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第20話「言葉は口にしないと伝わらない」

 円佳に拒絶された。それは、単なる私の被害妄想だ。

 けれども私に負担をかけまいと遠慮を続ける彼女を見ていたら強烈な喪失感が心の中で主張を続け、なんとか日常生活に支障は出さないようにしていたけれど、CMCとしての仕事が捗ったとは言えなかった。

 もちろん円佳は真面目にいろんなアイディアを出して、私もそれに賛同していろいろと試してみる。一緒にゲームをしたり、テストに備えて勉強を教え合ったり、恋人として仲が深まりそうなことはどんなものでも試していた。

 ただ、そうしたことは以前もしていた。つまりさほど特別感があるわけでもなく、さらには私の現在の精神状態もあってか、お互いの関係が前に進んだようには思えない。

 そう、子供の頃から長く一緒に過ごしてきた私たちは…早くも倦怠期に突入した。のかもしれない。

 一緒にいることが苦痛であるはずもないのに、出口の見えない迷路で行き詰まっているような感覚。普通に会話はできていても、そこに恋人関係を前に進めようとする力がこもっているようにも感じない。

 私はこんなにもあの子のことが好きなのに、その気持ちだけでは現状を変えられない。変えようとすれば空回りして、むしろ大切な人を困らせてしまって。

 …こんなことなら恋人じゃなくて、彼女の『使用人』であればよかった。そうすれば私の恋心も「相手は雇い主だから」みたいな言い訳ができて割り切れたかもしれなくて、永遠の片思いが続いていくことを意味するのだろうけど、家事さえすればずっと一緒にいられたのだから。

 だけど円佳は、私を『恋人』だと言ってくれる。それは私にとっての幸福である以上に、もっと先を目指さないといけない『呪縛』だったのかもしれない──。


 *


 ある日の休日、私は円佳に黙って食料品の買い出しへと向かっていた。この行為にやましい部分がないのに一人でこっそりと出てきたのは、ひとえに『彼女に負担をかけたくない』という考えがあったからだ。

 円佳は口を開くと私の負担のことを考えてくれて、つい先日はそれが拒絶のようにも感じたけれど、いざ自分の立場から考えてみると…その気持ちがわかる気がした。

(…私は円佳に楽をしてもらいたい。いつも優しく私を引っ張ってくれる彼女に、負担をかけたくない…)

 円佳はいつもそうだった。私の負担は背負おうとするくせに、自分の負担を背負わせようとはしない。私がなにかをしようとしたら「私も手伝うよ」と言ってくれて、自分がなにかをするときは黙って一人で済ませようとする。

 それは円佳が優しい人であることの証拠に他ならなくて、私が彼女を好きになってしまう要因の一つだった。拒絶されていると感じてしまうのに、そうされることで円佳の優しさが心と体に伝わってきて、私はあとで自分の感情を持て余すとわかっていても…全部をなあなあにして、彼女にされるがままに生きてきた。

 これが私たちの恋人関係の正体で、『円佳は私のためにどんなことでもしようとしてくれるけれど、私は円佳になにもできない』という、明確に言葉にするとひどくいびつで不均衡な間柄でもあった。

 けれど、円佳を恨む気持ちはまったくない。当然だ、あんなにも完璧で優しい人が間違っているだなんて、あり得ないのだから。

(…それなら、せめて。私が用済みだと処分される前に、少しでも喜んでもらえたら)

 完全なあなたから不完全な私が引き離されてしまう前に、私にできること…といっても家事くらいだけど、それだけは完璧にこなすようにして、私と離れたあなたが少しでも『絵里花も役に立っていた』と思ってくれたら。

 今も離れたくないと悲鳴を上げる心だって、いつかは納得してくれるだろう。

「…今日は鶏もも肉が安いわね。円佳は唐揚げが好きだから、醤油だれと塩だれの二種類で味付けをして…」

「あれ? 絵里花ちゃん、今日は一人で買い物してるの?」

「あ、結衣さん…どうも」

 自分の心から聞こえてくる悲鳴を無視して、私はエージェントには欠かせないタンパク源…肉類が置かれたスーパーの売り場に到達する。研究所から支給されているプロテインも飲んではいるけれど、やっぱり食事から供給されるたんぱく質のほうがおいしく幸せになるため、それならばとどのお肉を選ぶべきかと独りごちていたら。

