学校、それは一種の閉鎖空間であり、そこに通う学生たちにとっては世界の大部分を占めていた。それは開放的と評される聖央高等学校…私の通う高校でも変わらない。
ここの生徒であるうちは一日の大半を校内で過ごし、学校という狭いコミュニティの中で生きていく。私たちにとってインターネットは、生まれた頃から身近にある世界へつながれる扉だけれど、それでも端末越しでしか見られない電子空間と目の前に映る風景では、どちらがより多くの情報を与えてくるかは明白だ。
近年はVRやARといった技術も爆発的に進化したけれど、あらゆるテクノロジーが介在しない生の世界は、どれだけ人の世が進化しても変わらない重要性があった。AIが当たり前に存在する世の中になっても人間の営み事態が大きく変わらないのは、私たちが無意識のうちに目の前の世界を優先している証拠だろう。
とくに学生という身分は多感な時期を生きていることもあり、周囲との関係を否応なく意識してしまう。美咲さんは「大人になるとですね、大切な人の視線以外は割とどうでもよくなりますよ」なんて教えてくれたし、私もどちらかといえばそこまで周囲の評価を気にするタイプじゃないけれど、CMCとしての仕事の都合もあってかそういう情報はなるべく耳に入れていた…いや、入ってくる、というべきか。
幸いなことに、聖央高等学校は生徒の気質が全体的に穏やかと言えて、学級崩壊といったトラブルはまず起こらない。さらに、テクノロジーの最先端を行くだけあってAIによる差し出がましくない監視体制も整えていて、いじめといった学校が隠蔽したくなる問題も機械的に発見および報告が上がるようになっているから、総じて社会問題となっていたいくつもの事例は過去になりつつあった。
しかし、それでも学生たちが集まればカーストやグループといった区分は生まれてしまい、必然的に『人付き合いが得意な人気者』は生まれてくる。それは同時に『人付き合いが苦手な日陰者』も生まれてしまうわけで、本人が望む望まざるに関係なく、他者から何らかのラベル付けをされてしまうのだ。
私と絵里花が二人でいる場合、『幼い頃から因果律によって結ばれているカップル』というラベルが付けられる。それは私たちにとって必要なことであり、同時に異性同性関わらず学友との交遊に対しておおらかなこの学校であれば、マイナスな印象はほぼ生まれなかった。
学校内では私と絵里花はほぼいつも一緒にいるのだけれど、それでも別々に行動することはあって、その際はお互いのパーソナリティに応じたラベルが付与される。私の場合は…多分、『地味で目立たない』といったところか。悪目立ちするよりかはよっぽどいいけれど、おそらく単体であればCMCとしてはそこまで突出して何かがあるわけでもない…と思う。絵里花は定期的に「アイドルが絶望して引退するほどの美人」とか「底なしに優しい人」といった具合に絶賛してくれるのだけれど、まあそれは恋人や幼馴染の欲目といったところだろう。
対して、絵里花は…『気難しく友人がいない』みたいな感じだろう。私にとっての絵里花は『面倒見がよくて人を傷つけることを嫌う優しい人』なのだけれど、それは長く付き合わないと理解できない彼女の奥底にある美点であって、人付き合いというのは『最初から誰とでもそこそこうまくやれる人』が非常に好かれやすいことから、人見知りが強めでいじっぱりな彼女が友人に恵まれないのは、ある種の必然であるように感じられた。
念のために言うと、私も人付き合いが得意だったり好きだったりするわけじゃない。正直に言うと、親しい人たち以外については『わりと無関心』であって、少し前に再会した南さんの『絵里花以外に関心がない』というのは的を射ていた。実際のところ、絵里花以外のCMCについてはあんまり記憶に残っていない。いや、残していないのだろうか。
そんな私が絵里花よりかはそこそこ人付き合いをこなしているのも、CMCとしての仕事という名目があるからだ。ひいては絵里花と一緒にいるための手段でもあって、もしも絵里花がいないままこの学校に入学していた場合、私に話しかける人もいなかったかもしれない。
