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第27話「ちょっとだけ大胆になりたかった」

「美咲のあの様子だと、多分ろくでもない仕事が入ったんでしょうね…」

「だろうね。美咲さんだけで対処できる内容じゃなくて、多分…私たちにも回ってくると思う」

 今日の放課後はちょっとしたデートをするため、結衣さんのお店…ルミエラでケーキとドリンクを注文し、イートインで食べつつ雑談を楽しんでいた。ちなみに私はクリームパイにカフェラテ、絵里花はフルーツタルトにカプチーノという組み合わせだった。

 ルミエラは慣れ親しんだお店だからデート向きではない…なんてことはなく。むしろ市街地のカフェなどに比べると客の出入りは穏やかであり、主な利用者も落ち着いた人が多いおかげか、騒がしいのが好きではない私たちは落ち着いて恋人としての語らいができた…まあ会話内容はほとんどいつも通りだったけれど。

 でも、そのいつも通りが心地よかった。それは絵里花相手だからというのはもちろんのこと、ルミエラのおいしいケーキと飲み物、そして地域に根ざした温かみのある接客も大いに関係している。

 結衣さんもそうだけど、ルミエラの店員さんはみんなフレンドリーというか、家族的な雰囲気が強い。その中でも結衣さんはとくに気さくで、顔見知りであるという点を考慮しても話しやすく、それでいて私たちがデートで訪れたことを察すると余計な口は挟まなかった。

 また、イートインスペースに設置されたテーブルは広くなく、大手のお店に比べると客席も多すぎるわけじゃないから、それもそよ風のような雰囲気に貢献しているのだろう。そんな空気の中で味わうケーキの甘みは、流れるプールで漂っているような心地よさがあったのだ。

「…んっ、どうしたの?」

「…なんでも。ふふっ」

 洋菓子店で恋人の時間を楽しんでいたら、また見知った顔…美咲さんも入店してきて、彼女はイートインまでは来なかったけれど、私たちと目が合うと綿花みたいなふわりとした微笑みを向けてきて、ゆらりゆらりと手を振った。もちろん私たちも軽く反応を返して、それからは彼女からの視線を感じつつも目の前に恋人に集中する。

 美咲さんに私たちを邪魔するような意思はないだろうけど、それでも彼女は監視役でもあるのだから、仕事上最低限の観察が必要だったのだろう。ケーキを買いに来たら偶然担当しているCMCのカップルがいた、そんな筋書きかな?

 もちろんそれが邪魔だなんて感じず、むしろ美咲さんらしい奥ゆかしさを感じる…あまりにも気遣いすぎた、監視と呼ぶには優しすぎる来訪だった。美咲さんが私たちの監視役というのは、ちょっとした奇跡だと感じられる程度には恵まれた環境なのかもしれない。

 ちなみに美咲さんは支払いを済ませる際に携帯端末を確認していて、その直後には一瞬だけ表情を曇らせていたから、先ほど絵里花と話していたようにきっと因果律関連の仕事が入ったのだろう…それは私たちにとっても若干不穏な要素なのだけど。

「…好き。好きよ、円佳」

「…うん。ありがとう絵里花、私も…好きだよ」

 自宅に戻って夕食を済ませた私たちはソファに座って団らんしつつ、こうして愛を囁いていた。

 不器用な私たちも自分なりに『好き』を伝え合った結果、それを口にすることに対しての抵抗感がほんの少しだけ薄れて、絵里花は本日感じた不穏さなんて忘れたかのようにゆっくりとしなだれかかってきた。

 私たちの視線の先にあるテレビでは保護犬に関するドキュメンタリーが放送されていたけれど、内容はすでにお互いの頭の中へ入ってくることもなく、私は絵里花から香ってくる女の子らしい甘い匂いに酔いしれながら、その身体を抱き寄せる。

 …絵里花は私に比べると身だしなみに気をつけているから、もしかしたらボディスプレーとか使っているのかな。でもドラッグストアの試供品とはどれも違う香りがしていて、同時に小さな頃から身近な匂いだとも感じて、やっぱりこれが絵里花本来の体臭なのだと自己完結した。

