目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第21話「あなたが好き」

 最近、絵里花と上手くいっていない。いや、ケンカをしたとかではなくて…なんていうか、心ここにあらずというか、私のことを見てくれていないというか。こんなふうに言うと面倒な女みたいだけど。

 私は自分なりに考えていろんな提案をしているつもりだけど、絵里花はそれに対して返事はしてくれても実行については不安定というか、上の空のまま応じてくれて、それでとくに成果らしいものを出せずに終わっていたのだ。

 自分で言うのもなんだけど、私と絵里花の関係はそこそこ安定していたつもりだった。絵里花は私を嫌っているようには見えなかったし、なんなら好かれていると言ってもいいだろう。絵里花が時折素直に伝えてくれる『好き』という言葉は、非常にわかりやすい好意で嬉しくもあった。

 でも、最近はそれがなかった。絵里花は私に対していつも言いよどむような感じがあって、それは同時におびえているようにも見える。そして彼女が恐れることについて一切の見当がついていないわけでもなくて、多分なら『このままだと一緒にはいられなくなる』というのを危惧しているのだろう。

 それは、私にとっても恐れるべき事態だった。私は絵里花の怯えを取り除いてあげられないように、恋人としては至らない部分が多いのだと思う。そしてもっと彼女を理解できる人が現れて、絵里花がその人と組むことになったら…なんて思ったら。

 私はエージェントとして培ってきたすべてを使って、絵里花を奪う存在を駆除しようと考えるだろう。私が至らない以上は私に問題があっての結末なのだろうとは思うけど、それでも譲れないことはある。

 絵里花は納得してくれないけれど、私は…『絵里花が隣にいてくれること』が重要なのであって、彼女がCMCやエージェントとして優秀かどうかなんていうのは些末ごとだと考えていた。私はそれなりに優秀だと評価されているけれど、そんなのは絵里花がいてくれるからであって、彼女がいなくなると私は『エージェントの立場を悪用して報復する程度の人間』でしかないのだ。

 絵里花が隣にいてくれると、私の見える世界は華やかに彩られる。

 絵里花が隣にいてくれると、私の耳には子守歌のように心地よい音が流れる。

 絵里花が隣にいてくれると、私はどんな任務にも恐怖を感じなくなる。

 もしも絵里花以外が私の隣に置かれたのであれば、そのすべてがなくなってしまう。だから認めない。

 そしてこの気持ちが『恋愛としての好き』であったのなら、私はきっと絵里花を好きだと言える。

 だから…早く、戻ってきて。


 *


「…絵里花、遅いな」

 休日の夕方、私はリビングのソファに浅く腰掛けながら、テレビも付けずにキョロキョロと視線を泳がせていた。遊泳する視線に移るのはどれも見慣れた自宅の光景で、本来であれば落ち着くと表現してもいい空間が広がっているはずなのに、今の私はあてもなく海をさまよう回遊魚の如く身じろぎを続けている。

 絵里花がいない海というのは、どこを泳いでも落ち着けなかった。

(なんで携帯を置いていったんだろう…いや、違う…なんで、なにも言わずにどこかへ行ったの…)

 私たちにとって携帯端末は肌身離さず持つべきもので、それを自室に置いていくというのはある種の職務放棄に近かった。けれども私にとって職務というのはこの場においてどうでもよく、ただ絵里花がいないこと、そして連絡が取れないことだけが懸念だった。

 万が一、世界自由連合の連中みたいな敵に捕らえられて、彼女が苦しめられているとしたら?

 その可能性は極めて低いとは思いつつも、徐々に平常心が削り取られている私は悪い想像ばかりしていた。

(…もしも絵里花になにかする奴がいたら…誰だって即、『始末』してやる。捕縛なんてどうでもいい、二度と絵里花に手を出せないようにしないと…)

 私たちCMCのエージェントは殺傷を命じられることはほぼなく、たとえば因果律に違反した一般人であれば『矯正用の施設』に入れられて、二度と因果に逆らわないようにする。犯罪者であれば取り調べが必須になるから、どれほど極悪であってもすぐに命を奪うことはない。

 だから先ほどの私の考えというのはエージェント失格であり、さすがの美咲さん相手であってもバレたら苦言どころじゃ済まないだろう。というか、私が矯正されるかもしれない。

 でも、いいんだ。絵里花が無事で何者にも侵害されないというのなら、私はなんだってしてやる。法律も倫理もどうでもいい、ただ絵里花を守れたら満足だ。

 もう二度と、絵里花とは離れない。あんなこと、もう二度とは

(…あんな、こと?)

