研究所での検査や訓練があるとき、私と絵里花は大抵主任とカウンセリングをしていた。もちろんそれを不愉快に思うことなんてなくて、言うなれば『保護者との面談』とも表現できる。
絵里花はごく一部の親しい人たち以外にはなかなか心を許さないけれど、清水主任はその親しい人たちに分類されていることもあり、一度会話が始まると時間がかかることもあった。
同時に、主任も忙しい人なのに私たちが話し始めると決して急かさず聞いてくれて、いいことがあれば一緒に喜んでくれるし、つらいことがあれば相談に乗ってくれていた。美咲さんと結衣さんもそうだけど、私たちに関わりの深い大人は善良な人たちが多い気がする…これも因果なのだろうか?
なんてことを考えつつ、私は食堂の椅子に座っていた。すでに昼食は終えているし、夜までには自宅に戻れそうだから、食事はせずに飲み物だけを頼んで絵里花を待っている。ぼんやりと眺める景色では私のように制服を着たCMCや白衣の研究員たちが入れ替わり立ち替わりやってきて、この人たちにも何らかの因果があるのだと思うと不思議な気分だった。
因果はほとんどの人にあって、その人生に大きな影響を与える。それは大切な人との出会いが決まるからというのもあるのだけれど、実際はそれ以外の出会い…友人や仲間、あるいは宿敵ともいえる相手とも何らかの結びつきがあるとも言われていて、今私が眺めている人たちとも何らかの因果があるのだろうか、そんなことを思っていた。
「ねえ、隣いいかな?」
カフェオレの入った紙コップを握ったり離したりしていたら、いかにもな可愛らしさを感じる高い声が耳に届く。その方向に首を向けるとアッシュグレーの髪をした美少女が立っていて、今度こそ私を見ていて、そして声もかけてきたのだと理解できた。
「あ…うん。どうぞ…?」
「ありがとー! ここっていろんな飲み物があるけど、スイーツとかはないのがちょっと残念だよねー?」
横長の白いテーブルには随分と空きがあって、その端っこに座っている私の隣に座る必然性は感じられない…親しい相手でもない限りは。
つまり座ってくるとしたら絵里花か美咲さん、あるいは主任くらいのものであって、予想外の来訪に私はトラバサミに捕まれたような気分になりつつも肯定の返事をしていた。
その返事をした直後には当然のように隣の椅子を引き、ややこちらに寄せながら素早く静かに腰を下ろす。今日はお互い訓練を重ねたのでそこそこ汗をかいたはずだけど、すでにシャワーを浴びてきたのかほのかにシャンプーの甘い香りが漂ってきた…つまり、それくらいには近い。
ちなみに手に持っていた飲み物は私と同じカフェオレで、ここに因果を見いだすのはあまりにも強引なのだろうか?
「ねえねえ、あなたが三浦円佳ちゃんだよね? すっごく優秀で可愛いエージェントだって聞いてるけど、本当みたいだね!」
「えっと、優秀とか可愛いとかは何とも言えないけど…三浦円佳であってるよ。あなたは…」
「あたし、早乙女莉璃亜! 実はここ出身のCMCじゃなくて普通の学生からエージェントになったから、全然知り合いとかいないんだよねー…だからさ、仲良くしてくれると嬉しい!」
「早乙女さん、だね。よろしく…でも、CMCじゃないのに学生エージェントになるなんて珍しいね」
早乙女さんは一口コーヒーを飲んだらすぐに私のほうに向き直って、訓練中のように余裕たっぷりな笑顔を浮かべて自己紹介をしてきた。そしてごく当たり前のように右手を差し出され、私は念のために絵里花がいないかを確認してからそれを握る。
その手はやっぱり銃をよく練習した人らしい固さがあったけれど、甲の部分は白く滑らかなままで、ネイルも整えているのが女子力高めといった雰囲気だった。
「あたしさー、いろいろあったのもあるんだけど、見ての通りすごく優秀じゃん? だから研究所から『エージェントになって欲しい』って言われて、そのついでに『年齢を重ねた状態での因果律の操作』の被検体にも選ばれちゃったわけ!…あ、これはなるべく内緒ね! 知ったからには円佳ちゃんにも『共犯者』になってもらうけど!」
「え…私、勝手に巻き込まれたの…?」