 どの匂いに近いとも表現できない、絵里花の香り。その名前にあるとおり花の匂いであるかのように解釈できそうで、やっぱり違う。家事が好きだから洗濯洗剤のような香りに思えても違うし、今日食べたケーキの甘さとはベクトルが違う…ただ一つはっきりしているのは、私が好きな匂いということだけだった。

「…ね、ねえ、円佳。ほ、頬、ほほほ…」

「ほほほ? なんかお嬢様っぽい笑い方だね?」

「ち、違うの、ほ、頬、ほっぺた…」

 私に抱き寄せられた絵里花は完全に体重を預けつつ、片手で私の腕や首元を撫でてくる。私が定期的に手入れをしている絵里花の手先はきちんと整っていて、逆むけといったトラブルは見受けられない。

 一方で手のひらはわずかに堅さを伴っていて、いくら実弾を使わないといっても銃器を扱っている以上、お互いそういう手になってしまうのははっきりと感じ取れた。多分多くの同級生に比べると、私たちの手はわずかに色気が欠けているのかもしれない。絵里花の場合はそこに家事全般のダメージも加わるから、私よりも痛みやすいのかもしれなかった。

 それは…私の好きな、頑張り屋の絵里花の手だった。戦いが嫌いなのに訓練を欠かさず、私と一緒にいるためだけに努力してくれる…優しくひたむきな手だ。

 そんな当たり前で尊い情報のインデックスを作成していたら、絵里花はちらっと目線を上向きにして私に笑いかけてきた…どこか令嬢っぽさを伴った感じで。絵里花、これからはそういう路線にキャラ変更するんだろうか…私、家庭的な絵里花のほうが好きなんだけどな。

「…頬にキス、してもいい…?」

「あ、うん…うん?」

 私のお願いを大抵は受け入れてくれるように、私も絵里花のお願いはほとんど聞いていると思う。というよりも絵里花は「迷惑をかけたくない」という意地が人二倍くらい強くて、大体のことは自分でやるようにしていた。

 なのでお願いしてくれるというのはむしろ私にとっても嬉しくて、同時に彼女がお願いするほどのことならよほど重要だったり、本当にして欲しくてたまらないことなのだろうから、私は熟慮よりも先に決断を表明した。

 …でも、判断が速いだけではダメなこともある。たとえば、予想外の位置から胸への射撃をされた場合、一寸遅れてその事実を確認し、手遅れになってから思考が始まる、みたいな。

「…キスってことは、唇をここに当てる、みたいな行為でしょうか絵里花さん?」

「ほ、ほかにないでしょう…それと敬語やめて。どうしてもいやなら、その、もちろんいいんだけど…」

「いやってことはまったくないけど…なんだろう…うーん…嬉しいよりも恥ずかしいって気持ちが大きい…いや、違う…絵里花、これってなんだと思う?」

「私に聞くことなの、それ…? わ、私だって、恥ずかしくはあるわよ…で、でも、今…円佳が好きで、好きで、好きって、なったら…唇、当てたくなったの…」

「……ほわぁ……んんっ」

 絵里花という絶対に私を傷つけない子に胸を撃ち抜かれた結果、予想外の衝撃にまったく痛みはなくて。だけども照れ屋さんのお手本みたいな女の子が自分からキスをしたいなんて言ってくるのは、ダメージを伴わない絶大な破壊力があった。ゲーム風にいうのなら『ダメージは与えないものの相手を強く吹き飛ばす』みたいな。

 だから私は吹き飛ばされた心を取り戻すべく、この気持ちの正体を探ってみた。まず、絶対にいやじゃない。なんなら嬉しい。だけど、絵里花のほうを見続けるのが難しいくらいには…恥ずかしい、のだろうか。

 少なくとも絵里花のおねだりしてきた行動を頭の中でイメージしてみたら、両方の頬がぽっぽと熱くなる。まだキスはされていないのに、絵里花の体温を再現するように熱くなった。おかしいな、平熱は私のほうが少し高いはずなのに。

 だから自分の急な発熱の正体解明を絵里花に丸投げしてみたら、彼女も恥ずかしさが伝播されたかのようにぷいっと軽く横を向いて、だけどそれ以上に私のほっぺたへ唇を着陸させたいのか、やっぱりこちらへ向き直って好きって言ってくれた。しかも3回も。大事なことって2回言えば十分じゃなかったのか…。