 横からのぞき込むように声をかけてきた結衣さんの声に我に返って、先ほどの独り言も聞かれていたのだろうかと若干恥ずかしくなった。ただ、美咲と違ってこの人ならバカにはしないだろうという信頼がある。

「最近は美咲が家で食べていくことが多いから、食材が減るスピードもちょっと速くなっちゃって…今日は鶏肉が安いし、私もこれにしようかな?」

「…あいつは本当に。結衣さん、美咲には白米と塩でも出しておけば十分ですよ…普段から塩パスタで慣れているんですから」

「あはは、ご飯を食べさせるくらいなら大丈夫だよ。それにさ、絵里花ちゃんならわかってくれると思うけど…食事って二人分作るのもそんなに手間は変わらないし、作ったご飯をおいしいって褒められるのは嬉しいからね」

 美咲、そろそろご飯くらい自分でなんとかするって思っていたのだけど…どうやら金欠はまだ続いているようで、結衣さんの家に押しかけてはご飯を食べているらしい。ちなみに私たちの家にもふらっと寄りつくことがあって、そのときは私たち以上にたくさん食べていくのよね…。

 だから私は今度からは白米と塩だけ出そうかと思ったけれど、優しい結衣さんがそんなことをできるわけもなくて、かくして今日も『人間の鏡』と言うべき発言を何のこともなく口にしていた。

 …円佳もなかなかの女たらしだけど、この人にもそういうところはあるかもしれない。女好きの美咲が恋人として入れ込んでいるのも理解できそうだ。

「…そうですね。円佳も、いつもおいしいって言ってくれて…どれだけ独りよがりな料理を作ったって、ちゃんと全部食べてくれるんです。私が残してもいいって伝えても、笑顔で全部…」

 そんな結衣さんの言葉は、いつも自分と見つめ合う機会をくれる。普段はそれがとてもありがたいのに、今日は惨めな記憶を容赦なく掘り起こして、私は手に持っていた鶏もも肉をかごに入れつつも自嘲気味にそう口にしてしまった。

 あの日、カツサンド地獄とも言うべき惨状になったときですら…円佳は多少の苦言を呈しつつも、最終的にはペロリと食べきってくれた。食後はもちろん「おいしかったよ、絵里花」と伝えてくれて、いいアイディアだと浮かれていた私を悲しませまいとしてくれる。

 それは嬉しいことであると同時に、どこか寂しさもあった。別に叱られたいってわけじゃないし、むしろ叱られたら今以上に落ち込んでいたと思う──私は面倒くさい女だ──けど。

 なんでも自分で背負い込もうとする円佳は私に本音を聞かせてくれていないような気もして、多分それが…寂しいのだろう。円佳は嘘つきじゃないけれど、言わなくてもいいことだと判断した場合、誰よりも寡黙になってしまうのだ。

「美咲もさ、そうなんだよね。私が作ったもの、何でもおいしいおいしいって笑顔でパクパク食べてくれてさ…そういうのを見ているとつい『どうせなんだっておいしいって言うでしょ』なんてかわいげのないことを言っちゃうんだよね、私。大人げないでしょ?」

「…美咲の場合、実際に何でもおいしいって言いそうですけど。あいつ、アーティストのわりには食事に対する感想は『おいしい』以外の表現が欠乏していそうですし」

「あ、あはは、絵里花ちゃんは手厳しいね…まあそうだけどさ、美咲、私にそう言われるといつもこう伝えてくるんだよね」

 結衣さんも私と同じ鶏もも肉をかごに入れながら、苦笑交じりに、だけど本当に楽しそうな声を出しながら会話を続ける。

 結衣さんはいつも私たちと話すときは自然体で、大人っぽいけど気取っていなくて、上から目線じゃなくて友達のように話してくれた。

 それは美咲といるときも同じで、多分二人きりになると『恋人の雰囲気』にはなるんだろうけど、それでも私と円佳みたいにギクシャクとすることは少ないんだろうな…そう思ったらうらやましく感じたけれど、次の言葉で私は思い直す。