 絵里花を守るための誓いを新たにしていると、一瞬だけ左腕がチクリとした。もちろん針が刺さったような痕跡はなく、右手で触れてもその痛みは再現されなくて、痛覚はゆっくりと頭に向かって移動している。

 そしてそれが脳に到達する前に、すべてが消える出来事があった。

「…絵里花!」

 玄関のドアが開き、控えめな「ただいま」という声が聞こえた瞬間、先ほどまでの思考があっさりと上書きされる。無意味な私の遊泳はそこで完全に終わって、目的地へと泳ぐように玄関へと走って向かった。

 するとそこにはエコバッグを持った絵里花がいて、任務で敵に強襲するかのごとき勢いで向かってきた私に驚きの目を向けていた。

「絵里花、どこに行ってたの! 携帯も置いて、行き先も言わないで…敵に捕まったらどうしようって…!」

「て、敵? ちょっと、なんでそんなことになってるのよ…少し前に食料品の買い出しが必要って伝えたじゃない?」

「だったら!…ごめん、大きな声出して…でも、ちゃんと伝えてほしかった…絵里花がいなくなるの、心配だから…」

 食料品の買い出し。なるほど、たしかにそれは聞いていた。そしてちょっとした買い物程度であれば、こうした報告なしに向かうこともあるだろう。

 けれどこれまでは大抵私も同行していたし、仮に一人で買い物へ行く場合は事前に伝えてくれていたし、何より携帯だって持っていくはずだった。その当たり前だったピースが欠けたことは私の中にある安心を容易に崩して、不安と猜疑を生みだして、誰もが敵に見えてしまうくらい心を不安定にする。

 絵里花じゃなくてもいいだなんて、とんでもなかった。絵里花がいることで円佳という不完全なエージェントは生きていられて、ほかの人間に置き換えられた場合、私はいなくなってしまうんだ。

 思わず大きな声を出してしまった私は申し訳なさに目を逸らしながらも、弱々しく絵里花に気持ちを伝えたら。

 彼女はエコバッグを置き、衝動的な勢いで私に抱きついてきた。

「…絵里花?」

「好き…円佳、好きよ」

 どくん、胸の音が聞こえる。それは間違いなく私の中から生まれていて、密着する絵里花に伝わってしまいそうなほどの振動を伴っていた。

 脈動する心臓は小さな苦しさを主張しつつも、私はゆっくりと腕を回して絵里花を抱き寄せる。すると今度こそ自分の中のピースが完全に埋まって、なんであんなことを考えていたのか、私の敵なんて本当にいたのだろうか、まるでもう一人の自分が消えていったかのように落ち着いた。

「…いや、これじゃあダメよね…円佳、ちょっとだけ話を聞いてくれる? 夕飯が遅れちゃうかもしれないけど」

「うん、聞くよ。ソファに行こうか」

 このまま朝までこうしていてもいいくらいに心地よかったけれど、絵里花は軽く頬ずりしてきたかと思ったらすっと体を離し、頬を赤らめながらも真剣な声と表情で私に向き合う。

 絵里花は照れ屋なのでこうして引っ付いた直後はいつも言葉少なになって困っていたけれど、今日はなにかが違う。もしかして出かけている最中に何事かあったのだろうかと気になったけど、私の見える場所に絵里花がいることの安心感は懸念を乗り越えさせて、手を握りながらリビングへと向かった。

「…私、ずっと一人で悩んでいた。あなたと一緒にいるためなのに、あなたになにも言わずに一人で抱え込んで…いつもあなたに背負わせてばかりだから、せめて私ができることで支えたいって…」

「…そんなことないよ。私、絵里花にいろんなものを押しつけてる…」

 その押しつけているものを詳しく説明することは、さすがにためらわれた。

 私は…絵里花を心の拠り所にしている。絵里花がいることが私が私でいられる理由にしていて、それは言葉にするととんでもなく重くて、同時に言葉というコミュニケーションツールだけでは表現しきれない気がした。

