「絵里花、渡辺さんと楽しそうに話していたよね? もしかして、友達になれた?」
「別に、そんな楽しいってほどじゃ…まあ、その、私としてはそこそこ話せたかもしれないけど…」
科学の授業が終わって教室に戻ってきた直後、私は気になっていたことを素直に尋ねた。
渡辺さんはクラスメイトで目立つようなタイプじゃないけれど、気質は安定していてどんなグループともそこそこ話せるような人だった。一方ですごく仲良しな人がいるような感じでもなく、そういった点も含めて警戒対象にはなり得ない。
つまり…私のこの質問は、まさしく個人的なものだった。
「後ろからたまに見ていたけど、絵里花が私以外と結構話していたのって初めてじゃないかな? だから、そのー…正直に言うと、嬉しくて」
「…え? なんで?」
「絵里花、私以外にも友達を作れたんだなって…あっ、私は友達じゃなくて恋人なんだけど、それでもほかに親しい人ができたのって…やっぱり嬉しいよ」
「ちょ、そんなに喜ばないでよ…あなたのその反応、恋人って言うか母親みたいよ…」
もしも絵里花が警戒対象と交流していた場合、私は自分一人で『処理』することもやむなしとしていた。絵里花だってエージェントだから、その辺とは事前に距離を置いてくれるだろうけど。
そして万が一いじめっ子に絡まれていた場合、私は絵里花の返事を待たずに『始末』していただろう。絵里花は変なところで我慢しがちだから、そういう場合は私が守らないといけないから。
そんな場合ばかり想定していたように、私は──本人には言えたものじゃないけど──絵里花に友達ができることはあまり期待していなくて、近寄ってくる連中に対してはまず警戒するようにしていた。必要なら対象のパーソナルな情報を収集もする。
だけどその上で問題のない生徒と絵里花が交流してくれたのであれば、それは絵里花にとって多分いい影響を与えてくれるだろう。だって本当の彼女は寂しがり屋で、きっと私以外にも友達が欲しかっただろうから。
…絵里花と最低限の知り合いさえいればいいと考える私とは違うのだ。
「ねえ、今日は絵里花の友達ができたお祝いに結衣さんのところに行こうよ。それでケーキを買って、一緒にイートインで食べて帰ろう。あ、美咲さんも誘う?」
「だから、大げさすぎるのよ…渡辺は悪い奴じゃないけど、まだ遊びに行くとかそういう約束はしていないし、友達ってほどじゃ」
「じゃあ『話し相手』ができたお祝いでもいいよ? ふふ、今日はいい日だなぁ…絵里花にいいことがあって、ケーキだって食べられるんだから」
「…私をだしにケーキを食べに行きたいだけじゃないの? ったく、そんなことで喜んでくれるの、あなただけなんだから…」
私たちのあいだで嬉しいことがあった場合、結衣さんのお店でケーキを購入してお祝いするのがお約束となっていた。これはもちろんエージェントとは全くの無関係で、結衣さんと知り合ったことで始まった個人的なものだ。
だからこそ、大切にしたい。この些細な決まり事はきっと私たちの意思で決めたことであって、研究所も関与していないのだから。いや、エージェントの仕事でも使うCafe Mooncordeもいいところではあるけど。
絵里花は珍しくはしゃぐ私に冷ややかな目線を送りつつもまんざらではなさそうで、やっぱり彼女もこの出来事を喜んでいたんだろう。授業を受けているときの絵里花もどこかそわそわとしていて、私と同じように放課後を待ち望んでいるように見えた。
*
「え!? 絵里花ちゃんに友達が!? うわぁ、おめでとう!」
「ありがとうございます! ほら、結衣さんだって喜んでくれたでしょ?」
「私ってどんな目で見られていたのよ!?」
放課後、軽やかな足取りで私たちはパティスリー・ルミエラへ向かう。するといつも通り結衣さんが店番をしていて、私たちを見ると笑顔で迎えてくれた。