けれど…私だけでなく、絵里花だって少しずつ変わっている。それがいいことなのかどうかはまた時間が経過しないとわからないのかもしれないけど、でも、ここ最近の絵里花はとくに頑張っているように見えて、私はそんな頑張り屋な恋人が好きなのだけれど。
その絵里花の頑張りが『学校における私との時間』の減少につながっているのだとしたら、まあその、多少の思うところがあるのは恋人として自然なのだろう。自然に決まっている。
…うだうだと語ってしまったけれど、ようは…絵里花にもようやく学校での話し相手ができて、その結果、私は小さくない不安…いや、焦燥感…不快感でもなく…なんだろう、これ。
その気持ちを曖昧な表現のまま口にするとしたら、それは…『もやもや』なのだろうか。
ともかく私は絵里花と『彼女』が仲良くなることは好ましいと思っている反面、自分の中に生まれた煙のような霧を振り払えず、密かに悩んでいたのだ──。
*
(あ、絵里花…今日も渡辺さんと話しているのか。あの二人、すっかり仲良しになったなぁ)
休憩時間、花畑から教室へと戻ってきた私はまず絵里花を見て──ほかに見るものがないだけかもしれないけれど──みると、彼女はクラスメイト…ひいては友人と表現してもいい相手、渡辺さんと会話していた。
いや、絵里花だって以前からクラスメイトと会話していることはあった。けれどもその頻度はとても少なく、それこそこうして私が戻ってくるとすぐにこちらを見て、どこか安心したように表情を緩めてくれていた。その姿はご主人様を待っていた愛らしい大型犬みたいで、私はその些細なお出迎えに内心で喜んでいたのだけれど。
渡辺さんと話すようになってからというものの、私が離れるとこんなふうに話しかけてくることが増えたのか、二人でいるときに邪魔──そのように表現するのは若干失礼かもだけど──をしてくることはないのだけれど、その分、離れたときはここぞとばかりに話しかけてくるみたいだった。
…いやまあ、私がいるときに話しかけてくれても別にいい。絵里花が友人と話すのを邪魔するほど器が狭いわけじゃないと信じたいし、なんなら「絵里花にも話せる相手ができてよかったなぁ」と後方で腕組みしながら見守る程度の器量はあるはずだ…ないとやばいとも言える。
だけども渡辺さんはその辺の気遣いが自然にできている人なのか、私が絵里花といると用事があるときを除いて話しかけてはこなくて、私が離れたらこんなふうに話していることが多くて…絶対にやましいことなんてないと知っているはずの私は、その様子に七夕みたいな希少すぎる逢引きを連想しているのかもしれない。
…もしかしなくても私、自分で思っているよりかは器が狭いのかもしれない。
「あ、辺見さんまたね! 三浦さんも」
「あ、うん」
「円佳、おかえり」
器の狭さを隠すように私は歪みそうな表情を引き締め、それでも気持ち早足で絵里花の元に向かう。すると渡辺さんは私にニコリと笑って絵里花から離れて、とくに名残惜しさは見せずにさささっと自分の席へと戻っていった。絵里花もそれを引き留める様子はなくて、すぐに私に向き直ってお迎えしてくれる。
…見たところ、怪しい感じはない。私に対して『邪魔者を見るような目』もとくになくて、絵里花を奪おうとする連中のような雰囲気はなかった。よし、今は警戒対象にしなくていいかな。
(…やっぱり私、心が狭いんだろうか…)
初めて絵里花と渡辺さんが話している姿を見たとき、むしろ嬉しかった。絵里花のような不器用な女の子がようやく友達を見つけられたという事実に舞い上がってもいて、ついついお祝いなんてしたのだけれど。
絵里花とキス──もちろん頬への話だ──をするようになってからは私の恋人に対する執着は少し形を変えて、絵里花のパーソナルスペースを侵害する程度には歪な形状になってしまったのだろうか?
