朝。
出勤前にマンションのポストの前に立ち、じっと見つめる。
昨日の夜はとある事情で配達物を回収していないし、見なければいけないのはわかっている。
しかし私にはその扉を開ける勇気がないのだ。
「……はぁーっ」
朝から辺りを闇に沈めそうなほど暗いため息をつき、意を決して扉を開ける。
なければいいと思ったのに、それは配達物の一番上に乗っていた。
「……最悪」
また憂鬱なため息をつき、回収物をバッグの中に突っ込んでポストを閉める。
そのまま、駅への道を急いだ。
「
相談、いいですか?」
後輩の
「んー、なに?」
困り顔の由姫ちゃんを安心させるように、にっこりと笑う。
「依頼したデザイナーさん、全然違うデザインのものをあげてきて……。
リテイクお願いしたんですけど、あんな案よりこっちのほうが断然いいからって聞いてくれないんですー」
困り果てているようで、彼女は半泣きになっていた。
確かにこちらの要望とはまったく違うものを出され、しかも話も聞いてくれないとなればそうなるだろう。
「デザイナー、
「そうですー」
「わかった、私から話してみるよ」
「ありがとうございます、お願いします!」
がしっと私の手を両手で力強く掴み、由姫ちゃんはうるうると潤んだ大きな目で私を見てきた。
ピンクのアイシャドーがよく似合う彼女は、背ばっかり高くて地味化粧の私なんかより断然、可愛い。
彼女が自分の席に戻っていき、私はメッセージアプリを立ち上げた。
大学を卒業し、化粧品会社『
もうすっかり落ち着き、後輩からも頼られる存在になった。
……いや。
頼られるのは入社時からそうだったような。
背が高く、よくいえばスレンダー、悪くいえば痩せぎすな身体。
長い黒髪をひとつ結びにし、ナチュラル控えめメイクといえば聞こえはいいが、要するに地味メイクの私の、大学時代のあだ名は〝姐御〟だった。
竹を割ったような性格で誰からの相談事も乗る私は頼りがいがあったらしい。
それは社会人になっても変わらず、そのせいか新人の頃からよくまわりに頼られていた。
件のデザイナー、KENEEさんに至急電話打ち合わせをしたいとメッセージを入れて三十分後。
向こうから今ならいいと返ってきた。
速攻で通話アプリを立ち上げ、今からかける旨を伝える。
すぐにOKと返事があり、通話ボタンを押した。
「お世話になっております、KAGETSUDOUの井ノ上です」
『はいはい。
どうせ今日、あげたポスターの件でしょ』
面倒臭そうに先方がため息をつく。
『わーってるよ、そちらの注文どおりにあげるのがプロだって。
でもあんな、ダッサイのを作るのは芸術家としての僕が許さないの』
……デスヨネー。
と、心の中で相槌を打った。
私も会議であの案が出たときはいまどきそれはないだろと信じられなかったし、しかもそれに決まって遠い目になった。
――美魔女とかもう、死語だ。
さらにいかにもアラフィフ女性が持っていそうなもので和柄のがま口財布を入れようとか、本気で言っているのか聞きたくなったくらいだ。
しかし、定年間際の男性部長とそれに追随する男性社員が大盛り上がりとなると誰も反対できなくなる。
「そこをなんとか……!
そのダッサイのをお洒落にするのが、KENEEさんの腕の見せ所じゃないですか。
というか、KENEEさんじゃないと無理です!」
『そ、そうかな……?』
私におだてられ、彼はまんざらでもなさそうだ。
なら、もう一押し。
「はい。
他の人じゃ無理です、できるのはKENEEさんだけです。
なので本当に申し訳ないんですが、どうかよろしくお願いします!」
見えないのはわかっていながら、勢いよく頭を下げた。
これはもう、気持ちの問題なのだ。
「……わかったよ」
はぁっと電話の向こうで、KENEEさんが苦笑い気味にため息をつく。
『
でも、時間は作ってよね』
「ありがとうございます!