 さてはて、その絵里花の言葉は…私の体温をさらに引き上げて、排熱が必要なビーム兵器の如く、自分の中で渦巻く熱いものを吐き出させた。そのついでに間抜けな排熱音まで漏れてしまい、絵里花に「今の変な声、なに…?」と聞かれる。私が聞きたいよ、そんなの。

 だけど絵里花を責めるほど不愉快になるわけがなく、勝手に上向きになる口角を引き締めるように咳払いをして、わからないことは全部備え付けのクローゼットへ放り込むように後回しにしてから、最初から存在していた返事だけを渡すことにした。

「…どうぞ。その、ちょっと今、ほっぺが熱いかもだけど。あ、先に顔を洗ってこようか? もしかしたら汚いかもだし」

「そのままでいいわよ、円佳が汚いとかあり得ないし…じゃ、じゃあ…」

 絵里花にキス──頬へのだけど──をお願いされた時点で、私の答えなんて決まっていた。

 私と絵里花は恋人だ。それもつい最近は『いつかはエッチなこともしよう(意訳)』と伝え合ったのだから、キスをする関係としては適切というか、むしろキスをすっ飛ばしてそういうことに行き着くのはさすがの私でも「なんか違う」とわかっている。

 つまり、絵里花のキスを受け入れることにした。いや、受け入れるってなんか受動的だな…そうか、『絵里花にキスしてもらうことにした』と表現すべきだったのか。

 なんて納得しつつも顔を洗うという形でわずかに先延ばしをしようとしたけれど、絵里花は恥じらうよりも先に制してきて、右手を私の左頬に添えて、ゆっくりと顔を近づけてきた。その体勢から察するに、私の右頬にキスをするのだろう。

(…やっぱり、洗ったほうがよかったのかな? でも、『汚いはずがない』なんて言ってくれたし…いいのかな…いいか…)

 目を閉じ、唇を少しだけ突き出して、若干ぷるぷるとしつつゆっくりと顔を近づけてくる絵里花。それを横目でチラリと確認して、念のために私も目を閉じておく。

 そういえば絵里花、『汚いとかあり得ない』の部分には妙に力がこもっていたな…それこそあり得ない想像だけど、もしかしたら『洗う前のほうがいい』なんて本音もあったりして…いや、それはないよね…?

 唇が当たるまでの刹那、私はできるだけ余計なことを考えないよう、自分の中で意味もなく情報の整理をしていた。

「…んっ…」

 それは私の声だったのか。それとも絵里花の声だったのか。

 テレビの音へまったく意識が向けられなくなった私たちの耳朶に、どちらともわからない吐息の音が聞こえてきた。

 いや、多分絵里花の声だったのだろう。

「…あっ…」

 そしてこっちが、私の声。それはまるで青天の霹靂に打たれたような、突然の気づきに目覚めさせられた人間が奏でる音だった。


『やめろ!! 私から絵里花を奪うなぁぁぁ!!』

『お前か? お前なんだな? 私から絵里花を奪う人間は!!』

『離せぇ!! 絵里花、絵里花ぁ!!』

『私が、私が殺さなきゃ!! 私が殺さないと、また絵里花がいなくなる!!』

『やだ、やだぁ…えりかがいないの、やだっ…』

『…えりかはやさしいね…ありがとう…だから、なか、ないで…』


「…円佳?」

「……絵里花」

 どうしてこのタイミングなんだろう、そんな記憶が…私の中で、途切れ途切れに蘇った。

 あれは多分、私が『豹変』したときのものだ。たしか中等教育を受けていた頃、本格的にエージェントとしての訓練もしていて…それで。

(私と絵里花を引き離すみたいなことを話していた奴がいて、そこで記憶が途絶えていた…そうか、あれが…)

