この前と逆だな、そんなことを部屋のドアの前で考えていた。
(あのときは絵里花が私に黙ってどこかに行って、それですごく心配していたっけ…絵里花も今、心配してくれているのだろうか)
絵里花に心配をかけるというのは、すごく申し訳ない気持ちになる。
その一方で心配してくれていると思ったら心はどうしようもないほど丸みを帯びて、そのつるんとした表面から嬉しいって気持ちがにじみ出てくる。そのために心配させるのは言語道断、とわかっていても…嬉しいという気持ちは蛇口をひねっても止められない、デンドロビウムのようにわがままな事実へ顔は緩んだ。
でもいつまでも部屋に入らず入り口でニヤニヤしていたら監視カメラにもバッチリ残されるため、こんなことならパーカーを羽織るんだったと軽度の職権乱用を考えつつ、私はドアを開いた。
「ただいま。絵里花、さっきはごめ」
「円佳っ!…よかった、怪我はしていないわね。顔色も悪くないし、まったくもう…心配させないでよ。メッセージにも応答しないし」
「あ、ごめん…ちょっと考え事したくて、マナーモードにしてたから」
「考え事? コンビニに行ってたんじゃないの?」
「…そうだった」
ドアを開くと同時に家の中からドタドタと足音が聞こえ、私は絵里花が向かってくることを聴覚だけで判断できた。やっぱり彼女もエージェントだけあって到着は瞬時であり、短距離走であれば私よりも早かったのを思い出す。
そして用意しておいた謝罪の言葉を伝えようとしたら、必死さを感じる絵里花が肩を掴んできて私の全身を確認し、怪我がないことを確認したらほうっと息を吐いた。予想通り…いや、それよりも強めに心配してくれていたことに私の心はまた丸みを帯びて、申し訳なさはその表面をつるりと滑って消えてしまった。
…私、絵里花のこういうところ、好きだな。
今からでも育てないといけない絵里花への気持ちは、早くも芽吹いていくのを感じた。
「そうだったって…やっぱり用事なんてなかったんじゃない。考え事の邪魔をしたのは悪かったけれど、逃げなくてもいいでしょう? 心配しなくても、あなたが『何も聞かないで』って言ってくれたら、私だって野暮な追求はしなかったわよ…」
「…だよね。ごめん、あのときは、えーっと…絵里花の顔を見てたら、わっ…ってなってたから。でも大丈夫、今は落ち着いた」
「そう…? ならいいんだけど。とにかく、今からはもう余計な口は挟まないから安心なさい…私はご飯の準備をするから、部屋で考え事をしてきなさいよ」
「それなんだけど…ご飯の準備、ちょっと遅らせてもらっていい? その考え事もそうだけど、今は絵里花と話したいの」
「…い、いいけど…今度は逃げないでよ?」
「逃げないよ。万が一逃げそうだと思ったら、体術で組み伏せてくれていいから」
「私があなたに勝てるとは思えないけど…やってみるわ」
自分で口にしたことすら忘れていた間抜けな私に呆れる様子も見せず、それどころか気遣いすらしてくれる絵里花。こうした包容力もまた私の心をなめらかにして、目の細かいヤスリで磨かれたかのように、その表面は鏡のように輝いて彼女の気持ちを映していた。
…絵里花はことあるごとに私を「優しい」と褒めすぎるけれど、彼女の思いやりも相当なものだと思う。いじっぱりで不器用だからその一面を知らない人が多いのだけど、一度親しくなってしまえば…多分私のように、その太平洋みたいな包容力に溺れかけそうになるだろう。
でも今溺れてしまうと大事なことまで海に流されてしまいそうだから、ぐっと堪えて彼女に向き合う。そしてその気遣いを両手で受け取り、だけど安易に寄りかからないように、そっと胸中のクッションの上に置いてお願いした。
絵里花は私のお願い事の9割くらいは受け入れてくれるけれど、今回もやっぱり料理を後回しにしてでも許容してくれて、私が手を握ると握り返してきながらリビングのソファまでエスコートされてくれた。
到着したら腰を下ろし、まずは手を離して…でも名残惜しいから、絵里花の手の甲をなでりなでりとさすった。絵里花は「くすぐったい」と言い、目を細めて笑ってくれる。
「…それで、えっと。話、なんだけど」
「…ええ」
「…うん。その。ええと…」
こういう些細なやりとりを続けていたら、自然と『好き』が育つかもしれない。そんな予感を覚えるほどには甘い雫が胸の奥でポタポタ落ちていたけれど、言葉を使わないと伝わらないことだらけなのが人間だ。
だから私は美咲さんのアドバイスを活かすべく、大切な話をしようとした…んだけど…。
困った。ちゃんと話せるほど形を保っているものが、とくにない…。
(…私はこれから絵里花が好きって気持ちをもっと育てるから、それが大きくなったら、いつかはエッチなことをしよう…うわ、要約すると…結構ひどい…)
美咲さんのアドバイスはなんともストレートで、任務のために私たちへ発破をかけたときの回りくどい指示はなんだったのかと問いたくなる。いや、多分あの日は任務優先で本当のことが言いにくくて、美咲さんなりに気を使ってやんわりと任務遂行を促したんだろうけど。
かといって、先ほどのストレートなアドバイスは直接口にするのも憚られて、それを伝えないとあれば話すことがなくなって…そもそも私、なんで絵里花を会話に誘ったんだ…?
