円佳の部屋で片付けと回想を終え、次は私の部屋の片付けを行うことにした。
「絵里花の部屋、片付いているのはもちろんだけど…やっぱり私に比べると生活感があるね。女の子の部屋っていうか」
「まあ、私も一応女だし…というか、あまりキョロキョロしないでよ? その、ちょっとだけ恥ずかしいから」
自慢じゃないけれど、私は片付け…というよりも家事全般が好きだった。小さな頃からおままごとでも人形の世話焼きをしていたように、成長するに従ってほかの人間…円佳のために家事をするのが好きになっていって、自然と家事に関連する技能は上達していったと思う。
だから自室の掃除なんて当たり前で、それこそいつ円佳が来ても恥ずかしくないようにきれいにしていた。それでも…最愛の人がキョロキョロと私のパーソナルスペースを眺めているというのは、自分の内側を観察されているようなくすぐったさがある。
…円佳相手だからこれで済んでいて、もしも美咲あたりが無遠慮に見ていたら怒りちらしていたかもしれない。
「あ、このぬいぐるみ…私が絵里花と初めて出会ったときに抱いていたのだよね? 懐かしいなぁ」
「そんなの覚えているの?…まあ、確かにそうだけど。あなたって記憶力はいいけど周囲への関心が薄いから、些細なことは忘れていると思っていたのに」
「忘れないよ、絵里花のことだし…私、そんなに無関心に見えていた?」
「ご、ごめんなさい、悪口のつもりじゃなかったの…そ、それに、私のこと覚えててくれるのは、嬉しい、から…」
ベッド…それも枕元に置かれているぬいぐるみを見つけたマドカはとても優しい笑顔を浮かべて、ベッド横に膝をつきながらそれを懐かしそうに眺めていた。
以前会話の話題にこそ上がったものの、どんなぬいぐるみなのかそこまで覚えているとは思っていなくて、部屋に入って早々に指摘してくる円佳に対して…すごく、幸せを感じる。
だからつい悪口のようになってしまった返事を慌てて訂正しようとしたら、円佳は包容力を感じさせる声音で「大丈夫、わかってるよ」と口元をパンのようにふわふわと緩めて笑いかけてくれた。
(…やっぱり、私は円佳が大好き。この子は作られた因果だと理解しているし、だから仕事として向き合ってくれているのも大きいのだろうけど、それでも円佳の優しさはそこにある…)
改めて思ってしまう、そんなこと。
円佳は仕事のために私との仲を深めようとしてくれているのだろうけど、それ以上に…優しすぎる。私がいくら足を引っ張っても本気で怒ることはないし、嘘のない言葉と表情で私と一緒がいいとも言ってくれる。
私はそんなこの人が、どうしようもないほど好きだった。底なしと表現してもいいほどの優しさを内包する円佳と一緒にいると、好きにならないなんてあり得ない。この感情は因果によって作られたものじゃなくて、自分の中にたしかに存在している。
(…そして私は、円佳に執着している…もしも私たちの因果が消し去られたとしても、ほかの人間と組まされそうになったとしても、この子とだけは離れたくない)
私の中にある『好き』というのは、間違いなく恋愛感情に起因している。けれど好きの形にもいろいろあって、多分私のはそんなにきれいなものじゃなくて…自分で理解しているように、『執着』と呼ぶべき形なんだろう。
それはどろりとした粘り気があって、黒ずんでいて、一度まとわりつくと簡単には取れないような…私自身も嫌っている、油汚れのような感情だった。
もしもこの形を円佳に見られた場合、私たちの関係はどうなるんだろう?
…多分、いい方向には変わらない気がする。執着というのは、得てしてそういうものだと思う。
(…どうして私は、こんなにも…この子のことが)
私の許可を得てからぬいぐるみを抱き、にこにこと眺めている円佳を視界に収めつつも、私は『執着が生まれた日』を思い出していた。
*
その日は私の苦手な戦闘訓練が行われていて、パートナーである円佳も立ち会っていた。もちろん彼女はその訓練もそつなくこなしていて、多くの研究者が彼女を評価する。
そんな中、私は…どれもよい成績とは言えなかった。
射撃、格闘、拘束…エージェントに必要な訓練の数々をこなそうとしても、体が思うように動いてくれない。それどころか『なんでこんなことをしないといけないのか』なんて子供心ながらに思っていて、別に博愛精神が強かったわけでもないのに、私は戦いに関するすべてで円佳に劣っていた。いや、それ以外の一般的なCMC以下かもしれない。
そんな訓練を終えて戻ってきた私と円佳を眺めながら、研究員の一人が『今からでも別の組み合わせに切り替えるべきでは』という意見を口にした。私はその言葉を聞いてビクッと身を震わせたけれど、それ以上のことはできない。
当時から私は優しい円佳のことを気に入っていて、中等教育を受けるくらいになってからはずいぶんと雰囲気も変わってしまったけれど、物静かになってもいつも私を思いやってくれるこの子のことが…好き、だったのだろう。
だから離れたくない。でも、自分にそれを望める力があるとも思えない。
まだ幼い体に広がる無力感に歯を食いしばっていたら、私の隣に立っていたはずの円佳は…戦闘訓練の際よりも素早い動きで、その研究員へと飛びかかっていったのだ。
『やめろ!! 私から絵里花を奪うなぁぁぁ!!』
