無事に検査を終えてしばらくは安穏とした日々が続き、私と絵里花は学生としての本分をこなしつつ、ついでに恋人としてなるべく見せつけるようにいちゃつくだけでよかった。絵里花はもちろん恥ずかしがっていたけど。
とはいえ、そんな平和が卒業までずっと続くはずもない。監視の目を強化しても悪人というのは必ずはびこるもので、ときには複数の敵を相手に立ち回らないといけなかった。無論私も絵里花もそうした訓練は受けており、たいした心得もない悪党が相手ならリフレクターガンなしでも制圧はできるだろう。
…訓練で教わったことを実行できるなら、の話だけど。
私はできる。というか、何度もしてきた。私たち学生のエージェントはとくに油断を誘いやすいらしく、通りすがりを装えるなら大抵は瞬時に終わらせていた。
目線はあくまでも絵里花に向けて、表情も恋人のために浮かべる穏やかな笑顔そのもの。けれども手はリフレクターガンをしっかりと握っていて、そっぽを向いていたとしても確実に命中させられる。
これはエージェントとしては当たり前に求められることで、私も難しいとは感じていない。標的を仕留めたときも心に動きが生じていなくて、そういうデータを測定していた研究員たちはいつも褒めていたっけ。
でも…絵里花は、違う。何度でも言うけれど、彼女は優しすぎる。口調こそぶっきらぼうなところがあるし、すぐにムキになったり意地を張ったりもするけど、出会った頃からその心根は優しいままだった。
だけどCMCのエージェントとして育てられた以上、私と同じような成果を求められている。本人もそれができると言っているけど、私は無理をしていると思っていた。
だから今日みたいなことが起こって、そして自分自身を追い詰めてしまうのだろう。
私は…恋人として、どうしてあげればよかったんだろう?
ねえ、絵里花。
*
『こちらアセロラ、バックアップの準備完了。ターゲットは廃工場内にいる三人、突入と同時に無力化をお願いします』
「こちらベイグル、任務了解…私がフロントを担当するから、フロレンスはサポートを」
「…了解」
普段暮らしている街の郊外、そこには自然と人工物が無造作に共存していて、その中には過去の少子化によってうち捨てられた建物も目立っている。
そのうちの一つ、金属類を製造していたと思わしき廃工場…そこに今回のターゲットたちがいた。美咲さんはいつも通り狙撃ができる場所に待機していて、私たちは通信で準備が整ったことを把握する。
「場所が場所だけに一般人になりすますことはできないから、フードは下ろして顔を隠しておこう。相手はどれも『因果律から逃れるための違法な手段を持ちかける詐欺師』、武装している可能性は高くないけど…油断はしないで」
「わかってるわよ」
今回のターゲットの罪状を確認しつつ、私たちはパーカーのフードを下ろしてそのままジッパーをすべて閉じる。すると目元以外は完全に覆うような状態になって、ただ単に正体を隠しやすくなるだけでなく、防弾機能によって身を守ることもできた。
ちなみに、この完全にジッパーを閉じた状態だと『忍者パーカー』なんて呼ばれることもあって、実際に監視カメラからも隠密ができるので言い得て妙だろう。
私と絵里花は身長がさほど違わない──私のほうが3cm高い──ので、この状態だとぱっと見は見分けがつかない。私は絵里花のつり目がちな目をいつも見ているから、すぐにわかるけど。
「…いた。射程距離はギリギリ、一人は物陰に隠れている。私がなるべく二人を仕留めるから、フロレンスは残りが出てきたところをお願い」
「…任せて」
横開きの金属扉の隙間から中を窺うと、金属加工用と思わしき大型の機械が正面に鎮座していた。その後ろに隠れているのが一人、そして手前に二人。まだこちらには気づいていないようで、日本語に時々外国語が混じった会話をしている。
性別はどれも男、そのうち外国語を話していた奴は大柄で…いかにも外から来たという雰囲気があった。護衛なのかそれとも海外に連れて行く運び屋なのかはわからないけれど、これから拘束する相手のことなんてどうでもいい。
私たちは因果律に逆らう人間、それも法に背く手段を用いる存在を許してはならない。警察であればなにかが起こらないと対処はできず、結果として過去の日本では『逃げ得』と言わんばかりに犯罪者たちが喜んでいたけれど、そんな時代はもう終わったのだ。
こうした犯罪者がのさばっていると、絵里花にまで被害が及ぶかもしれない。少なくとも取り逃がしてしまえば絵里花が責任を取らされるかもしれないので、私は彼らの末路なんて一瞬で気にならなくなった。