早乙女さんはけらけらと重要なこと──もしかしたら機密も──についてさらさらりと教えてくれて、私を勝手に共犯者認定してくる。無論そんな責任を背負えるほどの立場じゃなくて、突っぱねようかと考えたんだけど。
この子の「だーいじょうぶだって! あたし、円佳ちゃんなら誰にもしゃべらないって信じてるから!」という屈託のない笑顔を見ていると、すでに下の名前で呼ばれていたり、一方的に大事なことを教えられていたりすることも…あんまりいやじゃなかった。
…もしかして、本当に私とこの子には因果があるのだろうか? そんなふうに考えていると絵里花の顔がちらついて、できれば彼女が戻ってくる前に会話を切り上げたほうがいいだろうかと、早乙女さんに対して若干失礼なことを考えてしまった。
やきもちを焼く絵里花、可愛いんだけどな。
「…あの、因果律って今の技術だと『年齢を重ねてから操作すると安全性が保証できない』って言われているんだけど…早乙女さんは大丈夫? 体、どこか痛いとかは」
「あ、心配してくれてるの? やっぱり円佳ちゃん、噂通り優しい子だねー…でも大丈夫だよ、あたしに施されるのは『フツーじゃない特別な因果』だから! あ、これはさすがにまだ言えないけど」
「そうなんだ…うん、早乙女さんが苦しんでいないならよかったよ」
因果律は年齢を重ねることで測定できるようになるけれど、その操作は幼い頃…まだ因果がまったく発現していない頃でないと問題が起こりやすいとされていて、それこそ『どんな問題が起きても不思議ではない』とまで言われていた。
私がアクセスできる範囲の情報だと『長期的な精神不安定』や『異常な行動』が実際に確認されたらしく、やはり精神面に大きな影響があるみたいだった。多分だけど、物心がはっきりするほど因果と周囲の環境とのギャップが大きくて影響を与えるのかもしれない。
それは…なんて言うか、いい気分にはなれない。私も年齢を重ねるごとに研究所のしていることが『人の体をいじること』だと理解できるようになっていて、その結果として幸せになるどころか苦しめるのであれば、絵里花との因果が大切であっても反抗心は芽生えてしまう。
でも目の前の少女にはそういうそぶりは一切なくて、もしかしたら私が想像している以上に因果操作技術は進化しているのかもしれなかった。
「…ねえ、円佳ちゃん。あたしさ、今は決まったパートナーがいなくて、優秀だからいろんな場所…難易度の高い任務のヘルプみたいな感じで配置されているんだよね」
「…早乙女さん? あの、手…」
早乙女さんが苦しんでいないのなら、まあいいや…そんなふうに考えて私はどこかに移動しようと考えたら、そんな意思を見透かしたかのようにテーブルへ置かれた私の手は握られた。
今度は、握手じゃない。上から私の手をきゅっと握ってくる早乙女さんは、なにかをねだるような力加減で私の移動を制してくる。
絵里花以外の手が私に触れるのは随分と久しぶりな気がして、その感触は鋭敏に伝わってきた。絵里花のどこか遠慮がちで、それでも優しく甘えてくるのとは違って、早乙女さんのはクモの巣が絡みつくように離れる気配を感じられない。
いやじゃない。けれども嬉しいと感じられる要素は今のところ見当たらなくて、むしろ袋小路に追いつめられたような焦燥感が肩の辺りからじっくりと下に降りていく。すると私の手のひらは発汗し始めて、脳が危険信号を発しているように感じていた。
「円佳ちゃん、あたしのパートナーにならない? 円佳ちゃんはあたしと同じくらい優秀だし、可愛いし、優しいし…あたしね、ずっと君みたいなパートナーが欲しかったんだぁ…」
「いや、あの…私、因果律で決まった相手がいるから」
「うん、知ってるよ。でもね、あたしなら今からでも円佳ちゃんと組むことができるし、これまでよりもうまくやれると思うよ? そう、仕事だって…恋愛だって、ね」
「…っ、離して」
早乙女さんの言葉は間違っている部分はあっても、正しいといえる部分も存在していた。
彼女が優秀なのは訓練結果を見れば明らかだし、本人が認めるように美人だし、話した感じも仲良くなれそうな気はする。
