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「なんだよあのキザ野郎」
ほんの少し前までは、キスしろと強請るたび顔を真っ赤にして戸惑っていたのに。いつの間にか光が一番へこたれる技を覚えたらしい。
消えたドアの先に向けて「ケチ」だの「ばか」だのと規模の小さい罵詈雑言を履き散らした後、光はため息を零し、ポスンと敷布団に背を預けた。
文句一つ叫ぶだけで息が切れる。体力が全然足りない。
布団の上に置きっぱなしだったスマートフォンのチャット受信音が鳴った。通知画面には勝行の名前と、「ちゃんと寝てね」のメッセージ。
(勝行ってマジ心配性だよな。そのうちハゲるぞ)
ハゲた勝行を脳内で妄想して、思わずにやけてしまう。怒りの感情は吹っ飛んだ。
もらったメッセージをじっと見つめていたら、画面が勝手に真っ暗になった。慌てて電源ボタンを押し、もう一度通知欄のメッセージを愛おしげに眺める。
視界に映る画面の7文字が、光の空想でリズミカルな音に変わっていく。あの耳馴染みのいいクリアボイスなら何度でもリピート再生できる。
(面倒見んのしんどいなら、ほっときゃいいのに……先に誕生日きたからって、兄貴ぶりやがって)
だがその余計なおせっかいが、不思議と暖かくて嫌いになれない。
勝行が置いて行ったぬくもりだけを大事に残しておきたくて、光はイヤホンを装着し目を閉じた。
またつまらない一日の始まりだ。ひたすらベッドに縛り付けられ、ミシミシ軋むひ弱な身体と戦うだけの時間。バトルミュージックは自分がみんなと演奏した楽曲と、勝行の歌声、エンドレスリピート。
イヤホンから流れる甘い声に耳を集中させながら、光は胸ポケットをくしゃりと握り締めた。
五百円玉が一枚。ニトログリセリンの空袋が一つ。
誰かの役に立てた証は、昨日の記憶代わりに残っていた。
ここ最近、光は眠れない日々が続いていた。風邪を拗らせ肺炎に至ったのは、睡眠不足からくる体力低下が原因だろうと主治医は語る。
横になると息苦しくなりやすいので、病室のベッドはまるでリクライニングチェアのような形にしてある。それでも細かな咳が一度胸につっかえると、そのまま怒涛の如く噴き出し、胸を突き破らんばかりの勢いで止まらなくなる。心臓も内臓も、いつか全部身体から吹き飛んでしまうのでは、と光は思った。本能で身体がくの字に曲がる。
(ああ……俺……今度こそ死ぬかも……)
別に今すぐ死んでもおかしくないのだ。生まれた時から欠陥だらけの身体で十七年も生き延びたことがどれほどに重苦なことか。当事者にしかわからない抉れるような痛覚に、脂汗をかきながら耐え続ける。
「がんばれ光くん」
誰かがそんな声をかけてくる。こんなに頑張って耐えているのに、もっと頑張れだなんて。酷な話だ。休憩すら許されない、倒れてもなお続く鬼畜なバトル。楽になりたくて逃げようとするなら、それは死ぬという選択肢以外、見当たらない。
(……クソ野郎たちに
こんな声は聴きたくない。嫌なことばかり思い出してしまう。
聴こえるものは勝行の歌とピアノの音だけでいい。大音量で音楽をかけてくれたらきっと、このうるさい咳とざわつく機械音を吹き飛ばしてくれるに違いない。――誰かにそう伝えたかったけれど、現実は声を紡ぐことすらできなかった。何も見えない暗闇の中で、自分のせき込む声と心拍数の異常を伝える電子音ばかりが響き渡る。
『――パパの病気は魔物のせいだから』
ふと、あの四つ葉探しで一緒に行動した女の子の声が蘇る。
『天使さんも病気?』
『天使さんのパパとママは?』
『かわいそう』
ほろり、静かに涙が零れた。胸が痛い。喉が苦しい。生きるのがつらい。
でも死ぬのも怖い。
こんな呪われた身体とは、一体いつまで付き合えばいいのだろう。
気を失いそうなほどの苦しみに顔を歪ませ、胸を何度も掻きむしる。最中、暖かくも強引な手に無理やり止められた。何するんだと叫ぶ声も外に出ないまま、光の意識は闇の中にごぼごぼと溺れていった。
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「勝行くんが手を支えてくれていたから、少しマシになったよ」
「本当ですか……これで?」
「ああ。彼の胸のやけど痕とか、痒みも伴うんだろうね。すごい爪を立てたりするから、しょっちゅう血まみれになってしまうんだ」
「……あの。お金はいくらでも払うので、そういうところも全部治療してもらえますか?」
「ふふ、面白いことを言うね勝行くんは。もちろんスタッフ全員、全力で彼の治療にあたっているよ。傷口もそれほど酷くないだろう?」
「あっ……すみません、失礼なことを」
「いいや。それでもこんなに発作が酷いのは、原因が今までとは違うところにあるからかもしれない。年齢的にもそろそろ一度再検査した方がいいかもしれないね。夏休みに検査入院することも考えてもらおうかな」
「検査……入院。です、か」
「うん。あとは精神的な何かもあるだろうね。ここ最近、警察の事情聴取が続いて疲れているのに寝入りばなに発作ばかり起きるから、ずいぶん参っているようだ。今度心療内科の先生にも診てもらおう。検査の件は君たちのお父さんと相談したいんだが、連絡は取れるかな」
「はい、すぐ確認します」
うっすらと戻る意識の向こう側で、勝行と主治医の声が交互に聞こえていた。いつの間に戻ってきたのだろう。もう夜なのだろうか。そんなことを考えながら、光はゆっくり目を開けた。目を閉じる前に見た制服姿がもう一度映る。
「……」
声は掠れてうまく出なかった。きっと酸素吸入しながら吸引剤を投薬されていたのだろう。あれの直後は声帯が使い物にならないのだ。
「起きた?」
目を覚ましたことに気づいた勝行が、汗だくの光の前髪を何度も梳いた。
「どこか痛むところはないか」
座るような姿勢で眠る光と、傍でパイプ椅子に座って頭を撫でてくれる勝行の視線はほとんど同じ高さだ。その手に頬を摺り寄せ、出せない声の代わりに頬を動かして伝える。
「お」「か」「え」「り」と。
「うん……」
どこか寂し気な様子で頷くと、勝行は両手を頬に添えたまま軽く口づけた。
ただいま、という声は聞こえてこなかった。