「どうする?」
影薪が震える声で私に聞いてきた。
あの影薪までもが恐怖で竦むあたり、きっとただ者ではない。
「どうするって……こんな住宅地のど真ん中に次元ポケットが発生しているのはまずいでしょう?」
「つまり……」
「行くしかないってことよ」
私は決意を固めた。
ここで引き返すという選択肢はない。
奴は確かに言っていたのだ。
手足が足りないと。
このまま放置してしまっては、犠牲者がもっと増えてしまう。
スキームの時のことを考えれば、次元ポケットは妖魔にとっての隠れ家となる。
なにせ呪力を感知できない者には存在すら知覚できず、妖魔は出入り自由な空間だ。
そんなのが団地が立ち並ぶエリアに発生しているのだ。
被害が加速度的に増えるのは必然。
だからこそ、薬師寺家当主である私に引くという選択肢はない。
「あ、あの……」
立ち尽くす私たちの背後から声がかけられた。
振り返るとそこには一人の女子高生が立っていた。
近くの高校の制服を着ていた。
怯えた様子で私たちに近づいてきた。
「どうしましたか?」
最初に声を発したのは平野さんだった。
彼はみずから近づいて警察手帳を女子高生に見せた。
「警察の方ですか? 良かった……。きっと皆さんも今の化け物を見ましたよね? 実はさっきも見たんです」
女子高生は何かを思い出したのか、そのままそこに蹲ってしまった。
見ると、体をガタガタと震わせている。
私は様子がおかしいと思い、女子高生に近づいた。
「さっきも見たってどういうことかな?」
私は優しく彼女の背中をさすりながらたずねた。
どうも様子が変だった。
それにさっきも見たとはどういうことだろう?
「それは……」
女子高生が話し出そうとした時、平野さんの携帯が鳴った。
「こちら平野です」
電話に出た平野さんはしばらく無言でうなずき、やがて眉間にしわを寄せていた。
あきらかに悪い知らせだ。
「どうしたんですか?」
私が平野さんにたずねると、平野さんは深いため息をついて天を仰いだ。
「もう一件、妖魔による事件が発生した」
「場所は?」
「ここさ」
平野さんの回答に私は目を見開く。
「ねえ君、もしかして君が見たのって」
「は、はい。私の友人がさっきの化け物に……」
それ以上、言葉は続かなかった。
きっと見てしまったのだ。
自分の友人がさっきの怪物に殺された瞬間を……。
「お家は近い?」
私が優しく話しかけると、彼女は静かに頷いた。
「この子を家に送って行きましょう」
平野さんはそう言って彼女の手を引いて立たせる。
私はその間も、周囲の呪力感知を怠らずに警戒をする。
さっき私たちの前に現れたアイツは、狩りの直後だったのだ。
次元ポケットに戻る途中で私たちを見つけた。
姿を見せつけたのは挑発だろうか?
「妖狐、近くに妖魔の気配はある?」
「いや、ないな。だが気をつけろ。次元ポケットの出口が一つとは限らないからな」
妖狐は気を緩めるなと釘を刺す。
私は「そうね」と頷き、先に歩き出していた平野さんの後を追った。
「事件現場の確認に入りましょうか」
女子高生と遭遇した三十分後、彼女を自宅に送り届け、急行した警察と救急隊員たちと合流した。
閑静なはずだった夕暮れの住宅地は一気に緊迫感を増していた。
黄色と黒のトラテープに囲まれた事件現場は、ちょうど団地と団地に挟まれた静かなひとけのない道だった。
「グロいね」
事件現場を見た影薪の第一声がそれだった。
確かに彼女の言う通りではあるのだが、人一人が亡くなっているのだからもう少し別の言い方はないものだろうか?
「同じ手口ですね」
平野さんは顔を青くしてトラテープから出てきた。
いまにも吐きそうな平野さんの様子を見て、ここから見る以上に中はグロテスクな状況になっていることが想像ついた。
「手足がもがれていました?」
「ええ。まったく同じ状況でした。とてもご遺族にお見せできませんね」
平野さんの声はいっそう沈んでいた。
遺族のことを考えても、目の前で友人を殺されたさっきの女子高生のことを考えても、絶対にあの妖魔はなんとかしなくてはならない。
しかも事件の発生ペースを考えても、モタモタしていたらさらに被害者が増える。
「平野さんはこっち側に残っていてください」
「どうしてですか! 自分もその次元ポケットとやらに行きます! 依頼をしておいて署でただ待っているなんて!」
平野さんは心外だと言わんばかりに反対する。
しかしこれは気持ちの問題ではないのだ。
ただ単純に現実的な問題だ。
「足手まといだと言っているんだ」
私がオブラートに包んで言おうとしていたことを、妖狐が思いのほかはっきりと言ってしまった。
「足手まといですか……」
「そうだ。いまこの場でさっきの妖魔とまともに戦えるのは俺だけだ。俺は何があっても葵は守るが、お前の命の保証はできない。自分の身を自分で守れない者はここに残っていてもらいたい」
妖狐はなおもはっきりと告げた。
わざと突き放すように言い切る。
きっと彼なりの優しさだろう。
無駄に命を散らすわけにはいかない。
「それぞれの専門分野で戦いましょう?」
私は優しく補足する。
きっと平野さんにも意地とプライド、そしてなにより責任感がある。
私たちだけを危険な目に遭わせるわけにはいかないという気持ちが強いのだろう。
「国からお金を支給してもらっているのですから、こういう時に命を張らなければ国民の皆様に怒られてしまいます」
私が冗談めかして追撃すると、平野さんは力なく笑った。
ここは私たちだけで向かうのが正解だ。
私も戦えるのであれば、平野さんがいても守れるかもしれないが、今回は私もお荷物な立場。
「わかりました。そこまでおっしゃるのなら残って吉報をお待ちしております。くれぐれもお気を付けください」
平野さんは観念したように白旗を上げた。
私たちは一礼して事件現場を後にする。
向かうは次元ポケットと化した団地のエントランス。
「普通に入れると思う?」
私は道すがら妖狐にたずねた。
あんな建物そのものが次元ポケットになっている例は初めて見たのだ。
もしかしたら私よりも詳しいのかもしれないと思いたずねたが……。
「さあな。さっぱり分からない。入ってみればわかるだろう?」
残念ながら彼は何も知らないらしい。
よくよく考えてみれば、彼はずっと私の家の地下室にいたのだ。
世間知らずなのはしかたがない。
「よくわからないものは触れてみろってことね」
私たちは無事に中に入れることを願いながら、次元ポケットの入り口に向かった。