何もない休日、それは私たちCMCエージェントにとっては意外と貴重なタイミングだった。
平日は学校があるのはもちろんのこと、CMCとして因果律の素晴らしさをアピールしたり、エージェントとしてターゲットの捕縛をしたり、こう見えてもなかなかに忙しい。
さらには休日であっても緊急の仕事が入る可能性も鑑みると、学校も任務もない休日というのは本当の意味で『休める日』だったのだ。私みたいな面倒くさがりにとってそういう日はゴロゴロするのにうってつけで、ましてや用事がないのなら今休まずしていつ休むのか…という感じでもあったのに。
愛する恋人が私以外の人と二人きりで出かけるとなれば、家で休んでいるわけにもいかなかった。美咲さんや結衣さんと出かけるのならともかく、クラスメイト…同年代の女の子と二人きりになるというのは、多少の思うところはあるのは仕方ない。ほら、私は絵里花の恋人だし。
ここで『男じゃないのならいいのでは?』というやや前時代的というかステレオタイプ的な意見も出てきそうだけど、私も絵里花も女性を恋愛対象にしている以上、女の子と出かけるのはそれなりにもやっとするものが生まれてしまう。男と出かけていればモヤモヤでは済まなくて、実力行使もやむを得ないのだけれど。
…念のために補足すると、私は重い女というほどじゃないはず。絵里花の自由を尊重しているし、彼女に友達ができるのは嬉しいし、普段から行動制限を強いていることもない。なんなら、絵里花のほうが重いとすら考えていた。
だから、そう。絵里花との約束である『いつも見守っている』というのを実行することは、恋人として当然の権利の行使でもあったのだ──。
*
(…およそ15時半、コーヒーショップから出てくる…あ、ここでお別れか)
絵里花の行動を追跡…もとい見守っていた私は、ようやくお出かけが終わったことを把握する。今から家に戻るとしたらちょうど夕方、当初の予定通りに終わったというところか。
(狭い個室などで二人きりになった様子はなし、手をつなぐといった接触もとくに確認されず…うん、渡辺さんに『そういうつもり』はないと判断していいかな)
最後に二人が立ち寄ったコーヒーショップの入り口をすぐ近くの路地から観察し、絵里花と渡辺さんが別れたところでそっと顔を引っ込める。その様子は若干不審者っぽく見えるかもだけど、監視カメラにログが残らないよう任務用のパーカーを着ているし、職務質問をされた場合は美咲さんに連絡すれば引き取りに来てもらえるし、もみ消しも問題ないだろう。
…いくら美咲さんでも『絵里花が女の子と出かけるから追跡してました』なんて理由で私が職質されたら、ちょっとは怒るかもしれないけれど。
それでも私に『休日らしく家でゆっくりと休んでいる』という選択は最初からなかったので、これはやむを得ない行動だろう。そんな結論に一人納得しつつ、路地裏でうんうんと頷きながら携帯端末に今日一日の追跡ログを記録していた。
「…で、あなたはこんなところで何をやってるのよ?」
ログは完璧、あとは絵里花よりも先に家に戻って何食わぬ顔で迎えればいい…と思って立ち去ろうとしたとき。
聞き慣れた声…に大いなる呆れが含まれていたことに私はびくりとしつつ、後ろを振り向く。
そこには渡辺さんと別れたばかりの絵里花が立っていて、路地の入り口側にいることから、私はまるで追い詰められたターゲットのような気分になる。
…どうする? 一応この路地には窓や屋根、非常階段が複数あるから、それらを全力で渡り歩けば振り切れるかもしれないけど。でも絵里花だってエージェントだから私を追いかけるくらいなら多分楽勝で、それは不毛なパルクールが開始されるだけだった。
「…ひ、人違いじゃないですか? 私は、単なる通りすがりで」
「エージェントなんだから、もうちょっとマシな言い訳を考えなさいよ…あなたって冷静なくせに、こういうところは抜けているわね」
