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第38話「一緒に謝ってください」

 因果律研究所のエージェントは治外法権で活動しており、警察に捕まるような心配は少ない…のだけれど、それは法律を破っていいというわけではなく、あくまでも『いざという場合のみ研究所が何とかしてくれる』という意味だろう。

「あああ…結衣お姉さんにメッセージを送ったら、なんて返事が来たと思いますか…?」

「知らないわよ…それよりも制限速度は守りなさいよ。ちょっと飛ばし気味だけど、警察はテロリスト対策よりも速度違反の取り締まりに力を入れているから、ボーナス査定の餌食にならないように気をつけなさい」

「まあ、うん…速度違反で切符を切られるくらいなら、研究所も介入はしないだろうね…」

 敵を捕縛して少ししたら回収班が訪れ、私たちはSUVの後部座席に戻って美咲さんの事後処理を待つ。そしてそれが終わると血相を変えた美咲さんが運転席へと戻ってきて、県道の速度指定ギリギリのスピードで車を発進させた。

 普段の美咲さんの運転は乗っていると眠くなるくらいには丁寧で、スピード違反も起こすことはない。けれど、今日は…急な仕事のせいで結衣さんとの約束を忘れていて、大幅に時間をオーバーした状態であれば…さすがにアクセルを踏む足にも力が入ってしまうのだろう。

 美咲さんは車のライトが切り裂く夜の闇をまっすぐに見つめながら、震える声で現状を報告しようとしている。そこに冷静な狙撃手の面影は一切なくて、ただどうしようもないことを私たちに聞いてもらい、そして『協力』を仰いでいるのだろう。

「…『いいよ、大事な用事があったんでしょ? ご飯を温め直すから、近くまで来たら教えて』…とのことです…」

「結衣さん、やっぱり人格者ね…感謝しなさいよ?」

「というか、怯えるような内容は含まれてないと思うんですが…」

 運転を開始する直前、美咲さんはもちろん愛する恋人へとメッセージを送っていた。その内容はさすがに検閲していないけれど、いい加減に見えて繊細なこの人のことだから、きっと平伏するかのように謝罪したのだろうと思う。

 同時に、結衣さんは美咲さんに対して苦言を呈することが多いのだけど、彼女は非常に温和で包容力もあることから、美咲さんの謝罪を真っ向から突っぱねることは考えられない。案の定、美咲さんが受け取った返信内容は結衣さんらしいものであって、少なくとも私と絵里花にとっては今も怯え続ける美咲さんの気持ちがわからなかった。

「…結衣お姉さんはですね、お説教は多くともめったに怒らない人なんです…でもですね、約束を守ることに関しては人一倍厳しくて、そういうところも含めてお慕いしているのですが…実はちょっと前も寝坊して約束の時間に遅れたことがあったんです…」

「…仕事が理由なら同情するわ。単なる寝坊なら呆れるわ」

「結衣さん、責任感が強いからね…」

「…それでその日もメッセージではすぐに許してくれたのですが、私がちょっと甘えようとしたら一日中すいっと回避されて…うう、結衣お姉さんは『ちゃんと許したいと思っていても体は言うことを聞かない』みたいなところがあるのです…」

 私たちの前だと結衣さんは文句なしの『できた大人』で、不機嫌を表に出すことはまずなかった。美咲さんと一緒にいるときは呆れたり叱ったりするけれど、私たちに対してはどこまでもいいお姉さんでいてくれて、その様子を聞かされてもピンと来なかった。

 けれど、あんなにも立派な大人でも恋人相手には隠し切れないわがまま──わがままというには可愛すぎると思うけど──を漏らしてしまう一面については、むしろ親しみやすさが沸いてきてしまう。だから美咲さんには悪いと思いつつ、私はちょっぴり不機嫌な結衣さんを想像したら口元が緩んだ。

「…ですから、お二人には何とぞ手はず通りに…」

「…まあいいわよ、今日はこんな仕事をさせられたんだし、私たちも結衣さんには安心してもらいたいし」

「だね。二人には仲良しでいてもらいたいから、美咲さんの言う通りにうまく伝えますので」

「…うう~、やっぱりお二人はとってもいい子です…美咲お姉さんは嬉しくて涙が出ますよ…」

 回収班が来るまでのあいだ、私たちは『どうすれば結衣さんがすんなり納得してくれる言い訳になるか』を仕事と同じくらい真剣に考えて、無論研究所の力を借りられるわけもないから、結局は口裏を合わせることにしたのだ。