もちろんです!」
再び勢いよく頭を下げる。
これで、一安心だ。
もう一度、簡単に確認と打ち合わせをして通話を終える。
「……はぁーっ」
とりあえずなんとかなりそうで、ほっと息をついた。
「お疲れ」
「えっ、あっ」
そのタイミングで湯気の立つカップが目の前に現れ、慌ててしまう。
視線で辿った先には
「あ、ありがとうございます……」
ありがたく、差し出されているカップを受け取る。
中身は私が疲れたときによく飲む、甘めのカフェラテになっていた。
「KENEEさん、どうだった?」
「作り直してくれるそうです」
「それはよかった」
私の返事を聞き、彼は手にしていたマグカップに口をつけた。
「まあ、こっちのほうが断然いいのは俺もわかるんだけどさ。
そういうわけにもいかないからな」
課長の、眼鏡の奥からの視線は画面に表示されているポスターに注がれている。
私もこれを採用でいいんじゃない?と思うもの。
しかし会社として仕事をしていれば、それだけでは決められないのだ。
「手間かけさせて悪かったな」
眼鏡の下で目尻を下げ、彼が労うようににっこりと笑う。
それでみるみる顔が熱くなっていった。
「いえ……」
「今回は上手くいったからよかったけど、手に負えないときは遠慮なく言ってくれ。
そのための上司だからな」
軽く椅子の背をぽんぽんと叩き、課長は自分の席へと去っていった。
直接、私の肩や背じゃなかったのは、気を遣ってくれたんだと思う。
……ほんと、いい上司だよね。
カフェオレを飲みながら、席に着いた宇佐神課長をこっそりうかがう。
さっぱりと短く切りそろえられた黒髪、微笑みを欠かさず優しげな印象であのように気遣いも上手く、女子社員どころか男性社員にも人気だ。
しかもかけている黒メタルスクエア眼鏡がさらに顔面偏差値を爆上がりさせている。
さらに二十八歳で課長となればエリート街道まっしぐらなのに、気取ったところがない。
私も例に漏れず、宇佐神課長に憧れていた。
まあ、こっそり憧れるだけで彼女になりたいとか高望みはしていないが。
午後からの会議は来春の新作発表プロモーションの、事前打ち合わせだった。
プロモーションにはもちろん、私のいる広告宣伝部だけではなく営業や製品部など多数の部署が関わる。
そのため部内で事前に、方向性や役割など話しあって決めるのだ。
「井ノ上さんにインフルエンサーとの調整役を頼もうと思うが、どうだ?」
「えっ、私ですか?」
唐突に指名されて、焦った。
じっとレンズ越しに宇佐神課長が私を見つめる。
その目は信頼していると語っているように私には見えた。
「わかりました。
まかせてください」
力強く頷いてみせる。
憧れの上司が、私を信頼してまかせてくれるのだ。
断るなんて選択肢はない。
「よろしく頼む」
満足げに笑い、課長は頷いた。
その期待に応えられるように頑張らねばと俄然、やる気が出てきた。
多少のトラブルはあったが仕事自体はよい方向で終わり、会社を出る。
しかし電車に乗って降りる駅が近づくにつれて気分はどんどん重くなっていった。
改札を抜ける頃には、重いため息が落ちる。
駅の出口でバッグの肩紐を堅く握り、辺りをうかがっていた。
「いないよね……」
そろりと足を踏み出し、家までの道を足早に歩く。
いくらもいかないうちに後ろから誰かついてきているのに気づいた。
途端にびくりと身体が震え足が止まりそうになったが、気づかないフリをしてさらに足を速める。
最後は半ば駆け足になり、住んでいるマンションに飛び込んだ。
背後を気にしながらエレベーターのボタンを押す。
ちょうど一階にいたそれはすぐに扉が開いた。
乗り込むと同時に閉まるボタンを連打する。
私ひとりだけを乗せてエレベーターが上昇を始め、ようやく息をついた。
「……いい加減にしてほしい」
自分の部屋に帰り着き、キッチンで水をくんでごくごくと勢いよく、ひと息に飲み干す。
少し前から帰り道、誰かにつけられるようになった。
一度や二度くらいなら、たまたま同じ方向の人が一緒になっただけだとも思えるが、定時で帰ろうと残業で遅くなろうと常に後ろに人の気配を感じるのだ。
さらに。
「はぁーっ」
放り出したバッグから飛び出た、今朝回収した配達物を見てため息が漏れる。
その中から白の封筒を摘まみ出した。
表には【井ノ上七星様】と私の名前が印刷してある。
しかしそれだけで、切手はおろか、住所すら記載がない。
直接、マンションのポストに投函したとしか思えないそれは、帰り道で人の気配を感じるようになったのと同時に届くようになった。
「けっこう溜まったな……」
封も切らず、それを紙袋に突っ込む。
中には同じ封筒がぎっしりと詰まっていた。
最初のうちはなにが書いてあるのか確認していたが、すぐに気持ち悪くなってやめた。
美化が過ぎる私像と、目があったのにすぐ逸らしたのは恥ずかしかったからだよね?などと相手の妄想を便せんにびっしりと書かれても気持ち悪いだけだ。
「……はぁーっ」
もうこのところ、癖になってしまっているため息をついて段ボールを組み立てる。
そんな具合なので近いうちにここを引き払う予定になっていた。
駅もコンビニも近く、少し歩けばまとめ買いに便利な大型スーパーもあって便利なところだっただけに、こんなことで引っ越しなんて残念だ。
あと、余計な出費も腹立たしい。
「まあ、あとちょっとの我慢だし」
嫌々だから荷造りする手は遅いが、もう引っ越しは今週末に迫っている。
早くやってしまわねば。