エージェントは主に『銃』を使った戦闘をするのだけど、それが使えない場合に備えて徒手で行える近距離格闘術を学ばされる。もちろん円佳はそれらも得意だったけれど、おとなしく聞き分けもよかった彼女が訓練以外で使うことなんてまずなくて、この場にいる誰もが油断していたのだろう。
一瞬で接近された研究員は首を捕まれ、腕もひねり上げられる。私はその突然の豹変と流れるような制圧に呆然と立ち尽くすことしかできなくて、大人であるにもかかわらず中学生相当の円佳に痛めつけられて悲鳴を上げる様子は、もはや別世界のようだった。
ただ理解できていること、それは…円佳が私のために怒ってくれている、その事実だけだった。
『円佳、やめなさい! 心配しなくてもあなたから絵里花は奪わない! あなたたちの絆は決して消えないの!』
そんな円佳を止めに入ってくれたのは、当時はまだ一般の研究者だった清水主任だった。
この人もこれまではいつも穏やかで大きな声なんて出さなかったけれど、その日は血相を変えて円佳を説得するように叫び、後ろから羽交い締めにしようと腕を回す。けれど錯乱状態だった円佳は『離せぇ!! 絵里花、絵里花ぁ!!』と何度も叫びながら暴れて、清水主任も突き飛ばされて怪我をした直後、やっと私の体は動いてくれた。
『やめて、円佳! 私もっ、あなたから離れたくない…だから、もう…泣かないで…』
円佳は泣いていた。顔は鬼の形相と評しても差し支えないほどの怒りが今も浮かんでいたのに、いつも冬の太陽のように柔らかに輝いていた瞳は揺らぎ、ボロボロと涙をこぼしていた。
そして私も泣いた。こんなにも優しくて誰かのために怒れる人が、望まない方法をとってまで私と一緒にいようとしてくれたことに、嬉しさに悲しさを混ぜ込んで涙を流した。
すると円佳はようやく力を抜いてくれて、後ろから私に抱きつかれながら『やだ、やだぁ…えりかがいないの、やだっ…』と泣きながら崩れ落ちて、程なく訪れた警備員に鎮静剤を打たれ、そのままベッドへと運ばれた。
ベッドで円佳が眠っているあいだ、ずっと私はそばにいた。その手を握りながら、周囲の会話なんて一切耳に入れず、ただ眠る円佳の弱々しい呼吸音だけを追い求める。
幸いなことに彼女はすんなりと目を覚ましてくれて、それでも鎮静剤の影響なのか前後の記憶があやふやなようで、私が泣きながら抱きつくとすぐに頭を撫でながら『私、なんでここにいるの…?』と不思議そうに首をかしげていた。
この日、私の中で『円佳への執着』が顔を覗かせた。
あのときの円佳の暴れようは多くの研究員に警戒心を持たせ、それこそ清水主任以外は私たちの担当からは外れようとしたけど。
だけど私は忘れない。あの日、人が変わったように暴れて…私と一緒にいてくれようとしたこの子の姿を。
それは誰もが恐れているのだろうけど、私には誰よりもまっすぐで、愛情深くて、そして慈悲に満ちているように見えた──。
*
「私もこういうぬいぐるみ、いくつか買ってみようかな。ウサギとか好きだし、今度ファンシーショップに行ってみるね」
円佳の言葉に私は再び回想から現実世界へと戻ってきて、ぬいぐるみを抱きながら微笑む彼女に心がほぐされた。円佳と一緒にいるときの私の心は、いつだってゆるゆると溶かされる。
それでもこのぬくもりは安心だけでなく不安も溶け出させて、私の執着と混ざってしまってどうしようもなく汚い色合いへと変化していた。
(…円佳は誰にも渡さない。円佳の隣にいていいのは、私だけなんだから)
円佳の言葉に私は微笑み返しながら、それでも心の色を見られないように「そうね」と最低限の返事だけ返す。
円佳ほど優秀なCMCであれば、私と引き離されたらもっと有能な相棒があてがわれるのだろう。そしてそれを望む研究者はたくさんいるだろうし、そういう話になった場合、多分私たちの意見なんて通らないだろう。
あの日の円佳の変わりように『円佳と絵里花を引き離すのは危険』という意見もあるらしいけど、そんなのはどこまであてになるかわからない。
それなら…私は、変わらないとダメだ。
(もっと円佳と仲良くなって成果を出せば、ずっと一緒にいられる…そ、それに、私も…もっと仲良くなって、それから)
それから、その先。恋人として親密になった結果を想像したら。
「…絵里花? 急に顔を赤くしてどうしたの? もしかして熱でもある?」
「……な、なんでもない。それより、私も…あなたと一緒にいられるように、頑張るから。あなたの足を引っ張るんじゃなくて、私があなたの手を引けるように…頑張るわ」
「? うん、わかった。私ももちろん協力するから、何でも言ってね」
親密になった恋人が何をするか、それを知らないほど勉強不足じゃない。
仲良くなればなるほど距離は近くなって、いろんなところで触れ合って、やがて…『一つ』に、なる。
それは女同士であっても変わらないことを知っていて、頭の中に『一糸まとわぬ円佳』が浮かんだとき、私は全身の血液が顔に集中したのがわかった。
もちろん聡い円佳はそんな変化にも気づいて、私に対して協力を申し出てくれたけれど。
「そ、そんなこと言えないわよ!」
「えっ、なんで?」
何でも言って、その言葉は熱された私の頭には少し早かったみたいで、思考まで見透かされたと勘違いした私は明後日の返事をしてしまった。
もちろん円佳にそんなつもりはなくて、私は謝りつつも自分の決意は曲げないよう、片付けを再開しつつこれからすべきことを必死に脳内でまとめていた。