「はぁ……寒いな」
「葵、寒いの?」
寒空の下、私は冷たい息を漏らす。
雪までは降っていないが、手足を凍えさすにはじゅうぶん過ぎるほどの北風が私を襲う。
私の独り言に答えたのは私の影の中だった。
「あまり外で声を出さないでくれる? 私が独り言をずっと喋っているみたいじゃない」
「じゃあ独り言言わないでよ」
いま私が歩いているのは家からバスで十駅ほど離れた街の中。
ここ徒花町は東北地方にある地方都市で、近くの町に比べれば栄えているほうだ。
家のほうでは滅多にお目にかかれない高層ビルがずらりと立ち並んでいる。
時刻は夜八時、仕事帰りのサラリーマンが歩道を行き交う時間帯。
そんな中で若い女がぼそぼそと独り言をつぶやいていたら、目立ってしょうがない。
ああほら、また一人私を避けるようにサラリーマンが通り過ぎた。
「それならあたしも隣を歩かせればいいのに」
「冗談言わないでよ。私の年齢で幼稚園児くらいのアンタが隣にいたら、訳アリのシングルマザーだと思われるじゃない」
本当に冗談じゃない。
私はただでさえ十八歳とは思えないほど、普通とはかけ離れた生活を強いられているのだ。
シングルマザー疑惑なんてとんでもない。
「あたしは葵の式神なんだよ? ちゃんと愛でてよね?」
「愛でてよねって、年齢は私と同じじゃない」
四大名家である薬師寺家では、生まれたと同時に式神をつけられる。
私の式神こそ、いま私の影の中に潜んでいる
私が誕生したと同時に生成される私専用の式神。
年齢=私なのだから愛でるも何もない。
何が悲しくてこんな寒空の下、自分と同い年の式神を愛でなくちゃいけないのか。
「ねえ葵、気づいてる?」
「ええ、もちろんよ。近いわね」
ここは平和な街中……のはずだった。
はずだったというよりは、実際平和ではあるのだがこうして街ゆくサラリーマンたちは、妖魔という存在を知らない。
いや、知ってはいるのだ。
存在を知ってはいる。
だが世間でいうところの幽霊と同じ程度の信じられ具合。
なぜならほとんどが見たことがないから。
たまに妖魔による事件がニュースで報じられる程度で、それも大きな事件として取り上げられることもない。
これは国民が混乱しないようにという政府の判断なのだが、そんなことは一般市民が知る由もない。
「そこの路地から入った方が早いんじゃない?」
「分かってるってば!」
私は影薪の指摘通り、ビルとビルの合間に消えていく。
追いかける先にいるのはきっと妖魔。
妖魔とは本来、人間界に存在しえないはずなのだが、時折世界の境界線を乗り越えてやって来る個体が存在する。
私、薬師寺葵の家業はその対処だ。
「呪力はさほどね」
「油断は禁物だよ葵」
「分かってる」
私はサラリーマンたちの視線から逃れるように、どんどんと狭まりつつある路地裏へ走りだす。
もう少しだ。
もう一度右に曲がればそこには妖魔がいるはず!