 あとからそれとなくそういうことがあったと教えてもらったけれど、当時は本当にそのときの記憶が欠如していて、ぼんやりしたまま頷いていただけだった。

 そして思い出したのも断片的な言葉の切れ端で、それが本当に自分の発したものなのかどうか、少しだけ疑わしいような気もするけれど。

 …いや、多分あれは私の叫びなんだろう。もしもまた同じことを言ってくる奴がいたとしたら、私はそれに近いことを口走るかもしれないから。

「…頬へのキスってさ、よく考えたらもっと小さな頃にしてたよね。あはは、ちょっと私、照れすぎてたかも」

「…も、もう! せっかく大胆になったのに、キスの直後に言うことがそれ!?」

 思わず彼女の名前を呼んでしまって制止していたから、私は真っ赤な顔でじっと見つめてくる彼女に返事をすべく、ついでのような形で思い出したことも口走ってみた。

 私たちがもっと小さくて無邪気だった頃、因果のこともろくに知らなかったとき…たしかに私と絵里花はほっぺたにキスを交わしていて、それは今のような気持ちを内包した愛情表現ではなかったけれど、そうであっても無垢で優しい、変わらない思いやりがあったような気がした。

 だから私としては馬鹿にする意図はまったくなかったのだけれど、絵里花は茶化されてしまったと思い込んだらしく、私の勇気ある恋人はムードを壊されたとばかりにプリプリ怒って、胸元をぽかぽかと叩いていた。

 痛みはゼロ、それどころか肩たたきのような振動が心地いい。人を痛めつけるのを嫌う絵里花らしい力加減で、彼女もエージェントだから本気を出せば大ダメージを与えられるのだけど、それをしない、したくないと感じてくれている相手の私は…今も昔もとっても幸せ者なのだろうと、眠気すら感じる心地よさの中で受け止められた。

「ね、絵里花。次は私がしていい? それで…これからは、もっとこういうこともしていこう。私も唇を使って、絵里花のことを『好き』って気持ちを伝えていきたい」

「…ふん、調子がいいんだから。あなたのほうが強いんだから、力ずくですればいいじゃない」

「ええ…そんなこと言わないでよ。私、絵里花が嫌がることは一つだってしたくないの。あなたのこと、絶対に守るって…離さないって決めてるから」

 あの日豹変した私の心では、どんな化学反応があったのかわからない。あの研究員の言葉が私にだけ変化を及ぼす劇薬だったのか、それとも元々私の中にあった起爆スイッチを押すキーワードだったのか、あるいは…因果によってもたらされた衝動なのか。

 どれであっても不思議じゃないけれど、でもそれは多分どうでもいいことだった。

(絵里花と離れたくない、この子は私が守る…その気持ちは、ずっと変わらないからね)

 自分がいつあんなふうに暴れ狂うのかわからないと考えた場合、いろいろと不安がある。もしかしたら犯罪者相手ではなく研究所に対してそうなってしまうかもしれない、そしてそんな状況になれば私は『始末』されるかもしれない…それはいやだけど。

 しかし、自分の中にたしかな絵里花への誓いがあるのには、不思議と安心感があった。これがいつまでもあるのなら、私は彼女と離れなくて済みそうだから。

 ただの恋人であれば愛情が冷めてしまうかもしれないけれど、私のは違う気がする。漠然とそう思えるほど強い衝動は、私と絵里花の関係を支える力になってくれるだろう。

「…もう。あなたにそんなふうに言われたら、意地なんて張れなくなるわよ…円佳、来て…」

「…う、うん。絵里花、その、そういう言い方、ちょっとえっちぃから…もっとマイルドに、お願い」

「そ、そんなつもりじゃないから!?」

 私の誓いはどこか狂気を含んでいて、それはエゴイスティックな行動を生むかもしれない。

 それでも私が衝動的に動くのは『絵里花と一緒にいるため』であって、いつも私を受け止めてくれる彼女ならこの誓いだって受け入れてくれるだろう…やっぱりどこまでもわがままな私の言葉を、絵里花はふにゃっと表情を崩してキャッチしてくれた。

 そして私に茜色に染まった頬を差し出し、甘ったるい声で誘う。それは狂気をセンシティブな感情に転化しそうなほど危険だったので、とりあえず遠慮するようにお願いした。

 絵里花は慌てて否定し、その様子に私が相好を崩したら彼女も一度だけクスクス笑って、力を抜いて目を閉じる。

「んっ…」

 そして私もキスをした。

 頬へのキス、それは唇に近いけれど、とっても遠い。

 だけどいつかはそこにたどり着いてみせる、その誓いは狂喜とはほど遠くて。

 私をいつも人間でいさせてくれる絵里花の体温を感じながら、しばらくは頬から唇を離せなかった。

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