 具体的には『私と絵里花がちょっと遠出をしたときにお金を落とし、一緒に携帯端末も紛失したので美咲さんに迎えに来てもらった』という体で謝りに行くことになり、私たちも同伴せざるを得なかった。

 …正直に言うと、こういう些細な、それも優しい嘘であっても結衣さんを騙すのは気が引ける。ただでさえ私たちはエージェントとして結衣さんに言えないことが山ほどあるのに、こういう局面においても真実をありのまま伝えられないと思うと、魚の骨が食道ではなく胃にまで刺さったような違和感を覚えた。

(…でも、言えるわけないよね。私たちも、美咲さんも)

 人間は親しい人にすらすべてを伝えられないのだから、こういう任務であればむしろ言わないほうが余計な気苦労をかけないとも表現できる。

 けれど、時々私たちの様子が違っていることを寂しそうに見つめている結衣さんを思い出すと、むしろ話してしまって一緒に背負ってもらうほうがいいのではないのか…なんて、絶対に実行できないことを考えてしまっていた。

 私の場合は一番大切な人が同じ秘密を背負っているのだから、どうしてもそういうことに対して甘く考えてしまうのかもしれない。だから美咲さんが冗談めかして感謝しているのを背中越しに見ていると、私たちは共犯者であることを今になって痛感し、せめて私たちも美咲さんの重荷を背負いたいと思った。

 結衣さんに背負わせられない、美咲さんの重み。本当は美咲さんも結衣さんに持ってもらいたいのに、ただ自分で背負い込まないといけないつらさ。

 それはいったい、どれくらいの重しになっているんだろうか?

「あ、結衣お姉さんが許してくださいましたら、みんなで一緒にお泊まりするのもよさそうですね…結衣お姉さんのおうち、来客用のマットレスもありますので」

「あんた、そんなことも知ってるの?」

「『一緒に寝る』ようになるまでは使わせてもらってましたので。今はもちろん一緒にベッドで寝てますよ…結衣お姉さんのベッド、すごくいい匂いがして興奮するんですよね」

「言っとくけど、私たちがいる横で盛ったらただじゃおかないわよ! 結衣さんに恥をかかせたら、本当のことを言うからね!」

「絵里花、いくら美咲さんでもそれは…うん…ええと、どうしても『したい』場合、言ってくれたらちゃんと私たちは家に戻りますので…」

 だけど美咲さんはそんな重みなんて感じていないように、狙撃手と作曲家をぱっと切り替えるが如く明るく提案してきた。結衣さんのマンションには行ったことがあるけれど、私と絵里花の家とは異なり一人用だから、四人で宿泊するには若干狭いかもしれない。

 けれど、美咲さんの言葉からは『怒られるのが怖いので今日は一緒にいてください』なんて言外に感じた私は、やっぱり断れなかった。

 …まあ、美咲さんと結衣さんが『おっぱじめる』のはさすがに困るけど。そして私たちの前でも気にせず甘えている様子を思い出したら、一抹の不安がよぎるのも事実だ。

 だから私なりに気を使ったら「私への信頼がなさ過ぎてへこみますねぇ…」と本当に落ち込んでいるのかどうか判断に困る声でヘラヘラと笑い、絵里花は「耳栓、買って行ったほうがいいかしら…」と割と本気で悩んでいた。


 *


「なるほど、そういうことかぁ…」

「このたびは面目次第もございません…」

 結衣さんのマンションに到着後、一も二もなく私たちは来訪し、部屋に入ると同時に美咲さんは正座をして深々と腰を折って頭を下げた。美咲さんの仕草はいちいち育ちの良さを感じられるけど、この姿勢については華道や茶道を連想させられた。

「あの、美咲さんを怒らないであげてください…美咲さんが助けてくれないと私たち、家に戻れるのが明日以降になっていたかもしれないので」

「…ごめんなさい、結衣さん。今回に限っては、本当に美咲は悪くないわ。今回に限っては」

「絵里花さん、なんで二回も言ったんですか…」

 そして今回遅れる原因となった私たちも頭を下げて、よどみなく打ち合わせ通りの言葉を伝えた。ただ、私の場合はちょっと小賢しく『美咲さんが来てくれないと』ではなく『助けてくれないと』という、若干事実に近い言い回しになったけれど。