 言葉だけじゃ伝えられないほど、絵里花という存在は大きかったのだ。もしかすると、自分の命よりも大事なくらいには。

 そんな言葉の上辺をできるだけ正確に、そして短く伝える。絵里花は私に寄りかかるように身を寄せて、私もまた肩に手を回して抱き寄せる。いつも使っているソファの上は、私たち二人だけの世界になっていた。

「私、あなたに『好き』って言っているけど、それは、その…言葉足らずだったって反省できたの。好きなのは間違いなくて、ずっと一緒にいたいのも本当で…だけど、好きだけじゃ伝えられない。好きと言えば全部察してもらえて、私の望みを叶えてくれるだなんて、甘えていたんだと思う」

「…そっか。絵里花も、『好き』を探していたんだね」

 多分だけど、絵里花は私よりも『好き』という言葉を言ってくれている。そして私が『好き』と言うときは大抵その返事で、それはオウム返しのように同じ気持ちを伝えているようで、実際は外国語のような響きが同じなだけでまったく違う意味を押しつけあっていたのかもしれない。

 そして、思い上がりではないのだとしたら…多分、『絵里花の好き』のほうが大きくて、きれいで、まっすぐなんだろうな。

 そんな好きをずっと送り続けてくれたこの子が愛おしくて、同時に好きの形を察してあげられなくて申し訳なかった。絵里花は必死に探してくれていたのに、私は後回しにしていたんだろう。

「…だから私は、あなたが好きよ。恋人として、あなたが好き。あなたという人間そのものが好き。あなたじゃなければ好きになれない。私の好きは、そういう…ただ一人の相手に向けられる、『唯一の好き』なんだって思ってるわ」

 かくして絵里花が見つけてくれた好きは、驚くほど…純粋だった。

 アイドルがファンの人たちを好きと言うのとは、全然違う。不特定多数に渡しても問題ないものではなく、誰かへの気持ちを混ぜても許されるものではなく、ただ私にだけ向けてくれる好き。

 白い紙に白い絵の具で愛を描くのではなく、私の体と心にだけ刻まれる、この世界でここにだけ存在できる『純愛』とも表現すべき好きだった。

 ほかの人間には見ることも叶わない、私たちが消えてなくなればそのまま消滅してしまう、未来永劫この瞬間にしか存在できないものなんだ。

「…ありがとう、絵里花。その、本当のことを言うと…すごく嬉しいと同じくらい、重いとも感じてる。私も絵里花が好きだけど、これまでみたいにただの返事で切り返せるものなんかじゃ向き合えないくらい、絵里花の気持ちはきれいでまっすぐなんだね…ああっ、泣かないで」

 絵里花は…重い。私のことを好きでいてくれると信じていたけれど、私が伝えていた「好きだよ」という気持ちとは比較にならないほど大きなものを抱えていた。私の好きがメダカサイズだとしたら、絵里花のは…クジラサイズくらい?

 私だって絵里花以外に好きだなんて言えないけれど、絵里花がまっすぐに見つめながら伝えてくる好きは本当に唯一無二で、メダカの私がクジラに押しつぶされるが如く、重いという表現をせざるを得なかった。

 そしてそれは拒絶の言葉だと思ったのか、絵里花は無言でぽろっと涙をこぼし、私は慌ててそれを手で拭い、頭を撫でつつまた抱き寄せた。

「あのね、ええと…私、絵里花のこと…私のことをそこまで好きでいてくれる絵里花のこと、好きなのは間違いないよ。でもやっぱり今は絵里花と同じくらい大きな好きなのかと聞かれると自信がなくて、それでも…はっきりと言えること、あるよ」

 絵里花は自分の中にある好きを全部ぶつけてきたのだから、私も同じようにしないといけない。

 そう思ったらようやく背中を押してもらえて、先ほどの血迷っていた自分の気持ちを引き出せた。

 それは絵里花の好きと並べてはいけないくらい、真っ黒で、どんよりしてて、思考を支配するほどべったりと張り付くものだけど…それでもこれこそが、今の私の『絵里花に対する一番強い気持ち』だった。


