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34.街外れの民宿にて

 優しそうな老夫婦はともにエルフの血が濃いとのことだった。それぞれわかりやすく耳が尖っており、そこにはナディアと同じように精霊石のあしらわれたピアスがはめられていた。


 格安で、という話だったにもかかわらず、老夫婦は無料で泊めてくれると言ってくれた。素泊まりではなく、夕食や朝食もつけてもらえて、更にはチェックインが早かったリーゼロッテのために、ウェルカムスイーツまでずいぶん豪華なものを出してくれたというのに。


 さすがにそこまでしてもらうのは、と夕食後に部屋に戻ったリーゼロッテは窓際へと置かれていた丸いテーブルセットの上へと荷物を広げる。野宿が続いていたせいで使うことは少なかったが、改めて見てみると案外小物――特にシリウスのための――は多かった。リーゼロッテ自身の着替えよりシリウス服の方が枚数がある。自分の洗顔石鹸などは持っていないのに、シリウスを洗うための洗剤や柔軟剤は入っている。その他にも、シリウスについたゴミを取るための小ぶりな粘着テープや、シリウス専用の吸水性のいいタオルなんかも入っていた。


「お金……どこに入れたっけ」


 リーゼロッテは雑多に取り出したその中から目的のものを探し出す。ほとなくして取り上げたのは桜色のがま口財布。ぱちんと音を立てて開けた中を覗き込み、うーんと考え込むような声を漏らす。


「明日お部屋を出るときに、少し置いて行けばいいかな……?」


 直接渡そうとすると、受け取ってもらえないかもしれない。呟いたリーゼロッテは、一人頷いてから財布の口を閉じた。


 通された食堂で出された夕食はとても美味しかった。ウェルカムスイーツの際にも食後のデザートのときにも使われていたナディアのジャムはやはり絶品で、メイサやアリスハインへの土産と称して購入できないのが惜しいと思うくらいだった。


「さて……じゃあ次はお風呂かな」


 広げた荷物はほとんどそのままで、むしろちょうど良かったとばかりにリーゼロッテが手に取ったのはシリウスのもこもこパジャマとシリウス専用の道具たち。


(……!)


 シリウスは久々に絶句する。


 不安定とは言え浄化魔法を使用していたため、リーゼロッテもシリウスもさほど汚れてはいなかった。それでも許されるなら風呂に入りたい、その気持ちはまぁわかる。案内された部屋は一人部屋で、部屋自体そう広くはないものの、トイレも風呂もベランダまで専用のものがついていた。望める外界はすでに真っ暗になっていたけれど、出窓も大きく、日中に望める景色も長閑で美しかった。


 いや、それはともかく。


「猫足のかわいいバスタブだったよ。お湯はもうすぐ溜まるから……」


 リーゼロッテは椅子の上へと置いていたシリウスに視線を向ける。


(いや、俺は別にいい……)


 久々に感じるこの危機感。

 リーゼロッテはそのまま笑顔で手を伸ばし、ぬいぐるみシリウスの身体を掴もうとして――、


「あ、あれも一緒に洗っちゃおうかな」


 けれどもその指先は不意に軌道を変える。


「わたしここに入れてたよね……?」


 誰にともなく言いながら、一旦持っていた荷物をテーブルに戻したリーゼロッテは、シリウスの隣に置いてあったポーチを拾い上げる。中に入っていたのはクローバーの刺繍の施されたハンカチだった。


「……あれ?」


 そこで気づく。ポーチの底に追いやられ、くしゃくしゃになっていた紙幣の存在に。


「なんでここにお金が……?」


 リーゼロッテは瞬き、天板の上へとポーチをひっくり返した。

 昨日、リーゼロッテがミカエルに渡したランチの代金だった。


「え……これ、もしかして、ミカエル……?」


 空だったはずのポーチに、支払ったのと同じ額のお金が入っている。さすがに察したリーゼロッテは、「もう」と僅かに眉を下げた。


「ちゃんと払うって言ったのに……」


 どうしよう、と考えてみるけれど、これから直接返しに行くのが得策でないことくらいはリーゼロッテにもわかる。そもそもミカエルは公演中かもしれないし、客でもないリーゼロッテがこんな時間――夕食時も過ぎた頃――にたずねていけるほど気安い施設でないのは明らかだった。


(まぁ、そこはもういいだろ。ミカエルを立ててやれよ)


 矛先が逸れたことでほっとしたのも束の間、リーゼロッテは再びシリウスへと手を伸ばす。いつのまにか皺だらけになっていた紙幣は軽く伸ばされ、財布の方へと移されていた。そうして気を取り直したように、リーゼロッテはシリウスを手に取り、顔を上げた。その表情はすでに普段通りの明るいものになっていた。


「ミカエルには返せるときに返すとして……とりあえず、いまはお風呂だよね」


 テーブルに戻されていたシリウス専用の洗剤と柔軟剤をともに取り上げ、今度はもこもこパジャマではなく同じく専用のタオルを摘まみ上げる。


「着替えはこっちでしたらいいし……まずは身体をきれいにして、ハンカチも洗って……」


 ぶつぶつと呟きながら、リーゼロッテはくるりと踵を返す。

 もはや逃げ場のないシリウスは黙って連行されるしかなかった。なかったけれど、バスルームには洗面台も完備されていたから、服はそこで浸け置きすればいいし、なんならシェリーはわたしと一緒に入っても……なんてことまで口にされるとさすがに閉口してしまう。


 それでもなにもできない身であれば、されるに任せるしかないのだけれど、


(冗談は顔だけにしろよ……)


 そう思うくらいは許されたい。


「雨期もそろそろ近そうだけど……もうしばらくもってくれるといいね」


 洗面台の前に立ち、風呂用の桶にぬるま湯を溜めたリーゼロッテは、手慣れた様子でそこに洗剤を垂らす。そうしてお待たせとばかりに服を脱がしにかかるその手付き、表情はあまりに楽しそうで、シリウスはいつぶりかのまな板の鯉状態をあじわうのだった。

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