音もなく工場内に突入、リフレクターガンを構えてトリガーを二度引く。銃口からは青白いリングが放たれ、ターゲットに一瞬で到達する。光の波は敵の体を包み込み、その直後には二人の男が声を出す暇もなく倒れた。
「な、なんだお前ら! くそっ、警察じゃないな!」
物陰に隠れていた敵は声だけ上げ、次の瞬間には…ハンドガンを持ちながら顔を出して、こちらに向かって一発撃ってきた。
この距離なら直撃しても防弾仕様のパーカーは貫けない…けど、痛いのは言うまでもない。私と絵里花は廃材が入れられているであろうコンテナに身を隠し、それに当たったと思わしき銃弾が耳障りな金属音を出した。
「こちらベイグル、敵を二名無力化。残り一名は拳銃を所持、現在応戦中」
『こちらアセロラ、了解です。回収班が到着するまでに仕留めるのが理想ですが、できそうですか?』
「なかなか慎重で物陰から出てこない…!…窓ガラスが割られた、そこから逃走を開始!」
「私がやるわ!」
何発か銃撃があったあと、次いで相手のいる方角からガラスが割れることが響く。それはそこから脱出を試みていると考えてよく、私は報告しつつも飛び出して追撃しようとしたら…絵里花が自ら駆け抜け、窓へと急行する。
若干反応が遅れた私は銃を拘束モードに変更しておき、倒れた二人をナノケーブルで縛っておく。そして私も窓に到達すると、予想通り割られたそこから敵は逃げ出していて…絵里花は窓越しに敵を撃った。
「…っ! 外した!」
「アセロラ! 今すぐ援護を」
私は見逃さなかった。
撃つ瞬間、絵里花の目元は動揺していて、手はわずかに震えて…有効射程距離ギリギリで、外してしまった。
それを確認した私はすぐさま無線で援護を依頼しようとして、その直後には敵が倒れ伏していた。
『こちらアセロラ、目標を無力化しました。まもなくそっちに向かうので、拘束をお願いします』
「…了解」
美咲さんの狙撃は静かに相手を仕留め、そして私は言われたとおり外に出て拘束モードで縛っておいた。無論敵は絶命しておらず、ただ眠っているだけ。
絵里花は…いない。多分、工場内にまだ残っているんだろう。こういうときはすぐに会いに行くべきか、それともそっとしておくべきなのか、一度ケンカに発展してしまった私は臆病風に吹かれて足が凍り付いている。
「お疲れ様です、まもなく回収班が来てくれます…お二人はしっかりしすぎていますからね、私にもたまには仕事をさせてください」
「…すみません、助かりました」
拘束した敵を見下ろしながら無為な時間を過ごしていたら、美咲さんが到着して穏やかな声で私を気遣ってくれる。その顔にもこちらを責める意図はまったくなくて、むしろいつも以上に優しげに微笑んでくれていたのが…私を惨めにした。
美咲さんは象牙色のセーターにテーパードデニム──といってもこちらも防刃防弾が施された街に紛れるための任務服だ──、その上に私たちと同じパーカーを着用していて、狙撃銃である『
標準でサプレッサーが搭載されていて隠密性が高く、内蔵された特殊なスコープは持ち主の動きや風の変化を感知し、自動的な補正まで行っている。そこに美咲さんの腕前が加わることで、1200mまでは確実に当てられるという代物らしい。
「私たちはチームですよ。それぞれができることをして、目的を達成できればそれでいい…そのことを忘れてはいけません。お二人が成功させたのなら私は楽をできますし、失敗した場合は私がフォローします…持ちつ持たれつですから、謝らないでくださいね。もちろん、あの子にも」
「…私、ちょっと迎えに行ってきます」
私はもう、子供じゃない。だけど、大人だと胸を張れるほどでもない。
そういう中途半端な時期にいて、だけど特殊な立場に置かれている…だからこそ、こうしたことで自分の心と居場所が揺らいでしまうのだろう。
ちっぽけな自尊心が傷つけられたことすら見越した美咲さんのフォローはじんわりと私の凍り付いた足を溶かして、ようやくやるべき事を済ませるように体を動かせた。
工場内に戻ると、やっぱり絵里花は窓の前で佇んでいた。まだフードは被ったままであり、目元以外からは感情を読み取れない。それはエージェントとしては正しい状態なのかもしれないけど、今は『円佳と絵里花』として向き合いたくて、私はお互いのジッパーを開いてそのままフードを上げた。
絵里花の表情は、水を失った花のようにしぼんでいた。