そして逃走を諦めた私はやり過ごす方針に切り替え、フードをより深く下ろして目元を隠そうとする。声音もわざとらしくない程度に変えてみて、三浦円佳という人間をできるだけ消そうとしてみた…けれど、それが通用する相手でもなく。
絵里花は盛大なため息をついてつかつかとこちらに歩いてきて、フードを無理矢理めくって私の顔をあらわにする。ちなみに今日は尾行ということで髪型は動きやすいポニーテールにしていたけれど、変装としては機能していなかった。
「ほら、やっぱり円佳じゃない。私が見間違えるとでも思ったの? 言っておくけど、私はあなたの顔だけじゃなくて仕草、体型、匂いまで記憶しているから、どれか一つでも当てはまったら絶対に間違えないわよ」
「仕草と体型はともかく、匂いも記憶してるのはちょっとアレじゃない…?」
「そこに引っかからなくていいのよ! とにかく、なんでここにいるのかを教えなさい…まあ、どうせ『私を心配して尾行していた』とかでしょうけど」
「うっ……はい……」
絵里花は若干むすっとした顔で鼻をすんすんとならし、本当に匂いで私を識別できることをアピールしているように見えた…絵里花って犬っぽいとは思っていたけれど、もしかすると嗅覚までもそういうレベルに到達しているのだろうか…。
同時にその習性は人によっては『気持ち悪い』という表現に分類されてしまいそうだし、私も女である以上は思うところがあるんだけど…でも、二人を尾行し続けることで悶々と積み重なった靄の向こうにいた私は、絵里花の『あなたのことは絶対に間違えない』という言葉に爽やかな喜びを与えられた気がした。
…私も『アレ』なんだろうか。なんだろうな。
「はぁ…渡辺といたときからたまに視線を感じていたけれど、本当にあなたが尾行していただなんてね…まさかとは思うけど、私と渡辺が、その…『そういう関係』になるって心配してたの?」
「…いや、その…絵里花のこと、ちゃんと信じてたよ。でもさ、ほら…絵里花は可愛いし、渡辺さんと仲がいいし、なんかが盛り上がったら…ね?」
「そういうのを『信頼していない』って言うのよ…あなたの心配性は理解できていたつもりだけれど、予想以上だったようね」
「…違うの。私、本当に」
絵里花は悩ましくため息を繰り返しつつ額に手を置き、そして私をじとりと、責めるほどでないにしても抗議の意を表明するように睨めてくる。同時に、彼女の口から絞り出された『そういう関係』という言葉については、私も耳にするとお腹のあたりからなにかがせり上がってくるような感覚があって、上手く否定ができなくなっていた。
そうだ、絵里花は…可愛い。容姿はもちろんだし、性格だってちょっと不器用だけれどすごく優しいし、もっと人当たりがよければ今頃は男女問わずにモテていたのだと思う。それこそ、因果の相手である私がいたとしても…必死になって奪おうとする人間が出てきたかもしれないくらいに。
無論私は奪われそうになったら命をかけて抵抗するけれど、絵里花の心が揺らいでしまったら私の抵抗は途端に駄々へと成り果ててしまって、それを見た彼女は私を見限るかもしれない。
…やだな、それは。絵里花のことは信じているのに、その可能性がわずかにでも想像できてしまった場合、私の心は風化した輪ゴムのようにぽろっとちぎれてしまいそうだった。
でも、たとえ子供みたいな見苦しい駄々だったとしても…必死になってこねたいくらい、伝えるべきこともあったのだ。
「信頼してないとかそういうことじゃなくて…絵里花のことをもっと好きになったら、そういうこと…身勝手になっちゃうものなのかなって、思ってた」
「…円佳?」
私たちが因果律に従って恋人になったあの日から、間違いなく私の中の『好き』は大きくなっていた。
まだまだ形は定まっていないし、だからどれくらい大きいのか、あとどれくらい育てればいいのか、どんなことをすればいいのか…わからないことは、今でも山積みだ。
