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第四話 月の影法師


 私たち三人が足を踏み入れたビルは、長らく使用されていない廃墟だった。

 昼間だというのに薄暗く、ジメジメとした嫌な空気感。

 確実に普通ではない空気が立ち込めている。


「慎重に進みなさい」

「わかってるって」


 影薪は私の小言がうるさいのか、やや不満げな表情で先を行く。

 ビルは八階建てらしく、当然のごとく電気は通っていないため全フロアを足で探索する必要がある。エレベーターなんて動くわけもないのだ。


「運動不足の葵にはちょうどいいんじゃない?」

「うるさいよ影薪。アンタだって家だとぐうたらしてるだけじゃない」

「あたしは式神なんだからいいの!」


 影薪はおなじみのセリフを放ち、一応警戒しながら私と刑事の一歩先を行く。

 どうやら一階には妖魔はいないらしい。


「こうやって階段で登っていくしかないのか」


 私は頭を垂れて歩き出す。

 現代人は運動不足とよく言われるが、私もまさにそのとおりである。

 学校に行かない分、鍛錬や呪力の操作、当主としての振る舞いや礼儀作法は叩き込まれているが、シンプルに体育の授業などがないので運動しているかと問われると微妙な状態だ。


 二階はもとオフィスだったのか、事務机と椅子が乱雑に置かれていて窓ガラスはすべて割られていた。


「妙に臭くない?」

「あっちのほうからだね」


 私は鼻を手で覆うが、影薪は臭いも気にせずに突っ走っていった。


「待ちなって!」


 私と刑事は影薪の後を追う。

 長い廊下を走り抜け、トイレのマークを通り過ぎた先の鉄製のドア。

 影薪はその前で立ち止まった。


「臭い的にはここね」

「生臭いな〜」


 私は静かにドアノブを握る。

 中に人がいる気配はない。

 呪力も残滓があるぐらいで、中に妖魔がいるなんてことはなさそうだ。


「いくよ!」


 私は意を決してドアを引いた。


 中は薄暗い部屋だった。

 内装を見るに元は更衣室かなにかだったのだろう。

 窓ガラスの代わりに木材が釘で打ち付けられ、その隙間から太陽光が部屋の中をうっすら照らしていた。

 その陽光の先に、異臭の主がいた。


「まだそんなに経ってないな」


 刑事は死体の様子を確認して言い切った。

 そんなに経っていないということは、最近の被害者だということだ。

 きっとこの妖魔は、まだ見つかっていないだけで相当数の人間を殺しているに違いない。


「妖魔の気配は?」

「もっと上」


 影薪は天井を睨む。

 ここまでくれば私でもわかる。

 真上ではない。

 もっと上のフロアだろう。


「八階まで階段で進む未来が現実味を帯びてきたわね」


 私の言葉に刑事も苦笑いだ。

 でもそれくらい離れている。

 妖魔の気配は最上階だった。


「行くよ~」


 影薪の気の抜ける声を聞き、私はため息と共に部屋を後にする。

 来た道を戻り、上に続く階段に足をかける。

 三階、四階と進むたびに、妖魔が人間の死体を連れ込んだ痕跡が色濃く残っていた。

 床や壁に付着した血痕の量は徐々に増していき、それと比例するように呪力も強くなっていった。


「アイツ、姿を消せるのよね」

「そんな妖魔がいるのですか?」


 五階にたどり着いた際、そんな話をする。

 きっとこの刑事は妖魔をじかに見たことがないのだろう。


「そういえば刑事さん、お名前は?」

「これは失敬、自分は平野啓介と申します」


 なんとなくタイミングを失って自己紹介がまだだった。

 きっと自分の中で、今回限りの関係になると思っていたに違いない。

 また時間が経てば、いつもの刑事がひょっこり姿を現すとどっかで信じていたのだ。

 しかし仮にそうだとはいえ、これから命がけの戦いをするというのに、名前すら知らないというのはなんとも味気ない。


「よろしくお願いします。私は薬師寺葵。こっちが式神の影薪よ」

「こちらこそよろしくお願いします」


