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点滴が外れた途端、光は再び中庭に向かった。ガラス扉を押し開けて外に出る。すると知らぬ間に降っていた雨で土はぬかるんでいた。沢山自生するクローバーの葉にも水滴がまだ残っている。
しゃがみ込み、いくつかの葉を確認しているうち、レンタル寝巻が汚れることに気づいた。
(今日は諦めるか……)
もう少し土が乾いてから、また来ようと決意する。
「光くんは外が好きなのかな。この間も外にいて、大騒ぎだったんだって?」
ふいに声をかけられて振り返ると、心療内科医の若槻が立っていた。最近紹介された、新しい診察の担当医だ。
「星野先生や看護師さんたち、随分困ってたなあ。あんまり言うこと聞かないと、そのうちベッドに縛りつけられちゃうよ?」
「……うっせえ」
「身体の調子はどうだい」
「別に、普通だし。早く家に帰りたいんだけど」
「病室にずっといると、気が滅入る?」
そんな当たり前のことをわざわざ聞いてくるこの男が苦手だ。心の奥に詰め込んだ不快な感情を、探るように話しかけては声に出してリピートしてくる。心臓外科にいる主治医・星野は何でもすぐ「今はダメだよ」と制限をかけてくる心配性タイプだが、彼はどこか人を馬鹿にするような感情がにじみ出ていてちっとも気を許せなかった。
「少し先生と話さないか?」
「いやだ」
間髪入れずに即答すると、光は若槻の脇をすり抜けて病棟に戻ろうとした。「待ちなさいよ」すれ違いざま、その腕を捕まれる。くんと鼻についた煙草の匂いが光の全身をざわつかせた。この匂いも嫌なことばかり思い出させる。どこまでも苦手だ、この男とは一秒たりとも一緒にいたくない。
「逃げたい気持ちはわかるけど、三時から君の診察時間だ。予約票、渡しただろ。さあ、おいで」
「……くそったれ」
めいっぱい不機嫌な低音ボイスで暴言を吐くと、若槻は肩を揺らしてくつくつと笑った。
「これはこれは。なかなか手ごわそうな患者さんがきたもんだ」
学校でもないのによくわからないテストを受けさせられたり、普段の生活事情を聞かれるばかり。光は何度目かわからないため息をついた。
「なんでこんなモン」
「君の体調不良の原因を調べるために、必要なことさ」
光が知っている限り、医者というものは身体のあちこちを触ったり、体内を覗きまくった結果をもとに、ああしろこうしろと口酸っぱく説教してくる存在。――のはずだが。
部屋には茶菓子の香りが漂い、日当たりのいい出窓のそばには二人掛けの革張りソファが用意されている。これが患者用だと勧められたはいいが、なぜか医者の若槻も隣に座って呑気にコーヒーをすすっている。まずこの状況がさっぱりわからない。
窓もなく殺風景、薬品臭のこもった他の科よりはましな環境かもしれない。何も知らなかった光も最初は「随分快適な部屋だ」と心躍った。だが部屋に閉じ込められて質問攻めに合うことが一番のストレスである光にとって、ここは地獄以外の何物でもない。苦痛すぎる――そうはっきり告げたにも関わらず、この医師は「そっかそっか」というだけでちっとも聞き入れてくれない。
主治医には「きっと気分転換になるよ」と言われたが、むしろ苛立ちが増すばかりだ。
「もう質問攻め、疲れた」
「そうかあ。難しいことは聞いてないと思ったけどなあ。じゃあ次は、絵でも描こうか」
「は?」
「ここに木を描いてごらん。どんなのでもいいよ」
「描いて何がわかんの」
「秘密だよー」
チッと舌打ちするも、若槻は咎めない。
この胡散臭い医者、一体何を考えているのだろう。紙きれ一枚渡してくるなり、にやにや笑って光の行動を見ているだけである。しかたなく鉛筆を持ったものの、何も描かないまま机に突っ伏した。何か描いてよ、としつこいので、適当に鉛筆を走らせグルグル塗りつぶした紙を放り投げる。
(こんなもんで俺からなんの情報を引き出そうってんだ)