「…絵里花」
「…まだ任務中よ。コードネームで呼びなさい」
「ううん、もう大丈夫。ちゃんと終わったから、私たちの家に帰ろう」
今は飲み物を持ち込んでいないから、絵里花の花を元気にはできない。だけど…植物に声をかけるといい影響があるって本で読んだことがあるから、私はそれに望みを託して、美咲さんみたいにできるだけ優しい声で語りかけた。
そして手を差し出してみたけれど、絵里花は左肘を右手でぎゅっと握ったまま、私とは目も合わせてくれない。それはそうしたいからじゃなくて、ただ私に対して申し訳ないからなんだろう。絵里花は…そういう子だ。
「…私、ここにいる意味、あるのかしら」
「あるよ。私は絵里花以外がいるのなんていやだ」
「…あなたは優しすぎて、強すぎる。だから私は足手まといになりたくないのに、いつもこんなことばかり…私は、私、は」
「絵里花」
あなたにとってつらいことは、全部私がやってあげる。だからあなたはずっと私のそばにいて、そして少しでも笑っていて欲しい。
それはあの日と変わらない、確実に私の中にある本音だった。そしてそのまま口にすることで、また絵里花を傷つけてしまうのだろう。
ううん…絵里花は自分が傷ついたなんて思わなくて、まるで自傷行為を重ねるように自分を責め続けて、もしかしたら私のいないところで泣いてしまうかもしれない。
それは…いやだ。私の前であっても泣いて欲しくはないけれど、だけど悲しみを一人で背負い続けて欲しくもなかった。
だから、抱きしめた。
「…私だって失敗したことはある。でも、そのときは絵里花や美咲さんが助けてくれた。私たちは全員でチームなのだから、誰かが欠けたらきっと上手くいかなくなる…そんなのいやだよ」
「だって、私ならいなくても…いないほうが!」
「私のそばにいらない人間なんていない!!」
人がいなくなって久しい工場の中に、私の叫びがこだまする。抱きしめられていた絵里花の体はびくりと震えて、私はその振動を受け取って少しだけ落ち着いた。
そうだ、私のそばには。私にとって、欠かせない人たちばかりだった。
美咲さんはおちゃらけているふりをして、いつも私たちを支えようとしてくれる。
結衣さんは私たちの任務ことは知らなくとも、いつも優しく受け止めてくれていた。
絵里花は…。
「ごめん、大きな声出して…でも、絵里花がいないほうがいいだなんて、私は絶対に認めない。もしも私から絵里花を奪うようなことがあれば、どんな相手とだって戦うよ。それが勝てない相手だったとしても、絶対に抗う…じゃないと、私は『私』じゃいられなくなるから」
私から絵里花を奪える存在…それは多分、研究所だろう。
絵里花が戦闘向きじゃないから、もっと相性のいい相手がいるから、そんな理由で私たちを引き離そうとするかもしれない。
そしてそれに対して強い拒否反応を見せている私自身ですら、研究所によって作られた存在なのかもしれなかった。その事実に対し、思うところはいくらでもある。
でも…主任だって言っていたように、私はここにいる『私』だけ。三浦円佳は、たしかに絵里花を求めていた。
この子にはそばにいて欲しい、それはたとえ因果を奪われても変わらない…そう信じたかった。
「…ごめんなさい、私、いつもこんなことばっかり言って…あなたに甘えてる…」
「いいんだよ、それで。恋人ってさ、きっとそういうことだって思うから…」
ほかに経験がないから、本当はわからないんだけど。
その言葉は、多分こういうときには言うべきじゃない。それがわかってきただけでも、私は絵里花の恋人として成長できたのかもしれなかった。
そして、多分。絵里花も成長している。
「……好きよ、円佳」
照れ屋で意地っ張りな絵里花は私の背中に腕を回し、きゅっとパーカーを掴みながら、静かな工場内ですら聞き取りが難しいような声で…とても素直に、気持ちを伝えてくれた。
「……うん、私も好きだよ」
好きの形、まだわからないけど。
これもなんとか口にせず、絵里花を抱きしめ続けた。
私たちは恋人同士なのだから、お互いが好き合っていて当たり前。
だけどそれは作られたものであって、この好きも作り物だとしたら、私の好きじゃないのかもしれない。
(…パンみたいにこねていたら、いつかはその形もはっきりしてくるのかな)
この好きの形が私にとってしっくりくるような、そして絵里花に喜んでもらえるものになりますように。
そんな気持ちをハグから伝えるため、私たちは回収班が来るまではずっと抱き合っていた。