そこは繁華街にある雑居ビル、その地下フロアだった。地下の一室には複数の事務机、その上にはデスクトップパソコンとモニターが置かれ、それぞれの机には一つずつデスクライトが設けられている。それ以外の室内灯はないため、一つの机しか使われていない現在は極めて薄暗かった。
(…ちっ、何で俺がこんなしょうもない仕事を…まあ、前に出るよりはマシなんだが)
デスクライトに照らされたモニターにはブラウザが全面表示されており、それぞれのタブでは国内で使われている有名SNSが起動していた。男は小刻みにタブを切り替え、そしてSNS上の投稿…『因果律に関するネガティブな発言』を検索している。
男の年齢は20代後半、髪型はソフトモヒカンでそれを鮮やかなピンク色に染めていた。モニターを見つめる時間が長かったせいか目の下にはクマができており、無精ひげが生やされた顔をしかめていた。
(因果の相手から逃げたがっている人間を海外へ案内、そして行き先にいるクライアントへ売却。んで、学生…ガキならさらに高値がつくから最優先で声をかけろ…か。ボーナスのため、馬鹿なガキが引っかかってくれりゃいいんだが)
男は海外と深いつながりのある、反社会勢力の下っ端であった。大本が捕まらないようにいくつもの階層構造を設け、その下、末端に位置している。それでもこれまではいくつかの『成功事例』があったため、いつかは成り上がることを夢見てどんな仕事でもこなしていた。
もっと仕事で成果を出して上に行けば、より一層安全でさらに稼げる立場…末端から搾取できる側に行けるため、男は気を引き締めるようにデスクへ置かれたエナジードリンクをあおった。
(にしても、SNSなんて今でも危険と隣り合わせだってのに…いつの時代もバカはネットでやらかすんだな)
インターネット、それは人類が生み出した英知の一つだ。電子で作られたネットワーク上では日々大量の情報がやりとりされ、これまで特権的に情報の取捨選択をしていたマスメディアの失墜を招いた。一方、近年は政府の情報網再編に応じることで生き残りに成功し、因果律システムの普及に協力さえすれば仕事にあぶれることはない。
しかし、個人単位での利用に関しては昔から大きく変化したわけではない。人々は日々SNSを通じて気になる情報を集め、アルゴリズムによって表示されるおすすめを確認し、ときには自身の行動や考えを投稿する。
そしてその投稿は全世界に公開されていることから、当然ながら悪人に見られる可能性もある。「自分のような無名の一般人なら見られても困らない」という考え方は今も当たり前のように広まっていて、それ故に誰もが犯罪に巻き込まれる可能性があった。
AIによる探知が進化して危険の目を潰しやすくなったとしても、人間の意思や行動が優先される以上、この男のような輩に付け入られる隙があるのだ。
たとえば、そう。『因果律に関する不満を口にするアカウント』というのは、どれだけ優れたシステムを作り上げた日本でも常に存在していた。その発言をエージェントたちが監視していることも、この男のような悪人たちが狙っていることも、知らずに。
(…『今日はおそろいの髪型で散歩した』…はっ、女同士で仲良しなこって。見てくれがいいから高値がつきそうだが、因果に不満のない奴らはそもそも金にならん)
そして男がブラウザを確認すると、小豆色の髪の少女とハニーブロンドの少女がSNSに自撮り写真をアップロードしていて、どちらもロングヘアをアップにして嬉しそうに川縁の道を歩いているのがわかった。
年齢は高校生ほど、見た目はどちらも文句なしの美人。一方でアカウントは『因果律カップル認証』を済ませていて、その投稿には多くのポジティブな反応が寄せられていた。そのアカウントの過去の投稿を見ても不満なぞ微塵もなくて、男のターゲットしては論外だった。
むしろ、邪魔だ。こういう因果律カップルが仲良しアピールをすることは周囲に対してそのシステムの素晴らしさを喧伝し、不満を感じにくくなるような世論を形成する。一方で因果律に反発するような投稿はAIによって注意されるだけでなく、投稿後はアルゴリズムによって表示されにくくされ、最終的にはエージェントによる秘密裏の監視対象となるのだ。