絵里花のことをもっと好きになる、それはCMCとしては間違いなく好ましいことであるのに。好きになることで彼女の自由を奪いそうになる感情までも育つなんて、想像できていなかったのかもしれない。
「円佳、どうしたの? そろそろ授業が始まるけれど、私を見てぼうっとして…何か言いたいことでもあるの?」
「…ううん、なんでもない。絵里花、最近は渡辺さんとよく話すようになったし、そのときは楽しそうだから…やっぱり話し相手ができてよかったなって思っただけ」
「そうかしら? まあ、うん…渡辺はいい奴だし、私もそれなりには楽しいって思ってるわよ。でも、私は…あなたと話しているときが一番落ち着くけど」
「…あ、ありがと」
育ち続ける感情の正体を掴みかねて、あてもなくもやもやの中で泳いでいたけれど…その霧の向こうから私の心へ飛び込んできたのは、絵里花のふにゅりとした柔らかい声だった。
その顔を見ると一学期の終わりが近づいているのを示すように、ほんのりと赤い。でもそれは夏の足音による体温上昇ではなくて、自分の中で生まれた熱で染まったのだと思う。
だって私も、同じだから。絵里花の言葉によって顔がポッと熱くなり、今ももやもやは心のどこかで自己主張をしているのだけれど、彼女の口から聞けた『一番』と言う響きは私の気持ちを容易に明るくした。
(…心が狭いのは仕方ないとして、うん。せめて絵里花のことを信じて、そして彼女の幸せについて考えてあげないとな)
もう認めるしかない。私の器は自分が思っていたよりも小さくて余裕がなく、絵里花以外のなにかが入ってくると容易にあふれて、ろくでもないことを考え始めるというのを。
それでも私に優しい言葉を、唯一無二の特別を贈ってくれるこの子には、幸せになってもらいたいから。
だからせめて学校という閉じられた世界にいるあいだくらいは、多少の交友関係に恵まれた、一般的には幸せに分類される学園生活を送ってもらいたい。そこで私はようやく余計な力を抜いて、そして絵里花の幸福を願うように微笑んでから席に戻った。
*
再び認めるしかなかった。
私の器は…小さい。
「あの、絵里花…渡辺さん、ただの友達なんだよね?」
「ど、どうしたのよ急に? その、友達って認めるのはちょっと照れるけれど…よく話すって意味では、友達…だと、思ってる」
自宅のソファ、私たちがリラックスタイムをいつもの場所で共有している最中。私は隣に座る絵里花に対し、わずかに詰め寄る。
私は絵里花の一番、そして特別。その言葉を頼りに日々を安穏と過ごしていた…けれど。
あれ以降も絵里花はよく渡辺さんと話していて、ある日は敢えて二人に見つからないように隠れながら話している様子を見ていたら、絵里花も珍しく私以外に笑っていて。
いや、笑うこと自体は別にいい。何ならこれもよい変化だと断言できて、絵里花が以前よりもよく笑えるようになったのなら、それだけ彼女の幸福度が向上したと言えるだろう。
…別に「笑顔は私にだけ見せて欲しい」なんて独裁者みたいなことは考えていない。いや、そうなったらそうなったで嬉しいというか、喜びまではしないにしても、「絵里花は仕方ないなぁ!」くらいの反応はするだろう。つまり喜んでもいないし笑うことだってない。そんな手がかかる恋人の一面も嫌いじゃないだけだ。
「…そうだよね、うん。わかってた。絵里花が仲良しな友達を見つけられて、嬉しいよ…」
「そんな全然喜んでいない顔で言われても…あの、円佳。もしかして渡辺のこと、嫌いだったりするの?」
そうだ、嫌いじゃない。絵里花のちょっと面倒くさいところも、クラスメイトの渡辺さんも。
少し冷静になって自分の心を調べてみると、多分私は『絵里花に友達ができたこと』という予想外の出来事に困惑してて、喜ばしいと思っていてもその環境の変化に慣れていないだけだろう。研究所にて訓練されたこと、そこから想定される事態に関してはそこまで心を乱されないのだけれど、そうでない状況…たとえば今みたいな『大切な人に自分以外の親しい人ができる』というのは、明かりなしで洞窟に派遣されるような恐怖があるのかも知れない。
…やっぱり、私は優秀と評価されるほどのCMCじゃない。そうでなければ、もっと素直に恋人の幸せを応援できていたのだろうから。
今の私は、自分の身勝手な感情に振り回されていた。
