パティスリー・ルミエラ。主に近隣住民にとっての憩いの場である洋菓子店では、テイクアウトだけでなくイートインで利用する客も多い。
この日も店内のイートインスペースは4席ほどが埋まっており、そのうちの一つでは円佳と絵里花がケーキと飲み物を購入し、それらを楽しみつつ談笑していた。
「あの二人、いい感じだと思いませんか? 元々絆は強かったんですが、なんて言うんですかねぇ…照れが少し減って、素直に気持ちを伝え合っているような?」
「元々円佳ちゃんと絵里花ちゃんは素直だよ? ただ、円佳ちゃんは相手のことを考えすぎて慎重になってたし、絵里花ちゃんは照れ屋でなかなか上手く気持ちを言葉にできなかったから、それでちょっとすれ違っていただけなんだよ思うよ」
そんな二人をレジから眺めるのは、美咲と結衣。その顔にはどちらもあたたかで柔らかい笑みが浮かんでおり、まさに『見守る』という表現がぴったりだった。
この二人も早々に結婚をしてたら子供がいてもおかしくない年齢であったため、内心ではどちらも『子供の成長を感じるとこんな気持ちになれるのだろうか』と考えていた。
それくらい、あの二人の歩みは微笑ましい。
「さすが結衣お姉さん、二人のことをよく見ててくださいますね。もしも私だけだった場合、気づかないこととか伝えきれないこととか、今よりもたくさんあったと思います…」
「そうかもね。美咲って結構器用なはずなのに、大切な人たちにはちょっと臆病っていうか、なかなか人に懐かない気難しい猫みたいだし…そういう意味だと、円佳ちゃんはちょっと美咲に似ているかもね」
「そうですか?…そうですね、美人なところとか似ているかもしれません。円佳さん、アイドルが裸足で逃げ出すくらいおきれいなんですが、自分の容姿に無頓着なんですよねぇ…もったいない」
「…美人には同意するけれど、自分でそんなこと言ったりするのは似てないかなぁ。多分だけど、円佳ちゃんは心のどこかで『自分のことなんてどうでもいい、大好きな人が幸せなら』って考えている子なんだと思うよ。私が美咲と似てるって言ったのは、大体そんなところ」
ケーキを選びながら美咲はのんびりと語りかけ、ほかにレジ待ちの客がいないこともあって結衣もそれに笑顔で応じる。ルミエラに訪れる客は常連が多いこともあり、こうした世間話については業務に支障が出ない限り非常におおらかだ。
ゆえに監視役として偶然を装って店に来た美咲は、この些細な幸運とも言える恋人との時間を楽しんでいた。それはある種の公私混同とも表現できるが、そこは美咲である。彼女は自身に対して堂々と「こんな仕事なんですから、これくらいの役得はないとですね」と言い訳をし、今もどれにしようかとケーキとあの二人とのあいだで視線を交互に向けていた。
「…結衣お姉さんって私を評価しているのかそうじゃないのか、時々わかんなくなっちゃいますね…今みたいに不意打ちで褒められると、絵里花さんみたいに素直に喜べません…」
「そうかなぁ、私は結構美咲のこと評価してるつもりだけど? というか、評価が低いなら恋人のままでいられないし…言っておくけど、私はダメ男やダメ女とそのままずるずる一緒にいるほどお人好しじゃないからね? もしも美咲が本当にそういう人間になったのなら、悪いんだけど…わかってね?」
「…肝に銘じておきます…」
結衣は美咲との会話に応じつつもショーケースを拭いたり、レジのレシート用紙を補充したり、小さな仕事をテキパキとこなしている。彼女はお菓子作りに情熱を燃やしているが、その一方でこの店のあらゆる仕事に対して真面目に向き合っており、若くして店長から強く信頼されていた。
そんなしっかり者を体現する彼女の言葉は、どこか冗談交じりの口調であっても重い。それもそのはずで、結衣は面倒見がいいが決して無制限に誰かを助けるわけではなく、自分に限界があることを強く理解していた。
円佳たちの前では良き姉のように振る舞う彼女であるが、無論失敗と無縁でいられたわけではない。大きなものから小さなものまで多種多様な失敗を重ね、そして挫折も経験し、ようやく大人と言える段階まで階段を上ってきたのだ。