「…円佳、どうしたのよ? 話したいこと、あるんじゃなかったの…?」
「あ、あるよ…あの…絵里花は…私のこと、なんで、どんなところ、好きなのかなーって…」
「は、はあ?」
もっと好きになりたい。そのためには、もっとたくさん相手の好きになれるところを知る必要がある。
先ほどの美咲さんとのやりとりから必死に会話内容のサジェストを探し、ギリギリで有益、そして関連もしていそうな質問を取り出してみた。
絵里花の好きなところはちゃんとたくさんあるはずだけど、それを改めて言語化するのは今の追い詰められた私では難しい。かといって言語化しないと今後の方針も見えてこなさそうなのが事実で、結局私はまた絵里花に甘えるという選択肢を選んでしまった。
絵里花に私の好きなところを言ってもらって参考にしつつ、私もその時間を活用して好きなところを探すんだ…!
「な、なんで今、そんなことを…? もっと大事な話、あるんじゃないの…?」
「だ、大事だよ? ほら、私たちってなんだかんだで長い付き合いで…少し前もお互いが好きって伝えて、ちゃんとデートもしたんだけど…言葉にして好きなところを伝え合うとか、全然してなかったし。だからそれをはっきりさせたら、私たちの関係もいい感じになるんじゃないかなー?」
「そ、そう…? なんか今のあなた、とってつけたようなことを話しているように見えるんだけど」
ギクゥー、そんな擬音を私の鼓膜は再生した。
とってつけた、というのはまさに的確な指摘で…普段は私のほうが冷静だと褒められることも多いのに、この場に関しては絵里花のほうがよっぽど冷静で状況判断能力に優れていたから、やはり絵里花も優秀なエージェントなのだと研究所の連中に演説したくなった。
ただ、幸いなのは『絵里花はとにかく私を優先してくれること』であって、それ以上の追求はせずに「ええと…」とわずかに目を逸らして考え始めてくれた。
私の好きなところ、を。
「…いっつも言ってるかもだけど、あなたはすごく優しい人よ。だから、その…そういうところ、すごく、すごく…好き…」
「……そ、そう、なんだ。あはは、あは、は…嬉しいけどさ、そのぉ、私はそこまで優しいってほどじゃないけど?」
おおう、頭に手を当てて天井を仰ぎそうになる。
絵里花は照れ屋なのでこういう会話が得意じゃないのだろうけど、今日は意を決したように私をまっすぐ見つめ、秘めやかでありながらも一歩ずつ、私を壁際に追い詰めるかのように…いや、押さえつけんばかりの圧力を持つ言葉で、ぐいぐいと前進してきた。
とくに「すごく、すごく」のところ…なんだろう、めちゃくちゃな熱がこもっている気がする。人間の皮膚はおよそ70℃から火傷の危険性が急激に高まるけれど、今の絵里花の言葉は69℃くらいある。
ギリギリだ。ギリギリ、私が耐えられる。耐えられなかった場合はどうなるかわからない、そんな正体不明の熱があった。
「そんなことない。あなたはいつも私のことを考えてくれていて、自分が犠牲になるのは気にもとめず、私がつらいときは躊躇せず肩代わりしようとしてくれる…それに甘えちゃダメって思ってるけど、私…い、一緒にいると、我慢できない、っていうか…」
「……うおお……んんっ……あ、ありがとう、絵里花」
思わず絵里花に「今の声なに…?」なんて聞かれそうな、喜びになり損ねた歓喜がうめきとして口から漏れる。
いや、うん。さすがに今のは過剰評価だってわかってる。わかってるんだけど、嘘ではないとわからされる絵里花の言葉は私の心を丸くするどころか、磨きすぎて存在そのものを溶かしてしまいそうな、ちょっとやりすぎ…褒めすぎな気がした。
…でもお世辞でも嘘でもないとわかるからこそ、これが嬉しいという気持ちなんだろうな。普段から絵里花は私を褒めてくれるのに、改まって言語としてきっちり伝えてくれると、たまらなくなる。
たまらなくなって、気づいた。
(…私、好きだ。『私のことを好きだって言ってくれる絵里花』が、好き)
マタタビを与えられた猫のように心の中でぐでんぐでんと悶えていたら、そんな間抜けな光景から生まれたとは思えないほど、ある意味では真理的な結論が生まれてきた。いやほんと、なんで今それが生まれたんだ。
ともかく、たまらなくなった私の胸の内から生まれてきたもの、それは『人が好きになる理由』が濃縮されていたのだ。
「あの、円佳…様子が変だけど、本当に大丈夫? なんだか今すぐにでものたうち回りそうっていうか…顔が真っ赤だし、ちょっと苦しそうだし、風邪薬を持ってきたほうが」
「私も絵里花のこと、好きだよ」
誰かに好きでいてもらえること、好きだと言ってもらえること、好きだからしてくれること…そのすべてが私をわーっとさせて、余裕なんてなくなるくらいドキドキさせて、それでも嵐が過ぎ去った場所には幸福の虹が架かっていた。
もしも私が好きだと伝えたら、絵里花も同じように思ってくれるのだろうか?