 実際のところ、今回の任務は美咲さんがいなければ生きたまま捕まえることはほぼ不可能だったから、『助けられた』というのは純然たる事実だった。

 …私、もしかしたらこの中で一番言い訳がましいかもしれない。

「…三人とも、頭を上げて」

 まずないと思うけれど、もしも詳しく追及されたら次のプランは…と勝手に考えていたら、結衣さんの静かな声がワンルームマンションに響く。

 それは針のような鋭さはなく、かといって綿棒のように丸みを帯びているわけでもなく、ぎゅっと押しつけられたら何らかの圧力を感じるような重量感があった。

 だからこそ理知的なこの人は、声のボリュームを落として余計な攻撃性を抑えてくれたのだろう…なんてまたしても感銘を受けつつ顔を上げたら、美咲さんが大好きであろう、結衣さんの匂いと感触に包まれた。

「…もうっ。遅くなるんならもっと早く、そして事情を聞かせてほしかったよ…美咲、私、前にも言ったよね? 美咲はふらっとどこかに消えそうだから、その前に必ず私に言ってねって」

「は、はい…あの、でも、今回は本当に予定外のことでして…」

「言い訳しないの。信頼はね、普段の行動で積み重なるんだから…私を不安にさせたくないのなら、もっと何でも話して」

「…はい、お姉さん…」

 結衣さんは横並びに座る私たち──美咲さんが真ん中、右が私、左が絵里花だ──を同時に抱きしめるように美咲さんへ飛び込み、私と絵里花は若干の窮屈さを感じつつもその抱擁を受け入れている。

 そして真正面にいる美咲さんはその身体をおずっと抱きしめ、言い訳すら制されて子供のように返事をするしかなかった。

「円佳ちゃんに絵里花ちゃんも。二人くらいの年齢だと遠出は大変なんだから、そういうのは事前に私や美咲に相談して。私は二人のお姉ちゃんじゃないし、お母さんってわけでもないけど…でもね、美咲がすっ飛んで迎えに行くように、私だって何かあれば力になりたいの。たいしたことはできないかもだけど」

「…そんなことないです。私も絵里花も、結衣さんにすごく…助けられてます」

「…私も、円佳と同じです。私みたいなのにもいつも優しくしてくれて、何でも話を聞いてくれて…その、私、結衣さんのこと…お、お姉ちゃんみたいだなって、思ってます、から…」

 結衣さんは美咲さんを心配している、それはわかっていたけれど。

 優しい、エージェントの恋人としてはあまりにも優しすぎるこの人は…何も言えない子供の私たちですら、心から気遣ってくれていたのだ。

 それこそ、「何がこの人をそうさせるんだろう?」と思ってしまうくらいに。研究所という閉鎖された世界で長く生きてきた私たちにとって、結衣さんの見返りを求めず好奇もない優しさは…油断すると泣いてしまいそうなくらい、穏やかな音色を心まで運んでくれた。

 いじっぱりな絵里花も結衣さんだけは本当にお姉ちゃんだと思っているのか、私にすらなかなか見せない素直さで片手を背中に回していた。

「…よしっ。ご飯は温め直したけど、四人分だと量が少ないから…ちょっと追加で何か作るよ。簡単なものだけど許してね」

「そんな…私も手伝います。普段から料理はしているから、役に立てると思いますので」

「そうだね、絵里花のご飯はおいしいから…私も手伝います」

「あ、私は寝てていいですか? ちょっと運転とかで疲れちゃったので…」

 結衣さんは私たちの背中を何度かぽんぽんと叩いたら、なにかを切り替えるように立ち上がって笑顔を浮かべた。その顔にはどこにも不安がなくて、私たちの隠し事すらも許してくれたように見えた。

 そしてご飯を作りに行こうとしたので私と絵里花は手伝おうとしたものの、「ウチのキッチンは狭いから、二人は休んでていいよ。お客さんだしね」と言われて、ちょっぴり恐縮しながら食器の用意やテーブル拭きだけ手伝うことにした。

 ちなみに美咲さんは許してもらえて安心したのか、猫のようにごろんと寝そべる。それに対して結衣さんは「いいけど、すぐできるからあんまり眠れないよ?」といつもの調子で呆れていて、事情を知る私たちは苦笑しつつ寝かせてあげることにした。

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