美咲はそんな結衣を誇りに思っていた。エージェントという特殊な立場で生きる自分たちとは違い、彼女はある意味では『平凡』と表現できる人生を歩んでいて、その階段は一見すると地味で誰もが視線を下に向けることはないだろう。
しかし、美咲は知っている。結衣は与えられた人生の中で必死に前を向いて、一歩一歩確実に努力を重ね、その長い階段を地道に上っていたのだ。どこからともなく与えられた因果に逆らった自分とは違う、まっすぐで一生懸命な人。
だから私は、この人が好き。隣で同じ階段を上ることはできなくとも、この人はいつも私たちを見守ってくれる。螺旋階段よりもひねくれた曲がり方をしている自分たちの行く先に迷ったとき、いつもこの人がまっすぐなほうへと導いてくれるんだ──。
だからこの人は、結衣『お姉さん』。
美咲は結衣の言葉を強く心に刻みながら、それでも笑ってみせた。
「…あんなに仲良しさんなんですから、そろそろ『性教育』もがっつりしたほうがいいですかね?」
「ここ、お店の中なんだけど? もしも本当にそんなことを始めたら『店内で女子高生に卑猥な話を持ちかけている女がいる』みたいな通報をしないとだけど?」
「割と真面目な話なんです…あの二人くらいお互いへの愛情が強いと、遅かれ早かれ『そういう気分』になれちゃうと思うんですよね…そんなとき、『エッチなことは悪いこと』って認識を持ってしまうと良くないでしょう?」
「…一理あるけれど。でもまあ、その…二人は女の子だから最悪の事態にはならないだろうし、変にそういう話を振るとまたギクシャクしちゃわない?」
「それなんですよねぇ…」
先日、円佳の相談を受けた美咲はただ単に背中を押しただけでなく、その後は「あの二人なら大丈夫でしょう」と見越し、経過は順調であると研究所に報告しつつ…その先についても考え始めた。
となると、どうしても『性に関わる出来事』にも目を向けないといけなかった。真面目な結衣は冗談だと思って美咲をたしなめようとしたが、本当に困ったように話す恋人を見ては邪険にできず、何より…自分たちとて、『そういうこと』は経験しているのだ。
だから一方的に悪いことだと断じるのは不可能で、かといって無責任に推奨するのも論外で、改めて美咲の言う『性教育』の難易度の高さについて理解した。
「あの二人はお互いを大事にしすぎているからこそ、そういう行為には慎重になってしまう。それ自体は悪いことじゃないんですし、微笑ましいことであるとすら言えるんですが…まあその、私は二人の『後押し』をしてあげたいんですよ。お節介と思われるかもですけど、私はあの二人に助けられているので…二人にはもっと仲良くなってもらいたいんです」
美咲は自分の言葉に対し、どうしてもエージェントであることを軽く後悔していた。
彼女はできるだけ自分の中にある本音に近い言葉を選んでいるものの、もしも選ばなければ『仕事なのでどんどん進展させないといけない』というものになって、それを言えないこと、そして隠して伝えている自分が…どうしようもなく惨めで、不誠実な人間だと感じる。
そして、そういう場合にこの人は…決まって、そんな顔をするのだ。
「…そっか。でもまあ、美咲みたいになってもらっても困るから…あんまりにも露骨な教育は却下で。美咲もいやでしょ、喜んで女の子に手を出す円佳ちゃんや絵里花ちゃんなんて」
「…それをいやと言えば自己嫌悪極まりないですし、いいと言えば普通に最低だと非難されそうですし…結衣お姉さんはいじわるですっ」
結衣はわずかに眉尻を下げ、それでも口角だけは緩くつり上げながら、美咲の内側の一歩手前を見つめるような目を向けながら笑いかけてきた。
結衣は美咲が隠し事をしていると察したとき、いつもこんなふうに笑っていた。なにかを隠していることを知っている、それは悲しい…けれども恋人の悲しみを責めることはできず、ただ曖昧に笑ってあげることが一番彼女の胸の内を軽くできるのだと、自分に言い聞かせながら。
