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30.そのジャムの名は

 夜が明けてしばらくたっても、花は咲いていなかった。昨夜はとても晴れていて、満月ほどではないにしても月明かりはたくさん浴びられたはずなのに。


「……なんで咲かないのかな」


 鉢植えを前に呟くポリーの様子が見ていられなくて、リーゼロッテはもう一日待ってみようかなんて言ってしまいそうになる。だけどだめだ。それだとナディアとの約束を破ることになる。ナディアの心配する気持ちもよくわかる分、リーゼロッテはそこだけは譲ってはいけないと思い直す。


「これ……一緒に持って帰るのはどうかな? そのポリーに一任してるってオルランディおじいちゃんも、しばらくは帰れないんだったよね?」

「それはそうだけど……でも無理だよ、重いし……。それにこの湖の水がいいっておじいちゃん言ってたから」


「重いのはなんとかなりそうだけど……湖の水かぁ……!」


 多少重いのはわたしが頑張れば……とは思うものの、単純に物量が多くなると難しい。

 リーゼロッテは束の間押し黙り、斜めがけにしたポーチの紐をぎゅっと握った。


(いや、そもそもそれはどうなんだ。その鉢植えだってそのじいさんのものなんじゃないのか?)


 そんなやりとりを聞くともなしに聞いていたシリウスは、ぶつぶつと心の中で独りごちた。


(仮にどうしてもそうするっていうなら、水はまぁなんとかなりそうだが……)


 普段通りにポーチから顔だけ出した姿で、共に俯く二人をもどかしげに見つめながら更に続ける。


(あれを使えばいいだけの話だしな)


「と……とりあえず朝ご飯にしよっか。暗くなるまでに帰るにしても、まだ時間はあるから」


 なのにリーゼロッテはただただにこやかに笑って見せる。いい案がなにも浮かばなくて場を誤魔化しているときの表情かおだった。

 目の前の花のつぼみは本当にいまにも咲きそうで、なのにまだ少しだけ固いようだった。






 ナディアが持たせてくれた中にはクロワッサンとジャムも入っていた。バターたっぷりのクロワッサンと、ジャムの方は一見普通のいちごジャムに見えたけれど、瓶の蓋を開けてみるとふわりと別の香りも漂った。


「え……え、これって……」

「それ、バラの花弁が入ってるジャムだよ」

「あ、あ、本当だ、バラの香りだ!」


 ポリーがどことなく得意気に教えてくれたそれは、いちごとバラで作られたジャムだった。ナディアがこつこつ手作りしているもので、ポリーの祖父母の営む民宿で出される食事にも使用されているらしい。評判も上々で、けれども一度に作れる量が少ないため販売はしていないとのことだった。


「わぁ、おいしい……!」

「でしょー? わたしも大好きなんだ!」

「うんうん、甘さもちょうどいいし、香りも素敵だし……!」


 リーゼロッテは思わず頬に片手を添える。緑がかった空色の瞳をきらきらと輝かせ、それから浸るようにとろんと目尻を下げた。ポリーは自分のことのように嬉しそうに微笑った。


「ママってね、ほんとになんでもできるの。このスカートの刺繍もそうだし、リズが持ってたハンカチのクローバーもママが刺繍したやつなの」

「え、あれも……?」


 そのハンカチは、いまはシリウス専用とも言えるポーチに入れてある。


「そう。ママのエプロンのひまわりも。お料理も上手だし、わたしの好きな甘いお菓子もたくさん作ってくれるの。絵本を読むのも、お絵描きもとっても上手なんだ」


「へえ……!」

「だから、あとは……」

「……あとは?」

「あ、ううん、なんでもない。ね、ママすごいでしょ?」

「ん、うん。ほんとすごいねぇ」


 リーゼロッテが小さく瞬きつつも頷くと、ポリーはまた笑った。花が咲かなかったことで見るからに気落ちしていたポリーの声も、少しずつ明るくなってきた。


 精霊石を包んでいたハンカチはいまはリーゼロッテのポケットの中に戻っている。そこに添えられていた小さな四つ葉のクローバーを思い浮かべながら、


「ポリーはナディアさんが好きなのね」

「うん、大好き!」


 いっそう花が咲いたみたいに破顔するポリーに、リーゼロッテもつられたように微笑んだ。


「あ、そうだ。ポリーもこのハーブティー、飲んでみる?」


 食後にマグへと注いだハーブティーは、水筒に残しておいたものだった。それをポリー用にも少しいれて、目の前へと差し出してみる。

 メイサの茶葉のブレンドはアリスハインのものを参考にしているため、それ同等の効果があった。具体的には魔法力の回復以外にも、魔法を安定させる作用があるのだ。

 であれば、覚醒したばかりのポリーにもちょうどいいかもしれない。思い至ったリーゼロッテは試しにと勧めてみたのだけれど、


「……これ、おいしい?」


 ポリーはマグの中を覗き込んだまま、すぐには口をつけようとしなかった。

 リーゼロッテは瞬いた。ああ、確かにハーブティー(この飲み物)は子供向けとは言い難いかもしれない。香りも大人向けと言えば大人向けだし、甘いお菓子が好きだと言ったポリーの口には合わない可能性もある。


「わたしはおいしい……と思うけど、あんまり甘くはないからポリーには飲みにくいかな?」

「ママのジャム入れてもいい?」

「あ、もちろんだよ!」


 それはいい考えだとリーゼロッテは頷いた。甘いものが好きとはいえ、バラの香りのするジャムが好物なら、ハーブティーだって甘さを調整すればいけそうだ。


「……あ、おいしい」


 スプーンでひと匙すくって入れたジャムをかきまぜ、こくんと一回喉を鳴らしたポリーは、続けてこくこくと飲み続け、あっという間にマグを空にした。


「おかわりしてもいい?」

「あ、いいよ! さっきの少しだったしね!」


 味見代わりのつもりだったから、もともと量はそこまで入れていなかった。リーゼロッテは嬉しそうに頷くと、再び水筒から中身を注ぐ。今度はさっきよりもたっぷりと。


「その水筒……見た目よりたくさん入るんだね」


 そこでポリーが興味深そうに言った。

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