何度でも言う、日本は民主主義国家だ。それは個人の自由が尊重されているという意味であり、私もこの国を祖国として愛している。
だからこそ、因果律という仕組みの中で生まれた自分という存在を受け入れ、そして日々の任務を躊躇なくこなしている。私が失敗すれば因果によって良い方向に導かれている国家が犠牲になり、そして…絵里花を苦しめることにもつながりかねなかった。
それなら私は、余計なことを考えないようにしよう。任務が発生すれば淡々とこなして、日々の平穏を守ればいい。そうすれば私と絵里花、そして周囲の人たちの平和は保たれて、この国はもっと豊かになる。
そうだ、私は。間違ったことはしていない。これは研究所の人たちも常に念押ししてきた。
だけど、時々…私は、悩んでいるのかもしれない。仕事はこなせたとしても、そのあとに訪れるモヤモヤは濃霧のように私の思考を包んで、自由とはなんなのか、自分のしていることは本当に正しいのか、そんなわかりきったことをもう一人の自分が聞いてくるかのようで。
もしかしたら、そのもう一人の存在は…因果律が書き換えられる前の、私なのかもしれない──。
*
「任務完了、回収班が来るまで待機します」
『こちらアセロラ、了解です。問題があればすぐに報告してください』
歓楽街の路地、そのまた裏の路地にて私と絵里花は任務を達成した。ここも大都会の一部であるとは思えないほどの静寂に包まれており、一応は監視カメラこそあるものの、パーカーを着用した私たちはあくまでも存在しないものとして処理される。
そして目の前で倒れ伏す男もまた、これからは架空の事情によって『作り替えられる』のだろう。
(…今回のターゲットは、わざわざ因果律の相手がいる女性たちにちょっかいを出すクズ。こいつのせいで、何人ものカップルに亀裂が生じた…)
因果律に逆らったとて、今回のように拘束されるかどうかは悪質度によって異なる。たとえば因果の相手とケンカして少しのあいだ距離を置く程度であれば、間違いなく拘束対象にはならないだろう。
しかし、今回はそんな可愛らしいものじゃない。自分の見た目が優れているのをいいことに『因果で決められていない相手だからこそ刺激的で楽しい』といった世迷い言をのたまり、文字通り遊び半分でいろんな女性に火遊びを持ちかけた結果、いくつものカップルに不和が生じたのだ。
もしも因果律がなかった頃の日本であれば、単なる痴情のもつれとして処理されていただろう。現に今も警察に関しては民事不介入として判断し、この男は今ものうのうと女遊びを楽しんでいた。
無論、現在は因果律の障害となり得る行為は厳しく監視され、個人の快楽が優先されるはずもない。この男一人のために複数の理想的な組み合わせが破綻していい理由はなく、私たちが拘束することでまた一つ日本を衰退させる原因を潰せたのだ。
(…こいつも『矯正施設』行きだろうな。それでも治らない場合、洗脳も含めた様々な処置が施される…)
こういったタイプの拘束後については、大体の場合は『矯正施設』に送られていた。
矯正施設は因果律の仕組みに反抗した一般人を収容する施設で、表向きにはその存在は知られていない。ここでは『因果律に従順な模範的国民に生まれ変わるためのプログラム』が強制され、多くの場合、プログラム完了後には因果律には逆らわなくなっていた。
ただ、因果律に逆らう人間には理性的からはほど遠いタイプも多くて、その場合はより効果が高い処置が実行される。その詳しい内容は矯正を担当する人たちしか知らないけれど、今は安全性にも若干の問題がある薬物を使った方法も用いられているようで、こういう男ならそこまでされる可能性もあるだろう。
ちなみに一般向けには『大きな事故に遭って現在は面会謝絶となっている』みたいな通知がされるから、多少心配する人間がいても完璧に統制された情報の前では疑われることもなかった。
(…私には関係ない。私は絵里花との因果を大切なものだって思ってる。だから、絶対に『矯正』されることはない…)
回収班が到着し、役割を交代したところで私と絵里花は路地から歩き去る。この日の絵里花は比較的安定していて、私がターゲットを無力化すると同時にケーブルで捕縛してくれた。
だから悩むことなんてないはずなのに、私はあの男の行く末、そして『矯正』が存在する世の中が正常なのかどうか、そんなことばかり考えてしまう。
(今の日本は、因果律に従っていれば以前と変わらない…いいや、以前よりもいい生活ができる。でも、それを望まない人間、望まなくなるように仕向ける連中もいる…)
きっと自由というのはそういうことで、そんな存在も許されるのこそが正しいのだろうか?