でも、一番大事なところが間違っている。これまで…私と絵里花が積み重ねてきたものは、きっと無駄なんかじゃない。たしかに私も絵里花も不器用かもしれないけれど、それでも少しずつお互いの気持ちを確かめ合っていて、自分たちの因果をとても肯定的に受け止めていたんだ。
それに対して『もっとうまくやれる』と言われたと感じたら私の手汗はひゅっと引いて、せめて彼女を睨まないように顔を背けてから手を払う。早乙女さんにどんな意図があるかはわからないけれど、今の言葉は絵里花を見下す研究員と同じ色を含んでいるように思えて、仮に同じ言葉をもう一度吐かれたら…私は、手汗よりも危険なものが体からあふれてしまう気がした。
「ああっ、ごめんね円佳ちゃん…! あたしね、二人のことをバカにしたつもりはないんだよ? むしろ、円佳ちゃんだけじゃなくて絵里花ちゃんとも仲良くしたいと思ってるくらい…だから、そんな顔しないで欲しいな?」
「…ごめんね、私、絵里花のことが本当に大切だから。ちょっと早とちりしたかもしれない」
幸いなことに、早乙女さんは本当に私たちを揶揄する意図はなかったらしい。私がやや乱暴に振り払った直後、首だけでなく体もこちらに向けてぺこりと頭を下げ、それが上がって目が合うと…本当に申し訳なさそうにしていた。
作り物っぽさがないとは言えないけれど、それは悪意のある人間と断定するにはあまりにも真摯で、同時に同じ境遇…CMCであると思ったら、研究員と同じだと考えるのは失礼だ。なので同じように頭を下げ、その隙に表情を緩めるように努めた。
「あはは、円佳ちゃんは何も悪くないよ! でも、きちんと仲直りしたいから…もう一度握手、しよ?」
「…う、うん」
そして顔を上げたら早乙女さんはまた笑顔に戻っていて、私の中の罪悪感と憤りは半々くらいで中和された。完全には消せないだろうけど、この子とは組むわけじゃないのだから、次に会うまでにはなんとかなっているだろう…そう思っていたら。
先ほどまで私を捉えていた手がまた差し出されて、さすがにこれには躊躇が芽生える。けれどもその躊躇の種類は多数ありすぎて、ちょうどいい断り文句は浮かばなかった。
もしもまた変な触り方をされたらどうしよう。手汗、まだかいてるし。何より…絵里花に見られないかな。
でも下心を感じさせない──あるいは完全に隠し切っている──笑顔を見ていると警戒心を申し訳なさが凌駕してしまったのか、私は曖昧な返事で請け負うしかなかった。差し出された右手を同じように右手でおずおずと握り、手のひらで早乙女さんの感触を再び知覚する。
やっぱり、不快感はない。なるべく力を入れない私と違い、早乙女さんはぎゅっという音が聞こえそうなくらいには強く握ってきて、私はもう一度クモの巣へと突っ込んだ間抜けな羽虫のような気分を味わっていた。
案の定、すぐには離さない。早乙女さんは私との接触が貴重なものだと勘違いしているのか、目を細めて笑いながらもつながりを手放す気が感じられなくて、仕方ないからトゲのない言葉で離すように伝えようとしたら。
「…因果ってさ、誰か一人と結ばれるためだけじゃなくて、たくさんの人とのあいだにあってもいいと思わない? 因果律が『誰との相性が一番いいのか』というのを教えてくれるならさ、二番目とか、一番と同じくらいとか、そういう人たちとも仲良くする…みたいな」
「…まあ、友達として交流を持つんならいいんじゃないかな…」
早乙女さんは左手も使い、私の右手を完全に包囲する。手のひらも甲も彼女に包まれてしまった私は、ようやく自分が捕食される寸前まで追い込まれたのだと理解しかけた。
もちろん、私が本気で『実力行使』をすればこの場は容易に脱出できるだろう。相手を物理的に傷つけることにはなったとしても、『嫌がったのに離してくれなかった』とでも言えば監視カメラの映像とセットでギリギリ許されるかもしれない。
だけど、獲物を捕らえたクモが毒を流し込んでから捕食するように、早乙女さんに近づかれすぎた私はその感触や匂いに酔ってしまったのか、あるいは彼女の言葉を借りれば『絵里花の次くらいにこの人と相性がいい』のか、抜け出すためのいい方法は甘やかな毒によって思い浮かばなかった。
「んー、友達もいいけれど…あたしはさ、『好きな人』がたくさんいるのって素敵なことだと」