 嬉しいはずの結衣さんは、先ほどの私みたいに寂しげにも見えたから。

「『でも私、今は本当のことを言ってます。着飾った言葉じゃなくて、取り繕った言い訳でもなくて、本当においしいって思えて…だから、結衣お姉さんには同じことばっかり言っちゃうんです』ってさ。私ね、美咲が恋人にも言えないようなことがあるのをなんとなくわかってるつもり」

 言葉は軽やかに、でも表情はやっぱり寂しげに。

 言葉も表情も常に一致してしまいそうな私は子供で、やっぱりこの人は大人なのだと、そういう所作からも気づかされてしまった。

 結衣さんは…嬉しいと寂しいの両方を持つことができて、寂しいはできるだけ隠して、嬉しいはできるだけ表に出せる。そんなことの人は、エージェントなんてしている私よりも強く見えた。

「それが仕事に関わるものなのか、それ以外に関わるものなのか、全然わかんないけど…少なくともご飯を食べているときの美咲は正直だってわかるんだ。美咲は『言葉にしないと伝わらない』って知っているからこそ、隠し事を嫌っていて…だから些細なことでも正直になれるのが嬉しいって思える、誠実な人だって信じてるよ…あ、女遊びに関連する秘密だったらとっちめるけどね?」

 結衣さんはそこまで言い切ると、寂しさを隠すようににっこりと笑った。そして次は「豚こま肉も安いな…これは野菜炒めにして食べさせてあげようかな」なんて話しながら豚肉を手に取って、遠足のお弁当を作るような弾む声でかごへ入れた。

 結衣さんが感じている美咲の『隠し事』は、多分女遊びに関することじゃないだろう…いや、それも多少は含まれるかもしれないけど。

 もしも私が円佳の隠し事を察した場合、気が気じゃなくなる。それこそエージェントらしい追跡術を駆使して突き止めて、円佳がほかの女性に心を引かれていたというのなら…その泥棒猫へ【暗殺】すら試みてしまうかもしれない。私は心が狭い女でもあるのだ。

 でも結衣さんは隠し事があるという事実よりも『言葉にできることは何でも正直に伝えること』を大切にしていて、それをしている美咲を信じていた。

 …敵わない。女としても、パートナーとしても、一人の人間としても…この『器量と良識を兼ね備えた先輩』には太刀打ちできそうにない。

 主任が母親代わりだとしたら、この人は…姉代わり、とでも言うべきなのか。

「…結衣さん、ありがとうございます。お礼とかろくにできませんけど、美咲にご飯を用意するのが面倒になった場合、うちに押しつけてください。しばらくは肩代わりできると思いますので」

「私、お礼を言われるようなことはしてないけど…それは心強いね。でも大丈夫だよ、美咲はああ見えて年下には結構気を使っているから。その分私に甘えてくるけどさ、姉貴分だと思って顔を立ててあげてね」

「…そうですね。私は結衣さんのほうがお姉さんだと思ってますけど、あいつも、まあ…先輩みたいなものですから。代わりに女の子をナンパしようとしたらすぐに教えます」

「あ、それは普通に助かる。もしも証拠写真とかあったら一緒にお願いね? 説教しやすくなるから」

 敗北感を感じつつも敬意を持って結衣さんにお礼を伝えたら、やっぱりこの人はアドバイスをしてくれたという事実すら意識していないように、美咲すら気遣う余裕まで見せてきた。

 もうこの人に勝てないのはわかりきっているとしても私だってなにかをしたくて、せめて美咲の悪行を報告する役割くらいはこなそうと思って伝えたら、結衣さんは顔こそ笑顔のままだと声のトーンは幾分か真剣になって、そして証拠提出も求めてきたあたり…やっぱり美咲の女遊びについては思うところがあるらしい。

 …美咲、なんで結衣さんみたいなすごい恋人がいるのに、女遊びにかまけようとするのかしら…。

 その後は奇妙な協力関係を構築した私たちは一緒におすすめの食材を教え合い、お得なセール情報も交換しつつ、無事に円佳のための買い物も終えられた。

(早く帰らないと。円佳にはなにも言ってないし…心配、してくれているかしら)

 スーパーの前で美咲さんと別れ、私はエコバッグを片手に帰路へと着く。その重みは円佳のためだと思えば心地よくすらあったと同時に、今になって黙って出てきたことへの罪悪感、そして優しい彼女への厚かましい期待が浮かんできた。

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