「絵里花が買い物に行って一人になっていたとき、私は…すごく不安だった。絵里花が敵対勢力とかに捕まっていないか、それでひどい目に遭わされていないか…そう思ったらね、私は…その敵を全員始末してやろう、そして二度と絵里花に手を出せないようにしてやるって本気で考えていた…それだけじゃないよ。もしも私と絵里花を引き離すのが研究所の人たちだった場合でも、多分同じことをすると思う。私、それくらい絵里花が大切なの。絵里花よりも勉強ができても、戦闘が得意でも、家事が上手くても意味がない。今私の隣にいてくれる絵里花じゃないといやなの。なにか少しでも違ったらダメなの。もしも絵里花とうり二つの相棒が来てくれたとしても、その人を始末してでも私は今の絵里花を取り戻す。私のこの気持ち、好きって言うにはちょっと…だと思う。そんなの自分でわかってる。だけど…こんな気持ちを持てる相手、絵里花しかいないの。ごめんね、こんなことを聞かせて…でも、これが好きに近いものであれば、今はこれが私があなたに伝えられる本当の気持ちなんだ。もしもこれが絵里花の好きと少しでも重なる部分があれば、言わせて…私も、絵里花が好きだよ」


 本当なら目を逸らしたいこの荒ぶる感情を逃さないため、私はほぼ一息で伝えきった。全部吐き出したところで自分の心臓が音を立てるほど激しく動いていることに気づいて、これは多分恋のドキドキとは違うのだろうなと思い、少しだけおかしくなって酸欠気味に笑ってしまう。

 絵里花は突如としてぶつけられた言葉にきょとんとして、それでも私の奇妙な笑いに反応するかのように、もう一度ポロリと涙をこぼして笑ってくれた。

 それは久々に見られた気がした、絵里花の満面の笑みだった。

「…あなただって重いじゃない。絶対にないと思うけど、私が目の前でナンパされたら…今のあなただと、相手を殺してしまいそうね」

「…ごめん、否定できない…絵里花はちゃんと断るってわかっているけど、そういう感情を持った相手が近くにいるってだけで…おかしくなりそう…」

 涙は止まらないけれど、絵里花の口からはクスクスという楽しそうな笑いが何度も漏れて、私も口では物騒なことを言いつつ笑うことができた。

 絵里花は可愛いから、因果律に面白半分で逆らうような馬鹿は平気でナンパするんだろうな。そして私がそれを見た場合、即時敵認定を済ませて実力行使に移るんだろうな。

 …人間が心を読めなくて本当によかったと思う。もしも私が絵里花に下心を向ける連中を把握できていた場合、今頃10人くらいは始末していたかもしれないから。

「ふふっ、でも…ありがとう。あなたが私のことを特別って思ってくれているの、ちゃんと伝わった…あなたに好きって言ってもらえて、嬉しいっ」

「あははっ、よかったぁ…じゃあこれからは、もっと言えるようにするよ…絵里花、好きだよ。大好き…」

 お互いが声を出して笑うことで、ようやく私たちはまた一歩前に進めた。多分明日からは雰囲気も変わっていて、美咲さんや研究所の連中も多少は評価してくれるだろう。

 それに対する喜びはなかったけれど、絵里花が笑ってくれていることは私の心を今のお互いの心音のように弾ませて、どうしようもなく楽しかった。

 ああ、いいなぁ…こういう時間、すごくいい。もっとこんなふうに過ごしたいな…。

 いや、過ごせばいいんだ。

「ねえ、絵里花…今度さ、お出かけ…ううん、『デート』しようよ」

「…え?」

 絵里花にはまだ言ってなかったけれど、私なりに考えていた『恋人らしくなれるプラン』の一つを勢いに任せて口にする。このタイミングであれば、多分断られないだろう。

 けれども絵里花は時間が止まったようにぽかんとして、涙の止んだ瞳で私を見つめてくる。それは恋人としては当たり前の行為のはず…と考えて、私は気づいた。

 …デートという名目で出かけたこと、なかったかも…。

 一緒に出かけることが当たり前になっていた私たちが初めてとも言えるデートをするのは、ほんの少しだけ先の話──。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?