「円佳ぁぁぁぁぁ!!」
一瞬だった。
絵里花の声が食堂の入り口から聞こえてきたと思ったら私は一瞬で解毒されて、わずかに緩んだ早乙女さんの手からするっと抜け出せた。
そして解放された直後、瞬間移動のような早さで私たちのところへやってきた絵里花は…早乙女さんの腕を掴んでひねり上げようとした。
「ちょ、痛い痛い! なんであたし痛めつけられてるの!?」
「うるさい!! あんた、今円佳に何をしようとした!?」
「え、絵里花、落ち着いて! 私たち、ちょっと話していただけだから!」
体術が専門分野というほどじゃない絵里花だけど、それでもエージェントだけあって拘束術などはきちんと身に付けていて、いきなり現れて激高した彼女の行動には早乙女さんも一瞬だけ対応が遅れる。
悲鳴を上げる彼女を解放すべく私が絵里花の腕を押さえたら、なんとかその手を離してくれた。代わりにじろりと睨まれたけど…。
「話って…なんで手を握られる必要があったのよ? それにこいつ、何だかいやらしい手つきに見えたわ。円佳、あなたなら自分の身の危険くらい察知できるでしょう?」
「いや、その…身の危険って言っても攻撃されるような雰囲気はなかったし、私も少し態度が悪かったかもしれないから、握手に応じただけっていうか…いやらしいのにはちょっと同意するけど」
「何それ!? 円佳ちゃん、あたしのことそんなふうに見てたの!? こんな清純な乙女に対して!」
断じておくけど、私に絵里花が心配するようなこと…まあ、その…『浮気』的なものについては、本当に一切ない。
万が一、あり得ないけれど…触ってくるのが手じゃなくてもっと露骨な場所──詳細は伏せる──だったり、キスでもされそうになったりしていれば、本当に実力行使に出ていただろう。
でもそれをしなかったように、私はあくまでも会話をしていたという認識であって、それを絵里花に疑われるのは心外だ。だからきちんと説明したけれど、次に憤慨したのは早乙女さんだった。
…いや、女同士だからあれで済んだけど…もしも早乙女さんが男だったら、そういう意図があったと断定されてもおかしくないと思う…。
「…ともかく、円佳には触らないで。あんたは敵じゃないかもしれないけど、私の目の前で円佳に手を出すつもりなら…相応のお返しをさせてもらうわよ」
「うーん、これは噂以上の重さだね…円佳ちゃん、一緒にいて大変じゃないの?」
「…絵里花はいい子だよ。私の大切な…恋人だから」
「ま、円佳ぁ…」
さすがにもう一度攻撃する様子はなかったけれど、絵里花は私と早乙女さんのあいだに割って入るように立ったら冷然と言い放ち、まるで上塗りをするとばかりに私の右手を握る…ぶっちゃけ痛い。
そして早乙女さんは冷静さを取り戻したのか、薄ら笑いを浮かべて茶化してきたけれど、私は挑発には乗らないとばかりに事実を口にした。
そうだ、絵里花は…私の恋人で、とってもいい子だ。『重い』という指摘については同意できる部分があっても、それ込みで私はこの子を大切に思っているのだから。
…それに、多分。あんまり認めたくないけど、私もちょっとは重いかもしれないし。
私の言葉に目をうるうるとさせて見つめてきた絵里花に対し、苦笑いで返事をしておいた。
「…あーもう! もうちょっとで『仲良く』なれそうだったのに! 今日のところはこれで帰ってあげるけど、次は…もっとたくさん話をしようね! またね、円佳ちゃん! あと絵里花ちゃんも!」
「おととい来なさい!」
もはや今日は私に近づくことすら不可能だと判断した早乙女さんは勢いよく立ち上がり、絵里花に対してんべっと舌を見せてからすたこらさっさと食堂を出て行った。
けれど完全に姿が見えなくなる直前、もう一度こちらを振りかえって…先ほどまでの衝突なんてもう忘れたのか、また楽しげな笑みを見せてから手を振って行った。
…根拠はないけれど。あの子とは、また会うことになるかもしれない。
気付いたら今度は絵里花が椅子に座りながら「私が上書きしないと…」とぶつぶつ言いながら私の右手を両手で包んでいて、私はやっぱりこの感触のほうが好きだと思いつつ、しばらくはされるがままに甘んじていた。