そして思ってくれたのであれば、もっと私を好きになってもらいたい。そうやって『お互いが好きになるほどもっと好きになる』というのを繰り返していくのこそが、『好きを育てる』のだと思えた。
「私も絵里花の優しいところが、好き。私のことをたくさん考えてくれて、私のためにいろんなことをしてくれて、私のために好きなところを探してくれるあなたが…大好き。好きだよ絵里花、大好き…」
「……あ、う……」
絵里花の手を両手で包み、そして私も好きなところを伝えた。
言葉の意味が追いついてはくれないほど、私の『好き』はまだ未成熟。それは絵里花に渡して食べてもらうには、そして身体を重ね合うにはまだほど遠い、酸っぱくて堅い果実だった。
だけど、少しずつ甘くなっている。絵里花に好きだと言ってもらうたび、絵里花に好きだと伝えるたび、中身はゆっくりと熟れて甘くなっていた。
恋人との時間は甘いと言うけれど、その甘さのピークが『身体を重ねること』であれば、私たちはまだまだ育てていかないといけない。
それは大変で、また失敗もするだろう。そして今みたいにきちんと好きの正体を見つめることはできず、また見失って夜の中を明かりもなく歩くのかもしれない。
それでも隣に絵里花がいてくれるのなら、また夜明けを待つことができる。朝日が昇ったら歩き始めて、夜の帳が下りたら寄り添って眠ろう。
「…絵里花も『うおお』ってなった?」
「…よくわからないけど、多分なったと思う…さっきのあなたも、こういう気持ちだった?」
「うん。この前絵里花が言っていた『変な気持ち』ってさ、こういうのが重なって、そのうちたまらなくなって、えっと…自然に、『する』んだって思った。違ったら、ごめん」
「…ううん、しっくりくるわ。私たちは女同士で、それは今時珍しくないし普通だって思うけど、男と女よりも手探りが必要なんだって今ならわかる…あなたはこれを探してくれていたのね」
絵里花は『これ』を示すように、私と両手で握り合ってきゅっと力を込めた。
ああ、そうだ。『これ』なんだ、きっと。
今も手の中にあるような気がするのに、多分そこにはない。
何度も何度も掴んで、今みたいにやっぱりなくて。
でも…本当に掴める日が来たら、私たちは理屈じゃなしに抱き合う。
ありのままの姿になって、盛り上がる気分のまま、自分たちのすべてをさらけ出すのだろう。
それは今じゃない。そのことがわずかに残念で、だけどもほっとした。
だって私も絵里花も、笑っていたのだから。
「絵里花、これからはもっと『好き』って言えるように頑張るよ。ただ単に口にするだけじゃなくて、ちゃんと絵里花の好きなところを探して、あなたへ届くように伝えるからね」
「ありがとう、円佳…私は多分、あなたほど上手くは言えないかもだけど…それでも、逃げないわ。あなたが好きでいてくれる限り、その言葉は全部受け止める。私もいつか同じくらい伝えられるように…頑張る」
ありがとう、私たちは何度目かわからないお礼を伝え合って、これからの道筋を見つけた。
その道の先に何があるのか、どこまで伸びているのか、今は全然わからないけれど。
私たちがお互いを好きである限り、どこまでも歩いて行ける。だからどうか、私たちの人生すべてをかけて歩き続けられますように。
私は絵里花との因果に願いを捧げ、もう一度お互いがありがとうと伝え合った。
それから少しの間はお互いの好きなところをあげていき、お腹の虫が鳴いたところでようやく夕飯の準備へと戻れた。