「影薪、出てきなさい」
「うん!」
影薪は走りながら呪力を込める私の影から表に出現する。
影薪の服装は少々異様に映る。
幼稚園児が着ているようなスモックを身に纏っているが、決して幼稚園児が着ない漆黒色をしている。
そして背丈は百二十センチほどしかないが、実年齢は私と同じ十八。
アンバランスの塊みたいな存在だ。
「用心しなよ葵」
「分かってるよ」
私と影薪は袋小路のビルの影にかくれてそっと覗き見る。
そこには一人の人間が立っていた。
いや、人間だと断定するのは早計かもしれない。
一応人間っぽいなにかだ。
そして足元にはスーツ姿の男が一人仰向けに倒れていて、見える皮膚は紫色に変色している。
まるで何かを吸い取られたような状態。
「動くな!」
私は呪力を右手に集め、姿を見せる。
立っている男。
倒れているサラリーマンと同じく、グレーのセットアップに茶色のコートを着込む正体不明の存在。
頭にはコートと同色のハットをかぶっており、夜の袋小路ということも相まって表情は一切うかがい知れない。
しかし私は確信した。
コイツこそが妖魔だ。
妖魔特有の歪な呪力を感じる。
「運の悪いことだ」
男が発した声はくぐもっていて聞き取りにくかったが、言っていることは理解できた。
声には妙なノイズが混じっていて、無理矢理人間の言葉を発音しているようだった。
「観念なさい」
私が今まさに攻撃を加えようとした瞬間、カメラのシャッター音のような音が響いた。
すると目の前にいたはずの妖魔の姿がきれいさっぱり消えてしまっていた。
「影薪」
「うん。気配は残っているけど……。ダメだね見えないや」
「あれは妖魔であってるのよね?」
「間違いないね。だけど、変だよね」
影薪は腕組をして難しい顔を見せる。
確かに彼女の言う通り変である。
妖魔は基本的には人間界にやってこない。
無理矢理リスク覚悟でならやってこれるが、それを選択する妖魔は少ない。
「この人……だめね、手遅れ」
私は消えた犯人の行方を探るのを諦め、被害に遭った男性の生死を確認するが脈はない。
完全に精気を吸いつくされたのだろう。
暗くて気づかなかったが、よくよく見れば腹部から出血していた。
「はらわたが食い破られているわね」
私の言葉に影薪は顔をしかめる。
妖魔は人間を食らう。
それは精気を吸い取るという認識だったのだが、肉体を直接食い荒らす妖魔なんて私は知らない。
「とりあえず警察呼んどいたよ」
気づけば影薪は私の携帯を勝手に使用していた。
一体いつ取ったのだろう?
「アンタの子どもみたいな声でかけたら悪戯だと思われなかった?」
「薬師寺家の名前を出したらすぐに行きますって言ってたよ~」
影薪はケラケラ笑う。
まるで自分たちの家業をあざ笑うかのようだった。
薬師寺家は退魔の名家だ。
薬師寺家を名乗って警察に連絡すれば、必然と妖魔事件に詳しい者がやって来る。
「はぁ……また帰りが遅くなるわね」
私は震える体をさすりながら、凄惨な殺人現場で担当者の到着を待った。
「お帰りなさいませ!」
「ただいま……別に待っていなくてもいいんですよ?」
私は薬師寺家に仕える使用人の美月さんにそう言った。
彼女は母の代から薬師寺家に仕えてくれている。
「いえ、先代が引退されてから、私の主は葵様です。主が帰るまで休むなんてとんでもありません」
使用人の頑なな態度に頭を抱え、私は地下室に向かう。
私たちが解放されたのは深夜零時。
あれから担当者がきて状況見分やらなにやらを済まし、呪力の痕跡捜査に付き合わされ散々だった。
バスも終電が過ぎていたからパトカーで送ってもらったが、普通の十八歳はパトカーで家には帰らないのだ。
私は疲れ切った体を引きずり、立派な武家屋敷のような薬師寺家の地下に向かう。
影薪は薬師寺家に到着したと同時に影の中に入ってしまった。
きっと彼女も疲れていたのだろう。
「遅かったな」
地下室は牢屋となっている。
対妖魔用の厳重な結界が幾重にも張り巡らされているのだ。
その中にいるのはたった一人の男だった。
「もう当主だからね」
「あんなにチビだったお前がな……」
男は嘲笑うようにくすくすと笑う。
私はほとんど毎晩、一日の終わりにここに来る。
私の苦悩を理解してくれるのはきっと彼だけ……。
「あのね妖狐、今日はね」
私はいつものように、素っ気ないこの男に一日の出来事を話し出した。