だからこそ、男の仕事…SNSのチェックは地味な上に人力が欠かせなくなっており、評価もされにくく報酬も安かった。しかし、この男のように一度道を踏み外せば仕事の選択肢というのは限られ、日本と因果律システムをよく思わない集団に使い捨てられるのだ。
でも、自分は違う。男には明確な野望があった。
(俺たちの組織は自由連合とつながっている。ここでたくさん成功しておけば、表舞台に返り咲くことだってできるんだ)
世界自由連合。それは日本の法律によって存在が認められた政党であるが、その考え方や行動は常軌を逸していた。
ただひたすらに因果律システムの否定を行い、それ以外にすることは『政府与党への徹底的な反対』のみである。法案の重要性は一切関係なく、それこそ災害などでの緊急閣議ですら反対し続け、挙げ句の果てには『自分たちに政権を明け渡せば上手くやってやる』と強弁する。
そんな態度は情報化社会が発展すると同時に異常さが際立ち、かつては先鋭化した少数政党に甘かったマスメディアがほぼ駆逐されたこともあって、国民の大多数からは白い目を向けられていた。
しかし、そんな政党であっても完全に議席が消えることはなかった。いつの世も『少数政党の過激な主張を支持する岩盤層』は決して消えないため、世界自由連合は今日まで存在し続けている。それは同時に『パトロン』とも呼ぶべき資金源がいくつも存在しているのだが、その根源が海外にあれば今の日本でも摘発は難しい。
そうした背景もあって世界自由連合の関係者、および所属議員ともなればある程度の裕福な生活、さらには人権による庇護、非合法な特権までも得られる…男の目指す先はそこだった。
世界自由連合の一員となり、堂々と表を歩く。監視の目はあるだろうが、政党の関係者ともなれば公権力は手出しができず、自分たちのような社会の裏側にもコネクションを持てる…男はその日を想像すると、口元に邪悪な笑みが浮かんだ。
「…ん? カモがいたか」
その笑みをかみ殺す直前、思わず声に出てしまうくらいの僥倖…大げさでもなんでもなく、男にとってはそう思わざるを得ないくらいの投稿が表示された。
『私もやっと因果律の相手が見つかったんだけど…こんなふうに仲良くなれる気がしない…』
先ほどの幸せいっぱいの投稿を引用し、そんなことをつぶやくアカウントがいた。
男はすぐさまそのアカウントの過去の投稿をチェックし、その行動から年齢や立場を推測する。
(この文体、読んでいる本、行動範囲…多分女、しかも学生の可能性が高い…挙げ句の果てにダイレクトメールの拒否設定もしていない、ならお望み通り送ってやるさ…因果から逃れるための片道切符を)
年齢や性別に関する詳細は記載されていなかったものの、これまで数え切れないほどのSNSアカウントを見てきた男にとって、それは無防備と同等の情報セキュリティだった。
あらゆる文字と画像からアカウントの情報を絞り込み、久々の獲物…それもクライアントが喜びそうなターゲットであることを推測したら、やはり高揚を隠しきれない。今になってエナジードリンクが力を発揮してきたのか、男は荒ぶりつつもクリアな思考を回転させ、すぐさまダイレクトメールの文面を作成する。
ダイレクトメールは基本的に一対一のやりとりであり、返信に比べると表に残りにくい。プライベートな連絡方法であるがゆえ、知らない相手からの連絡は拒否設定にしているアカウントが多いものの、ターゲットはその辺の詰めが甘いらしい。そうした部分からも、学生特有の世間知らずさがにじみ出ていた。
「ようこそ、自由な世界へ…そして自由とはどんなものなのか、その身でたっぷり味わえよ」
打ち終わった文面を確認し、ダイレクトメールとして送る。普通であれば疑いを持たれても仕方ない、むしろ今回も失敗する可能性が高いとも言えるアクション。
しかし男は奇妙なまでに自信があふれていて、ますます自分にとって理想のキャリアが近づいていると確信していた。
『投稿、読ませてもらいました。私も因果律のせいで苦労して、絶対好きになれない相手と引っ付けられそうだったんですが…助けてくれる人たちがいたんです!よかったら、【ナタベ】さんにも紹介しましょうか?大丈夫です、まずはメッセでのやりとりだけなんで、危ないこととか一切ないです!』