「…いやぁ、そんなわけないでしょ? 渡辺さんはこれまで問題行動を取ったような記録はないし、ほかのクラスメイトともうまくやってるみたいだし、警戒対象にはならないし」
「そういう意味で言ったわけじゃ…その、どうしてもあなたがいやなら話さないようにするけど」
「…いや、それはダメだよ。絵里花、渡辺さんと話しているときは楽しそうだし、クラスメイトとの余計な不和を生まないのも私たちの業務の一環みたいなものだし」
ぐちゃぐちゃ、自分の心が小気味悪い音を立てる。出したい音と出さなければいけない音をミックスしたら、不協和音にしかならなかった。
絵里花が『円佳がいやならもう話さないようにする』と言ってくれたとき、私は絶対に口にはできないこと…それを是認するような返事が一瞬だけ浮かんでしまった。でもギリギリでそれを口にせずに済んで、私は打ち消すように空っぽの正論を伝えられる。
そして私をいつも信じてくれている絵里花は「そうよね、私もそう思っていたし」とあっさり返事をしてくれて、彼女の素直さに顔だけで微笑みつつ、私はまた口にしてはならない言葉をぐちゃっと心の中で握りつぶした。
(…なんで、そんなにあっさり認めるの。もう少しくらい、悩んでよ)
絵里花の負担を減らしたいと思っている私は、自分以外のことを考えている彼女には…こんなにも、わがままだった。
だからだろうか。次の絵里花の言葉は、彼女を信じていない私への天罰のように降り注いできた。
「それでね、次の休みは二人で遊びに行くことになったんだけど…その日のお昼ご飯、作り置きしておきましょうか?」
「……え?」
次のお休み。二人で。遊びに。
その三つの情報を統合すると、一つの答えが導き出される。
口にしたくない、直視したくない…私以外に使って欲しくない、単語が。
「…渡辺さんと、デート、するの?」
「はぁ!? そんなわけないでしょ! 前々から遊びたいって誘われていたし、なんか話したいこともあるみたいだし…で、デートっていうのは、恋人…あなたとだけするもの、でしょう?」
「…うん、そうだね…」
口にしたくないはずなのに、私はその言葉だけは握りつぶせなかった。そしてもしも絵里花が肯定した場合、今度こそ私は渡辺さんに対してあらぬ行動に出ていたかも知れない。
けれど、結果はご覧の通り。絵里花は信じられないことを聞いたかのように声を荒げ、即時否定してくれる。しかも『デートは円佳としかしない』とも伝えてくれて、かろうじて柔らかに、そしてぎこちなく返事をできた。
だけど、多分、顔は笑っていない。
「それで、昼前に出て外で一緒にお昼ご飯を食べて、それからちょっと遊ぶような感じ…かしら。友達と遊びに行ったことなんてないから、渡辺に任せる部分が多いかもだけど」
「…そっか。うん、楽しんでおいでよ。私もせっかくだからお昼は外で食べてくるから、ご飯は朝だけでいいよ」
「ん、わかったわ。夕方になるかならないかくらいには戻るつもりだし、なるべくこまめに連絡するように気をつけるわ。その…円佳は優しいから、すぐに心配してくれそうだし…」
「…あはは、大丈夫だって。私、『いつでも』見守っているからね」
そう、私は。いつでも、誰よりも、絵里花を見守っている。
絵里花に危険が迫ったのなら、彼女よりも先に対処する。必要であれば研究所の人間であっても始末するし、相手が敵ならば捕縛なんて野暮なことはせず、二度と絵里花に手を出せないように消してやる。
だから…絵里花、安心してね。私は、本当に…いつでもあなたを見守っているから。
「せっかくお出かけするんだから、私がコーディネイトとか考えてあげようか?」
「え、それはいいわよ…円佳、実用性しか考えないし。それに渡辺相手ならそこまでオシャレする必要もないでしょうし」
「せっかく気を使ったのに…まあそうだけど」
これくらいならいいだろう、そう思って『デートとは思えない実務的なファッション』を絵里花に施そうとしたら、誰よりもそれを知っている彼女にあっさりと遠慮された。まあ予想はしていたけれど。
…それならせめて、できるだけ地味なやつ…絵里花の可愛さが隠せそうな服装がいいな…。
とことんまで器が小さいことを考えながら、私はそのお出かけの日に何をすべきか、笑顔で絵里花と話しながらひたすらに考え込んでいた。