どうせこいつも警察とグルに違いない。だから何も言わない。言いたくない。
光は黙ったまま、手元に出されたカフェオレのマグカップに手を伸ばした。まだ少し熱いので、ふうふうと息を吹きかけて飲み頃を探る。
(……まあ、こいつに身体触られるのはもっと嫌だけど)
若槻は自分を捕まえて無理やり部屋に連れてきた時以外、光に一切触れない。そこは純粋に助かったと思う。病院の人間は無害だと分かっていても、見知らぬ成人男性に触られると身体が強張る。このポンコツな身体ではどう反抗しても抗えず、いいように嬲られるとわかっているからだ。
決して危機管理に疎いわけではない。ただただ、自分が弱すぎるだけ――。
思い返すは今から三か月ほど前の話。
光は見知らぬ暴漢に何度も誘拐され、襲われた。その時、現場まで助けに来てくれた男は二人。一方は勝行で、警察を連れてきてくれた。だがもう一方の男はその場で逮捕された。
それが光の父親だった。
逮捕された父親との関係や経緯を何度も聞いてくる警察官。
事件当日のことを何でもいいから話せと、面倒な難題を押し付けてくる検察官。
この先どうしたいかとしつこく答えを求めてくる弁護士。
今度は見知らぬ医師にまで。一体何を話せというのだろうか。
光の父親は芸能界の裏で違法ドラッグの類を流通させていた、いわゆる半グレ集団の長だった。それを調べあげて警察に通報したのは勝行で、光は後日それを知った。
君は被害者だからと保護されながらも、父親について洗いざらい話せと方々から責められる。つらいことまで無理に話さなくてもいいと教わり、とことん無視を決め込んできた。
それでも父親が犯罪者という事実は何一つ変わらないし、彼の知り合いに拐かされ、様々な暴行を受けた事実も消えない。その罪を裁くためには被害者である光の証言が必要で、黙っていても事件は解決に至らないと迫られ、蓋をしたい記憶の隅を何度も無遠慮につつかれた。
光の心身は限界だった。そこから体調を崩して頻繁に心臓発作を起こすようになり、入院に至る。
(何か言ったら、父さんの罪はもっと重くなるんだろ。それぐらい、バカな俺でもわかる)
父親を助けたいとは思わない。だがこれ以上彼を糾弾したいとも思わない。
あの男から受けた言葉、愛情、怒りのすべて。やり方が間違っていたとしても、光は嫌いになれなかった。たばこの香りが鼻につくたび、最後に彼に抱かれた時の優しかった言葉が蘇って泣きそうになる。
(あの人を……俺たちのことを知らない奴らに干渉されたくない。ほっといてほしい)
思い出せば思い出すほど、惨めな気持ちになるだけだ。
あの男と性的な関係を持っていた。――それが許されないことだということは知っている。知っていて、自分から抱いて欲しいと願った時もあった。全部あいつが悪い。そう思うことで、自分の感情を押し殺して忘れようとしている最中に起きた事件。
父親を恨んだところで、自分には何のメリットもない。それにもう、あの男にそういった感情は存在しない。
ただただ、今は。
(……会いたい)
父親の弁護人だと名乗る男に出会った時、窓越しに会うことは可能だと言われて心が激しく揺れた。だがきっと顔を合わせたら、もっと触れ合いたいと願っていた身体が先に反応して、厭らしい姿を見せてしまうに違いない。それにあの高圧的で俺様だった父親のことだ。自分の落ちぶれた姿を見られるのは嫌だろうし、光も見たくなかった。
この誰にも言えない秘密を打ち明けたのは、ただ一人。光の気持ちを汲んでくれ、何も聞かずに普通に過ごしてくれている、勝行だけだ。
「君は人と話すことが苦手?」
「……」
一度も目を合わさず「決まってんだろ」と捨て台詞のように呟くと、光は机に突っ伏した。
目の前にあるミルクたっぷりのホットカフェオレが、唯一心を安らげてくれるアイテムだ。これだけは美味いと思いながらマグカップを両手で抱え、若槻が頭上で何を言おうとも無視し続けた。
(勝行……まだかな……)