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10.アリスハイン先生

 肩上で切られた不揃いな銀髪を揺らし、リーゼロッテは空高く舞い上がる。ひとしきり遊んで飽きたらしいカラスの姿はもう見えない。風もいくぶん穏やかになって、頭だけ出されているシリウスも眼前の景色に(心の中で)目を細める。


「見て、シェリー。きれいでしょ」


 ここまで高度を上げれば地平線だってはっきり見える。リーゼロッテにとってはある意味見慣れているものだったが、たしかにシリウスにとっては新鮮な光景だった。


 リーゼロッテは枝を切ることを選ばず、自分の髪を切った。枝葉に絡んだ髪の毛はどうやっても解けそうになく、結果シリウスは当然のように木を切るのだと思っていた。


 なのにリーゼロッテが魔法で切り離したのは自身の髪の方だった。苦手な魔法を幾度か重ねがけして、お世辞にもきれいに切れたとは言えないそれに、けれどもリーゼロッテはどこか満足そうだった。髪を切ろうと決めたのも早かった。


 髪が絡み付いた枝の傍に、雛がかえったばかりの鳥の巣があった。そうでなくとも、みんなの生活を守ってくれている自然を、不用意に傷付けたくないという気持ちも大きかった。


師匠せんせい、心配してるかな」


 大幅に――とは言わないまでも、約束の時間はすでに過ぎていた。森を通り過ぎ、見えてきた小高い丘の上へと佇むのはレンガ造りの小さな家。屋根に取り付けられた煙突からは細い煙が上がっており、その周囲を取り囲むように色とりどりの花畑が広がっている。一部には畑もあり、さまざまな野菜や果物も実っていた。


「遅くなってすみません!」

「やぁリズ、いらっしゃい。また朝寝坊でもしたかなと思っていたところですよ」

「きょ、今日は寝坊じゃないです!」


 そんなふうに言われるほど寝坊するタイプなのか。寝相が悪いだけじゃなく? というか、それで遅刻常習犯とか最悪じゃないか。


 呆れかけるシリウスに、まるで言い訳するみたいにリーゼロッテは声を上げる。


「だいたい、最近は寝坊で遅刻なんてしてないじゃないですか!」


 最近は。

 続けられたそれは、いささか逆効果だった気もするけれど。


「うん、まぁ、確かにそうですね」


 扉を開けた先、部屋の奥のキッチンから姿を現したのは、背丈で言えば一六〇程度のいくぶん小柄な青年だった。腰まである黒銀色の癖っ毛は背中で一つに編み込まれており、同様に癖のある前髪はふんわりと真ん中で分けられている。リーゼロッテのものとよく似た法衣――刺繍等の装飾はかなり手の込んだものではあったが――の裾を若干引き摺りながら、青年は柔らかく笑って言った。


「ごめんごめん、冗談ですよ」

「アリス先生のは冗談に聞こえないんですよ……」


 アリスハインと呼ばれたこの青年が、リーゼロッテの家庭教師であり師匠だった。

 リーゼロッテの傍へとやってきたアリスハインは、その顔を見返し目を細めた。


「なにかあったんですね?」

「え?」

「その髪」


 問い返すリーゼロッテに、アリスハインは自分の首の辺りを指差し示唆する。

 リーゼロッテは思い出したように背筋を伸ばし、苦笑混じりに頷いた。


「あ、そうなんです。さっき森で、ちょっとあって」

「うーん、カラスの仕業かな?」

「え……」

「腕のそれ、箒の穂先の乱れ方……それに……」


 リーゼロッテの箒は、外へと繋がるドアの傍へと立てかけられていた。それをちらりと一瞥し、アリスハインはリーゼロッテへと向き直る。片手を掲げ、無言で伸ばされた指が触れたのはリーゼロッテの首筋だった。


「えっ」

 思いがけない感触に、リーゼロッテはとっさに首を竦める。

「ここも血が出ています」

 アリスハインは一旦手を引くと、けれどもすぐにまたそこに触れた。

「じっとしてて」

 言いながら、うっすらと残る擦過傷の表面をなぞる。ぴり、と微かな痛みが走り、リーゼロッテはぴくりと目を眇めた。


 そんな二人のやりとりをシリウスは黙って見つめていた。リーゼロッテの肩にかけられたポーチの中、動けない、喋れないまでも頭だけは出された状態のため様子を窺うことくらいはできる。


「はい、いいですよ」


 アリスハインは傷の上で何度か指を往復させると、ふっと微笑んで手を離した。


「あ……ありがとうございます」


 アリスハインが撫でた場所がじんわりと熱を持っていた。確かめるように触れたそこに、傷はもうない。跡が残ることもなく、最初からなにもなかったように汚れすら消えていた。


「簡単な治癒魔法ですよ。それと、浄化魔法を少しね」

「わ……。あ、シェリーもきれいになってる……!」


 気が付けば、リーゼロッテの法衣やポーチだけでなく、ぬいぐるみのシリウスも洗い立てのようになっていた。


(……ふん)


 シリウスは無言で視線を逸らす。本当なら感謝すべきところなのだろうが、あまりにわかりやすく感激するリーゼロッテに、どこか面白くないような気分になってくる。


 いや、別に。リーゼロッテの師匠の腕が確かなのは最初から知っていたし、いまさら驚くことでもない。以前から親しくしている師弟関係だ。アリスハインのもとで魔法を学んでいたときのことを考えれば、この程度の触れ合いは日常茶飯事だったに違いない。


 思いながらも、伏せられない目を伏せ、吐けない息を吐き捨ててしまう。

 そんなシリウスを横目に、アリスハインは微笑む。


「じゃあとりあえず……次は髪を整えましょうか」


 再び首元を示されたリーゼロッテは、一つ瞬いてから自身の髪先を軽く掴んだ。

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