美咲はそんな結衣を愛していた。今すぐすべてをさらけ出したいほど、その優しさに絆されそうになる。
だけど、それは許されない。自分がここで決壊してしまっては、一緒にいられなくなるのだから。
だから美咲は同じような顔をして笑い、頬を小さく膨らませてぷいっと目を逸らした。そのきれいな目を見つめているとすぐにでも泣きたくなる、そんな気持ちを隠すように。
「…一人で背負っちゃダメだよ。私もあの二人のことは大切なんだから、手伝えることがあれば遠慮なく頼ってね」
「…ふふ、私はいつも遠慮なんかしてませんよ? 私の言葉はいつも軽いですから、大切なことを伝えるときは…是非、結衣お姉さんの力を貸してください。あなたの言葉はどこまでもまっすぐで、胸の奥にまで届くくらい重みがあって、でも押しつけがましくない…世界で一番優しい、私に救いをもたらす福音なのですから」
「…もう。私、今は仕事中なんだけどな…」
そしてもう一度美咲が恋人に目を向けると、結衣は笑っていた。今度は悲しげでも気遣わしげでもない、ただただ優しい笑顔。
それは自分ではなくあの二人に向けられていて、ちょっとだけ悔しいけれど。美咲はそんな人がいてくれるからこそ伝えられることも多い、それを知っていたので…たまらず、ショーケースの上にあった結衣の手に自分の手を重ねた。
それは一瞬、誰にも見とがめられないほど刹那の時間。恋人同士が愛を伝え合うには、あまりにも短いものだった。
けれども結衣は手の甲に伝わるフルート演奏のようななめらかな指運びに一瞬で心に熱を灯され、ふと「今日も家に来るのかな」と考え、そうなった場合に備えて準備をしようと固く誓う。
同時に、円佳と絵里花も同じことをするようになった場合、こうした気持ちであってほしいと切実に願っていた。
「それじゃあ、今日はティラミスを二人分…あっすみません、ちょっとメッセージの確認をしないとなので、先に包んでてもらえますか?」
「ん、毎度あり」
結衣の優しさに心が救われたときくらい、緊急の通知はやめてほしい…そんな恨めしさを上司たちにぶつけつつ、美咲は携帯端末を取り出して内容を確認する。
(…主に学生たちをターゲットにした、国外脱出の教唆…やれやれ、あの二人が対応するには多少面倒なことで…)
緊急度の高い連絡、それは単なる注意喚起ではなく…必要に応じて出動してもらう、そんな命令に近い内容でもあった。
そして内容を確認した美咲はどうしてあの子たちなのだと少なからぬ理不尽さを感じつつも、逃れられぬ運命…これもある種の『因果』なのかと考え、そして諦めた。
「…恋に試練はつきものですが、あの二人の邪魔をするものじゃなければいいんですけどね」
「大丈夫だよ、あの子たちなら乗り越えられる…なので私たちも負けてられないよ? だから美咲、今日はちゃんと自分のお金で払ってね?」
「…そうですね、これくらいの試練なら…結衣お姉さんと結ばれるためなら、お安いものです。今夜はこのティラミスを持ってお邪魔するので、私の気持ちを受け取ってくださいね?」
「…はぁ、本当に調子がいいんだから…待ってる」
諦念ゆえに漏らした言葉は、今度こそ恋人を失望させるかもしれない。そんな美咲の心配は、またしても結衣の笑顔によって吹き飛ばされた。
にっこり、大人だからこその愛くるしさを秘めた笑顔は…美咲にとってどこまでも挑戦的で、挑発的でもあって。そこにはこんな言葉が秘められているように感じた。
『二人の心配もいいけれど、私たちのことも気にかけたほうがいいよ?』
ああもう、結衣お姉さんは…どうしてこんなに、私の胸へ火をくべるのでしょうか?
真面目で面倒見が良く、とても優しく清らかなのに。
私を誘うときは…誘っている自覚があるかどうかもわからないくらい奔放で、この人のほうが猫みたいで。
気づいたら美咲は二人のことも任務のことも忘れ、ティラミスの代金を支払いつつケーキに込められた情熱を伝えていた。
結衣はケーキの入った箱を渡す際にまた手の甲を撫でられて、今夜はこのティラミスのように甘く柔らかな時間を過ごすのだろうと覚悟した。