それでも、言える。私はあの日よりも絵里花を好きになっていて、もっと大切に感じていて、離れたくないって思っている。
…私以外の人のところへ行かないで、こうも思っている。
それは時として絵里花の自由を奪い、可能性を狭め、交友関係ですら縛ってしまいかねない。ほんの少し前までは余裕ぶって絵里花に友達ができたことを喜べたのに、その友達と少し仲良くすれば、これだ。
「ごめん、自分でもわかってる…こんな身勝手、恋人相手だってよくないよね。それに、渡辺さんがいい人で友達としては理想的だとも理解できている…でも、そんな考えと自分の心が一致しなくて、じっとしてられなかった…あはは、私、自分で思ってたよりも…わがままだ」
「…」
まだまだ喧噪が途切れる時間帯には早いはずなのに、静かな路地には私の乾いた笑いが響き渡る。それは建物の中にいる人たちにも嘲笑されているように感じて、再びここから逃げたくなる衝動に駆られた。
絵里花はそんな私をじっと見つめ、私は私でそんな絵里花の顔が潤みそうになっていたら。
絵里花は一歩踏み出し、私の肩を掴んで、顔を近づけてきて。
「…えり、か?」
「…私も、上手く言えないのだけれど」
コツン、自分の額を私のおでこにピタリと引っ付けてきた。その熱を測るような姿勢は彼女の体温を確実に伝えてきて、私はそれが37℃一歩手前くらいの熱さに感じられる。
あまりに近づきすぎた彼女の顔はフォーカスもぼやけてしまって、私の大好きな顔が見られなくなったことの寂しさがあったけれど、それ以上に気持ちが凪いできた。
私の熱まで上がってしまったのに、心音は確実に早くなったのに、誰よりも私に近い絵里花が…嬉しい。
「実は、ちょっと前…私があなた以外とほとんど話していなかった頃、あなたがクラスメイトたちと仲良くしているのを見て…その、あんまり面白くなかったの。私もみんなと話したいとかじゃなくて…『円佳の恋人は私なのに、どうして私以外とも楽しく話せるのか』…み、みたいなこと、考えてたかも…しれないわ」
「…そ、そうなの?」
近すぎるせいではっきりとしない絵里花の顔は、間違いなく赤い。そしてたどたどしく探るように教えてくれる内容は、きっと彼女にとって隠したいものだったんだろう。
でも、そのおかげで大切なことがわかった。絵里花もまた、わがままを隠していたのだ。
我慢強く自分だけで背負い込もうとする彼女はこれまで表に出さなかっただけで、私と同じ恋の暴れ馬を鎮めようとしていたんだろう。
私たちは、一緒だったんだ。それは『私たちはわがままなカップル』ということを明確にしたのに、嬉しいことだと感じてしまった。
「…だ、だから! あなたのしてたこと、全然怒ってないわけじゃないんだけど…でも、間違いなくいやじゃない。むしろ、私のことを見守ってくれて…どんなことよりも優先してくれて、あ、ありがとう…だい、好きっ…!」
「…ほひゃぁ…んんっ」
最後に一度、絵里花は強めの力で額をぐりっと押しつけてきて。その圧力に相応しい、とても大きな好きという気持ちをぶつけてくれた。
わがままというのは一般的に好ましくなくて、ましてやCMCとして理性的な行動が求められているはずの私たちだけど、絵里花の気持ちはどうしようもなく私の気持ちを夜明けにしてくれる。
真っ暗な靄を切り裂く恋人の言葉、それは『わがままな愛情ですら嬉しい』という光に満ちたもので、私はこの言葉を受け取るためだけに尾行…もとい、護衛をしていたのだと今になって充実感を覚えた。
だから、仕方ないのだ。私の口からムードを壊してしまうような、上がり続ける体温をそのまま音にしてしまったような吐息が漏れたのは。
それは照れる絵里花ですら「えっ、今の声は何…?」とすんっとしてしまう威力があって、私のみみっちい咳払いでは誤魔化せなかった。