 お互いにぎこちない自己紹介を済まし、再び階段を登り始める。

 血なまぐさい事件現場のような場所での自己紹介。

 もっと適切なタイミングはあったのに……。

 自分のコミュニケーション能力の低さに反吐が出る。


「この上だね」


 今現在七階と八階のあいだの踊り場。

 あと少しで妖魔の根城に到着する。

 気配からしてここに在宅だ。

 こっちがあっちを把握しているように、向こうも当然私たちの気配は分かっている。


「行くよ」

「うん」

「平野さんは私のうしろから援護をお願いします」

「分かりました」


 先頭に影薪、そのうしろを私が続く。

 階段を登り切った先は広々としたワンルームだった。

 壁もドアもない。

 仕切りは何もない単調なフロア。

 その中心に奴はいた。

 夏でも冬でも目立たないグレーのセットアップに茶色のコート、頭にはハットを被っていて顔はここからではうかがい知れない。

 前回は姿を消されて逃がしたが、今回はそうはさせない。


「大人しく私に殺される気はない?」

「……ふざけるな」


 返ってきた声は、やや聞き取りにくい爬虫類のような声。

 妖魔の姿形はさまざまだが、ここまで人間の姿をしている妖魔もめずらしい。

 夜の街ならば、このまま歩いていたって見分けがつかない。


「待って、お前の足元に倒れているのって……」


 私は自分の目を疑った。

 ああ知っている。

 私はその人物をよく知っている。

 信じたくなかった。

 信じられなかった。


「よくも彼を殺したな」


 私の内に憎しみが沸き立つ。

 妖魔の足元に倒れていたのは、血だらけの担当者だった。

 昨晩、事件現場で話したばかり。

 徒花町の妖魔事件専門の者。

 それなりの付き合いがあった、私のよき理解者だったのに……。


「何が目的?」


 私は尋ねずにはいられなかった。


「俺は妖界のために動き続けている」


 妖界のため? ダメだ答えになっていない。

 それに、そんな曖昧な理由のために彼は殺されたというの?


 私は怒りに震える右手に呪力を込める。


「大人しく従う気がないのなら、実力行使させてもらう」

「やってみろ!」


 妖魔は聞き取りにくい声だけ残し、その場からなんの動作も無く姿を消す。


「おいで影薪」

「あいあいさ~」

「逃げられると思わないことね?」


 呼ばれた影薪は私の足元に戻ってくる。

 私は彼女の頭に優しく左手を乗せた。


「呪法、月の影法師!」


 私は呪力の込められた右手と、影薪の頭の上に乗せていた左手を胸の前であわせる。


「力を貸せ、皆月!」


 私の命令と共に、私自身から足を通して地面に呪力が走る。

 一気に空間が歪み、外の明るさが嘘のように漆黒が部屋全体を包み込む。

 室内では見られないはずの月が天井に出現した。


「なんだこれは……」

「平野さん、私の側から離れないでくださいね」


 月明かりが照らす私の影の中から、タコの足が複数飛びだす。

 次から次へと出現するタコの足。

 一本一本が人間と同じ大きさ、太さ。

 部屋全体を這いまわるように蠢くタコの足。

 やがてそれらはある一点で動きを止める。


「ほら、かくれんぼは終わり。鬼に見つかったら最後、あとは華々しく命を散らすだけ」


 私が召喚した無数のタコの足たちは一斉に一点を攻撃する。

 凄まじい一撃と共にビルの壁を貫通し、宵闇に覆われた室内に陽光が差し込む。

 タコ足の一斉攻撃を受けた場所には大量の血液が飛び散り、姿を消したはずの妖魔が床に倒れていた。

 全身をタコの足に貫かれ、ほとんど原型をとどめてはいない。


「影薪、処理しちゃって」

「は~い」


 影薪はトコトコと妖魔のもとに駆け寄ると、自身の影を引っ張りその中に妖魔の死体を放り込んでしまった。


「これで仇はとれたかな?」


 私は服に着いた埃を払い、静かな声で呟いた。



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