「さあ騙してみようか!」
妖狐はそう言って呪力を練り始める。
伝承にもある通り、妖狐は何かを騙すのが得意だ。
昔話とかでも狐は人を騙す。
妖狐も例外なくそういったことが得意なのだろう。
いま、妖狐は人ではなくこの空間、この世界のルールそのものを騙そうとしているのだ。
「お前の灯はあっちだぞ?」
妖狐が不敵に笑うと、長針を導く明かりの動きがあきらかにおかしくなった。
定期的にこっちの団地にもやってきた明かりが、反対側の団地の付近でうろうろし始めたのだ。
こうなれば危険となる長針はこちらにはやってこない。
「今の内だ。いくら俺でも長時間は騙せそうにない」
私たちは妖狐を筆頭に細い道を急ぎ足で、それでいて慎重に渡り始めた。
視線は目の前の妖狐の背中に固定し、必死に周囲を見ないようにする。
他に視線を移すと足が竦んでしまいそうなのだ。
「やっと半分は過ぎたね」
流石の影薪も怖いらしく、声がやや上擦っている。
私が妖狐の背中に視線を固定しているのと同じように、影薪はきっと私の背中に視線を固定しているのだろう。
なんでわかるのかって?
だって腰のあたりに熱い視線を感じるんだもの。
「流石ね。この空間の理すら騙せるなんて」
「短い時間だがな」
妖狐はやや得意げだ。
褒められてうれしいのだろうか?
思えば、彼の表情は地下牢にいた時よりも豊かになっている気がする。
気のせいだろうか?
「ようやく渡り切った」
私たちは慎重な急ぎ足という、類まれなる奇妙な歩き方をしたおかげで無事に渡りきれた。
見れば、長針はまたいつもの調子でぶん周り始めていた。
妖狐のまぼろしが効かなくなったのだ。
私はすまし顔の妖狐の顔を見る。
ほんの少しの時間だったとはいえ、彼はこの空間さえも騙してしまった。
彼からしたら人間を騙すなんて簡単なのだろう。
もし今の見た目、話し方、考え方がすべて幻だったら?
私は恐ろしい妄想をしてしまった。
すべてが地下牢から自由に出るための嘘だったとしたら?
私は彼を信じているけど、この感情さえ……。
「なにかついてるか?」
妖狐の声に私はドキッとして視線を逸らした。
しまった……。考え事のあまり、無意識に彼の顔をジロジロ眺めてしまった。
「ううん。なんでもないの。いいから行きましょう! やつはこの先なんでしょう?」
私は彼の背中を押して中心地にある建物に向かう。
円形に宙に浮いた状態の地面は直径一キロぐらいはありそうだった。
土でもなくコンクリートで覆われている妙な足元。
周囲を循環している十二の団地との間の空間は漆黒だ。
本当になんでもありな世界なのだと実感した。
「ようやく最初の団地に入れるってわけね」
目の前に迫ってきた建物は、最初に次元ポケットの入り口で見た団地そのものだった。
やっとスタート地点にたった気分ではあるが、ここまで近づけば私でもわかる。
この中に奴はいる。
人間の手足をもいで集める怪物が。
「準備は良い?」
「俺はいつでも」
「あたしは葵の後ろに隠れているから大丈夫!」
一人だけ準備の方向性が間違っている子がまじっているが、気にしても仕方がない。
私は静かにエントランスの扉を開く。
「なにここ?」
中は建物の外観とは違って、どこかの学校の体育館のような内装だった。
天井を見上げれば本当に体育館っぽい。
高さもあるし、あちらこちらにバスケットゴールは設置されているし、正面には舞台がある。
床は木の板でできており、本当に体育館そのもの。
飛ばされたと言われたほうが納得がいくほどだ。
「なるほどな。次の狩りの場所を示しているのか」
妖狐はこの場所の風景の意味を推測する。
ここの一つ前の博物館のような場所では被害者リスト、この空間では次に襲う場所の展示。
つくづくふざけた奴だ。
「それで、この考察はあっているのか妖魔?」
妖狐は視線を真っすぐに舞台の上に向ける。
そこに奴はいた。
相変らず手足がない。
目元は黒い包帯で覆われ、口と鼻は視認できる。そして全身を灰色の何かに覆われ、包帯と同じ黒色のベルトに不規則に縛り上げられている。
背丈は私たちとたいして変わらない。
「お前はなんなの? どうしてここまでの呪力を放っているの?」
私はたずねた。
だってこの妖魔の放つ呪力量は異常だったからだ。
次元ポケットは人間界とは違うため、妖魔も多少は呪力が使える。
しかしコイツの放つ呪力のそれは、決してそんな程度ではない。
下手したら妖刻で戦った貴族位の妖魔と大差がないほどだ。
普通、妖魔が世界の境界を超えてこちらにやって来ると呪力が使えない。
あのスキームでさえそうだったのだから、ほとんどの妖魔はそうなるはずだ。
しかしコイツはそうではない。
となると答えは一つしかない。
「お前は妖刻から逃れた妖魔ね。しかも貴族位かそれに準ずる妖魔」
「それがこの次元ポケットに入り込むことで強化されたってことか」
妖狐は鋭い視線で妖魔を睨みながら一歩前に出た。
妖魔は妖狐のほうに体を向ける。
相変らず目が見えないため、何を考えているのか分からない。
「俺は妖刻の時を待っていたのさ」
妖魔が話し出した。
声の感じは人間とほぼ同じ。
中年男性のようなやや渋めの声だった。
「他の奴らは鵺に扇動され、妖狐を救い出すと喚いていたが俺は違う。俺は手足が欲しい」
妖魔は明確に手足が欲しいと言い切った。
「それはお前の手足を生やすために必要なのか?」
妖狐がたずねた。
私はなぜそんなことを聞くのか不思議だった。
そんなのは奴を見れば明白だと思ったからだ。
手足がない奴が手足を欲しがるのは自然なことだと。
「違う。手足はコレクション。俺にないものは美しく、飾っていたい。中でも人間の手足は格別に美しい」
最後に妖魔は嫌らしく汚い口元をゆがめた。
ああそうか。
コイツは娯楽で人の手足を集めているのだ。
思い違いをしていた。
てっきり自分にないから他人から奪おうとしているのだと思っていた。
だが違ったらしい。
より醜悪な理由で、より醜悪な集め方だった。
「なぜ体育館の風景なの?」
「いろいろ集めて分かった。若い人間の手足のほうがより綺麗だとな」
だから学生が集まっている体育館を次の犯行場所と定めているわけか……。
こんなのを野放しにしたら被害者の数がとんでもないことになる。
コイツは呪力を自由に扱える。
しかもこの呪力の強さから、普通の人間が敵う相手じゃない。
「問答はしまいだ」
妖狐は静かに宣言し、みずからの呪力を一気に解放した。