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第32話 八月の砲声

 大統領執務室。先程までの会議の喧騒とは別物のような静けさが、あたりを支配する。

 椅子に浮かび上がる人影。ゆったりとした音楽が流れる。勇壮でかつ、堂々たる曲。「осударственный гимн СССР(ソ連国歌)」の調べである。

 椅子に足を組んで座る一人の体格の良い中年男性。ソ連外務大臣『アンドレイ・グロムイコ』その人である。

 女子高生では到底、太刀打ちできる交渉相手でないことは確かだった。しかい奈穂はひるむことなく男性に対峙する。

 先程の時間——知恵や墨子が稼いでくれた時間で、かなりの情報を収集し、それを分析することができた。あとは自分の信じるところを叩きつけるだけだ。

 行動マーカーと選択肢が無数に表示される。まずは『確認』『ソ連はキューバに対して攻撃的な武器を援助していないか?』のタグをぶつける。

 グロムイコいわく『ニエット(ノー)』

 即、グロムイコの『質問』『アメリカはキューバの海上封鎖、爆撃もしくは侵攻を準備していないか?』の選択。

 奈穂『反論』『貴国の西ベルリン包囲に対応するための選択である』『提案』『国連安保理にて貴国の暴挙を明らかにする予定』

 しばしの沈黙。そこで知恵が口を開く。

「こういう状態で、お互いが暴発してしまうのは、第一次世界大戦を再現してしまうようなものだと思います」

 空中に浮かび上がる直方体。それは知恵が合図を送ると、グロムイコの懐にぽんと飛び込む。

「『八月の砲声』という我が国の本です。第一次世界大戦が、レベルの低い外交と、軽率な判断ミスが重なったことで起こってしまったことを、まとめたドキュメンタリーです」

 知恵がにやっと笑みを浮かべながら続ける。

「ロシア語に訳したものになります。これから帰国とのこと。ぜひ愛すべき貴国の指導者の皆様に、お読みいただきたいと思います」

 無言のグロムイコ。少しの間の後、すっと彼の人影が消える。

「伝わったかな?」

「多分。とりあえず、私達が無用な戦争は、決して望んでいないってことは」

 無言でうなずく墨子。

「それじゃあ、海上封鎖を開始しようか。後手に回ってしまったが、大丈夫。むしろベルリン封鎖に対する対応という体裁が整っているから、いいんじゃねえのかな?」

 墨子がそう提案する。

 奈穂は右手を握る。大統領による『承認』。米ソの緊張がゆっくりとましていくことが予想された。

 しかし、これも三人の共通理解であった。少しずつ状況をすすめつつも、決して沸騰はさせない。ゆっくりと状況を煮詰めつつ、随所でガス抜きを行っていく。まだ大丈夫。武力衝突は起こっていない。このままなら——

 その瞬間に、再びアラームが鳴り響く。場所は西ベルリン。それはそこに、新たな火種が生じたことを意味していた。

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