも送っておくよ」
なんだかんだいいながらもこちらの要望を飲み、それ以上のものをあげてきてくれるなんてさすがプロだ。
尊敬する。
その旨、メールにしたためて送信する。
夕方、帰る前に届いた返信では私のおだて方が上手いからだと愚痴りつつ、次も一緒に仕事がしたいといってくれて嬉しかった。
週末は予定どおり、引っ越しだった。
「じゃあ、よろしくお願いしまーす!」
荷物の載ったトラックを送り出す。
そんな私の隣には男の人が立っていた。
「いよいよ新居か。
楽しみだな」
「そうだね」
わざとらしく大きな声で言い、男――兄が私の肩を抱く。
「……こっち見てる男がいる」
兄が視線で指す先を見ようとしたが、止められた。
「無視しとけ」
「……うん」
促され、もうなにもない部屋を一度点検して、兄の車に乗った。
今日は兄の部屋に泊めてもらう予定になっている。
引っ越し業者も兄が手配してくれ、いったん預かってもらって明日、別のトラックで運ぶ手配になっていた。
そんな要望を聞いてくれた業者にはもう、感謝しかない。
「これで彼氏がいるって勘違いしてるだろうし、大丈夫だと思うんだけどな」
「だといいんだけど……」
もし引っ越し先を突き止められたらと思うと気が気ではない。
「そんときはまた、兄ちゃんに相談しろ。
今度は警察に突き出してやる」
重々しく兄が頷く。
それが酷く頼もしかった。
憂鬱な気分を振り払って兄のマンションで一晩を過ごし、翌日は新居へと向かう。
引っ越し業者も予定どおり到着し、荷物を運び込んでもらった。
「ゴミ、これで終わりか?」
「うん、そー」
まとめたゴミを持ち、兄が立ち上がる。
「じゃー、兄ちゃんはこれ出して帰るわ」
「駐車場まで送る。
コンビニで晩ごはん、調達したいし」
「そうか」
兄と連れだって部屋を出る。
「今度のマンションは前よりセキュリティがしっかりしてるから、安心だな」
「そうだね」
エレベーターの中、兄が視線を向けた先には監視カメラがついている。
オートロックの集中玄関でそこにも監視カメラがついているとなれば、安心感が違った。
さらに駅からも近く、徒歩圏内に交番もある。
セキュリティがよくなった分、当然家賃もそれなりに上がったが……安心を買ったと諦めよう。
「昨日と今日と、ほんとありがとね」
「いいって。
可愛い妹のためだろ」
子供の頃のようにガシガシと乱暴に兄が頭を撫でてくる。
私のほうがお礼に奢る立場だというのに、兄はコンビニでデザートまで買ってくれたし、駐車料金も払わせてくれなかった。
「じゃ、気をつけて帰ってね」
「オマエもなんかあったらすぐ、連絡しろ。
また近いうちにメシ、行こうな」
帰っていく兄を見送り、私もマンションへと戻る。
私から見て本当に気のいい兄だし、顔も悪くないはずなのになぜか彼女ができない。
これは私の、長年の謎だった。
マンションに帰り、エレベーターを待っていたら玄関が開く。
挨拶したほうがいいよねとそわそわしながらエレベーターを待っていたら、やってきた人物を見て一瞬、固まった。
「井ノ上さん……?」
「宇佐神、課長……?」
相手も状況が飲み込めていないようで、眼鏡の向こうでパチパチと何度か瞬きをした。
なんで宇佐神課長がここにって、住んでいるからか……もしくは。
そのタイミングでエレベーターが到着し、ドアが開く。
「どうぞ」
「じゃあ」
プライベートとはいえ、上司なので先を譲る。
乗り込みながら彼に腕を絡ませている女性が、勝ち誇った視線を向けてきてムッとした。
「何階ですか」
「四階」
告げられたのは私の部屋があるのと同じ階だった。
本人が住んでいるのか彼女のほうかはわからないが、同じマンションというだけでも気まずいのにさらに同じ階なんて。
「今まで会ったことないよな」
彼女連れだというのに、課長が話しかけてくる。
女性の刺さるような視線を感じ、空気を読んでくれと呪った。
「今日、引っ越してきたんです。
これからよろしくお願いします」
「ふぅん。
ま、よろしく」
軽い感じで彼が言ったところで目的階に到着し、エレベーターのドアが開く。
扉を押さえ、彼らが降りるのを待った。
先を進んでいく彼らのあとを、なんとなく気配を消して歩く。
我が家より手前だったどうしようと怯えたが、課長が開けたのは一番奥の角部屋だった。
ちなみに私はその隣だ。
「じゃ」
課長の部屋のドアが閉まる際、誰だとしつこく聞いている女性の声が聞こえた。
鍵は課長が開けているようだったし、部屋の主は彼で間違いないだろう。
「……はぁーっ」
私もドアを閉めてひとりになった途端、詰めていた息を吐き出した。
まさか、宇佐神課長が隣に住んでいるなんて思わない。
――しかも。
「彼女、いたんだ……」
その事実に少なからず落ち込んでいた。
優しくて顔もいい彼に彼女がいても不思議でもなんでもない。
しかし、あの女性はなんか思っていた人と違ってがっかりしたというか。
宇佐神課長の彼女なら、清楚でおしとやかなお嬢様って感じがするんだもの。
あんな、ともすればキャバ嬢のような派手な女性だとは思わない。
「なんかなー」
人の好みをとやかくいうつもりはないが、意外すぎる。
まあ、それで私になにか影響があるわけでもないし、別にいいけれど。