「…ありがとう、絵里花。私、今日はこんなことしちゃったけど…でも、次があれば…その、我慢するよ…絵里花のこと信頼しているから、ちゃんと恋人らしくできるように頑張る…」
「…うん、ありがとう…私もあなたと離れたときは、なるべくこまめに連絡するわ。あなたを信頼していないわけじゃなくて、私がそうしたいから…優しいあなたに教えたいこと、たくさんあるから」
壊れてしまったムードは取り戻せない、だからせめて大切なことを伝えるべく、私は熱い顔を離して絵里花と見つめ合う。
彼女の体温が離れていくことは残念だったけれど、でもはっきりとその顔が見られたことは先ほどとは異なる安心感を与えてくれた。絵里花もまた現在時刻のように、沈む太陽みたいに頬を柔らかに染めていた。
絵里花も私の実現が不透明な誓いを聞き入れつつ、自分にできることを伝えてくれる。それはなんだか私以上に譲歩させてしまったような気がしたけれど、でもそんな気遣いが一番星を見つけたときみたいに嬉しくて。
その輝きを一緒に見に行くかのように、私たちは自然と手をつないで路地を後にした。
*
「…そうだわ、円佳に伝えないといけないことがあるの。渡辺、どうやら因果律の相手に対して不安があるみたいで…」
なんとなくまっすぐ帰る気にはなれなかった私たちは、通り道にあった公園をぶらついていた。もちろん今も手は──指を絡めるようにして──握っていて、絵里花とこんなふうに歩けるのはきっと私だけなのだと自尊心を満たしていたら。
絵里花は今日聞いたこと…それもエージェントとしては聞き捨てならない、共有せねばならないことをさらさらと教えてくれた。
その内容を耳にした私は絵里花が苦しんでいるのではないかと不安になったけれど、報告する口元にはよどみがない。まるで『最悪の場合は自分がなんとかする』と宣言しているような強さを感じた。
「…そうなんだ。絵里花もわかっていると思うけど、現時点では即時拘束の必要はないね。それに…因果律は直感と違って、きちんと裏付けも取れているシステムなんだから」
だから私はそれに安心しつつも、なるべく彼女の気持ちを軽くするためにわかりきっていることを口にした。
因果律、それは多くの幸せなカップルを生みだした…我が国の幸福度を劇的に向上させた、非常に優れたシステムだ。これは研究所の受け売りと言うだけでなく、実際のデータや数値が物語っている。
意味もなく反発し、ただ『人間らしくない』という曖昧な批判を繰り返す連中の言い分とは違う、圧倒的な正しさで武装された現実なのだ。
だから渡辺さんもいつかは因果の相手と惹かれ合い、そして私たちのように幸せになれるだろう。そんな当たり前であっても口にすれば、絵里花の気持ちを軽くできると信じていた。
「…そうよね。でも、円佳…忘れないで。もしも『最悪の事態』になった場合、私に気を使わないで。私は私の役割をこなす、その覚悟はしているんだから…自分だけで罪を背負おうとしないで」
「…大丈夫だよ。私、絵里花を信じているから。今日みたいなことにならないように、ちゃんとあなたを頼るからね」
かくして絵里花は私の言葉に笑顔を浮かべてくれて、それは夕日に照らされることでどこまでも儚げに見えてしまった。
だからだろうか。私は自分で口にしておきながら、その儚さを守るため…言葉とは裏腹な決意をしていたのだ。
(…安心してね、絵里花。もしもそうなった場合、私が全部終わらせる。たとえあなたに嫌われてもいい、この約束を破ることになっても…あなたの身も心も守るから)
絵里花の覚悟を信じていないわけじゃない。むしろ信じているからこそ、私はその痛ましさが手に取るようにわかる。
なら…私の行動なんて、決まっているのだ。
渡辺さんはいい人だ。そうならないって思いたい。
でも…絵里花を苦しめることになるのなら。私の手で、決着を付ける。
私は握った手に力が入りすぎないように注意しながら、このいびつな決心を隠すように談笑を続けた。