そして自由を許さず取り締まる側の私たちは、もしかしたら。
世界自由連合のような、建前だけは立派なドブネズミなのかもしれなかった──。
「…絵里花、今日はカフェで食べて帰ろうか。ちょっと遅くなったし、気分転換もしたいし」
「ええ、いいわよ。私も今日は足を引っ張らずに済んだから、少しお祝いしたい気分だもの」
「あはは、絵里花が足手まといだなんて思ったことないのに」
私がこんなふうに『普段はどうでもいいと一蹴していること』で悩んでしまうとき、絵里花は決まってそばにいてくれた。いや、普段から一緒にいるんだけど。
私は考えを表に出さないように気をつけているけれど、私のことに関しては誰よりも察してくれる絵里花は、思考の落とし穴にハマってしまうとそれに気づいて手を握ってくれる。だけどそれ以上のことはほとんどしなくて、何があったのかと聞いてくることもない。
いつもは絵里花のほうが悩んでいるし、私がそれを支えるようにしているけれど、彼女だって間違いなく私を支えてくれていた。それも、私が望む方法…『なにも言わずただ寄り添ってくれる』という、誰よりも優しく、そして絵里花にしかできない行動で。
だから絵里花に手を握られた私は自然と笑い返して、ちょっとおしゃれな夕食へと誘うことができた。時刻はもう夜、今から作るのは面倒だ…まあ作るのは絵里花だし、彼女なら何時でも喜んで作ってくれるけど。
それでも今日はちょっとだけ寄り道がしたくなって、私たちは他愛もない話を繰り返しながら行きつけのカフェへと向かった。
*
「おや、この時間に来るのは珍しいですね…どうぞ、お好きな席へ」
「ありがとうございます、店長」
普通のカフェならもう閉店していてもおかしくない時間だけど、Cafe Mooncordeは深夜まで営業をしていた。理由はエージェントが使うことも多いからで、ただ単に任務の話をするだけでなく、私たちのように仕事終わりの憩いの場として利用されるケースも多い。
店長…『高橋』さんは時間に関係なくいつもにこやかで、私たちの協力者をしているとは思えないほど穏やかな男性だった…今日仕留めた下品な男と同じ性別だと思いたくないほどには。
「絵里花、なに食べる?」
「そうね、パニーニのセットにしようかしら…この時間にコーヒーを飲むと眠れなくなるから、ドリンクはハーブティーで」
「じゃあ私はホットサンドのセットで、デカフェコーヒーにしておこうかな」
いつも通りカウンターに座り、私たちはささっとオーダーする。店長は注文を受けてからすぐに作り始め、その踊るように鮮やかな手つきには二人揃って一瞬だけ目を奪われた。
「…もしも卒業したら、カフェとか開くのもいいな…」
「…あれ? 円佳、前はパン屋になりたいって言ってなかった?」
「ああ、うん…そうだけど、自分のお店を持てるならパン屋以外でもいいかなぁって思うことがあるんだよ。とくに、いろいろ考える日は」
店長の動きを眺めていると、私は柄にもなくそんな未来を想像してみる。
小さなカフェを開いて、おいしいコーヒーと軽食を提供して…たくさんの人が和やかに過ごせるような、そんなお店を始めるのも楽しそうだな。
…そうなった場合、絵里花も一緒にいてくれるのかな。
「パン屋の仕事も大変だと思いますが、カフェもなかなか苦労しますよ。黒字を維持するのにも工夫がいりますし、今日みたいに夜遅く訪れる不良学生の受け入れも必要ですから」
「あはは、耳が痛いです。そうですよね、どんなお店だって守るには苦労が伴う…私、まだまだ子供だな」
「そんなことを言える人間が子供って言うのも、なんだかませているように思えるけどね…でもまあ」
料理の手は止めずともしっかりと私たちの会話を聞いていた店長は、嫌みのまったくこもっていない指摘で参加してくる。私もその穏やかな調子にまた心が軽くなっていて、このお店を選んで正解だったと痛感した。
絵里花はほんのりとレモンの香りがする水を飲みつつ、テーブルに置かれた私の手に人差し指をつつっと走らせる。その表情は、私よりも大人びて見えた。
「…もしもあなたがそのときも私を必要としてくれるのなら、お店、手伝ってあげてもいいわよ。だって私は…あなたと、因果でつながっているんだもの。一蓮托生よ」
「絵里花…うん、ありがとう。もしも私が自分のお店を持てた場合、絶対に絵里花も誘うから」
「おやおや、うらやましい…三浦さん、自分のお店を始めるときに大切なことはね」
絵里花の言葉には強い決意が込められていて、私以上にお店のことを大切に思っているような、ちょっぴり気の早い将来の誓いのように聞こえた。
ずっと一緒にいて同じお店で働くというのは、きっとそういうことだろう…そんな思考に行き当たる直前、店長が料理とドリンクを出しつつこれまた楽しそうに笑いながら口を挟む。
「一緒にお店を守ってくれる『生涯の伴侶』を見つけることです。今からそれを見つけられた二人なら、きっと上手くいくでしょう…でも、カフェは勘弁してくださいね。美人夫婦が営むお店なんて、うちの店が太刀打ちできませんので」
「…ははっ。そうですね、私もこのお店は好きだから…それならパン屋になって、うちのパンを使ってもらえるほうが嬉しいですね」
むしろカフェを始めたら私たちの店のほうが苦戦しそうだけど、店長はお世辞でもなく本当にそう考えているようで、バニラアイスも出しながら「ライバルになられては困るので、今のうちに買収しておきますよ」なんてサービスしてくれた。
…うん、やっぱり私たちにとって、このお店は必要だ。それはエージェントとしてだけでなく、円佳と絵里花という人間にとっても…大切な場所なんだ。
自分たちの仕事がそういう場所も守っていると考えられたら、私たちはとても素直に笑顔を浮かべられた。