どうやら私は一目で気づいてもらえるくらいには浮かれていたようで、事情を説明すると…予想通り、結衣さんも自分のことのように喜んでくれた。
ああ、こういうところに美咲さんは惹かれたんだろうなぁ…なんて思う。結衣さんは落ち着いていて包容力があるけれど、こうした場合はそれこそ私たちと同じ目線で喜んでくれて、心からの祝福をしてくれるのだから。
もちろん絵里花だけは不服そうで、珍しく結衣さんへジトッとした目を向けていた。もちろん結衣さんは余裕たっぷりの微笑みで受け流したけれど。
「絵里花ちゃん、お祝いされたときは素直に喜べばいいんだよ。私たちは君が優しい人だって知っているけれど、それが伝わらないこともあるし、そのことを自分のように悲しんでくれる人もいる…ね、円佳ちゃん?」
「あはは、悲しむっていうのは大げさですけど…でも、絵里花が喜んでいるときは嬉しいって気持ちを共有したいなとは思っています」
「…も、もう…そんなふうに言われると、これ以上突っぱねられないじゃない…」
そうだ、結衣さんの言うとおりだ。
私は絵里花が優しい子だって知っているけれど、でもその優しさは常に心の奥深いところにあって、それは表層的な付き合いが大半を占める人間関係においては伝わらないことのほうが多かった。
そしてそれが悲しいとは思わないにせよ、絵里花が誤解されるというのは私としても避けたい。誤解は余計なトラブルを生みだし、そして彼女を傷つけることだってあるのだから。
…まあ、本当に誰かのせいで傷つきそうになった場合、私が実力行使に出るのだけど。それをするとまた違った迷惑を絵里花にかけるだろうから、ギリギリまでは我慢するつもりだ。
「すみません、遅れました…おや、本当に嬉しそうですね。なにかいいことでもあったですか?」
「美咲、いらっしゃい。今日はね、絵里花ちゃんに友達ができたんだよ」
私たちがケーキ選びを開始してまもなく、美咲さんが待ち合わせ予定時刻から若干遅れて到着した。ボリュームのある髪は所々跳ねていて、多分寝起きでそのまま来たとかそういう感じだろう。それでも美人さを損なっていないあたり、本当にこの人は容姿に関しては一級品どころじゃないと思う。
だからなのか結衣さんもそんなナチュラルスタイルにはとくに突っ込まず、相変わらずの人のいい笑顔で状況を説明してくれた。
「えっ、マジですか? あの絵里花さんに? うう、それは本当に…めでたいです。お姉さんも鼻が高いですよ…」
「だから、あんたらのそのノリはなんなのよ!? 今気づいたけれど、私をからかって楽しんでいるんでしょ!?」
「絵里花、私や結衣さんはそんなことしないよ。こんなふうになっちゃうくらい、絵里花に友達ができたことが嬉しいんだよ?」
「…あの~、円佳さん? なんで私の名前がそこに加わっていないんですか? それだと私だけからかっているようになっちゃうんですが…」
「あんたの場合は自業自得よ! どうせ本当にからかっているくせに」
「あ、バレちゃってましたか…」
美咲さんは結衣さんの説明でこの集まりの理由をすぐに察したらしく、よよよといった仕草で絵里花を祝う。もちろんそのわざとらしい態度に絵里花はわかりやすく憤慨して、私と結衣さんは顔を見合わせて笑ってしまった。
(ああ、楽しいなぁ…ずっとこんな時間が続けばいいのに)
研究所曰く、私は冷静で感情の起伏が少ない優秀なエージェントらしい。たしかにそういうのを表にする機会は少ないという自覚もあるけれど、そんなのは研究所の連中の大半が仕事に都合のいい部分しか見ていなかっただけだ。
私にだって喜怒哀楽は…ある。そしてその中でも喜びや楽しみといった感情をとくに大切にしたいという当たり前の価値観もあって、今のこの瞬間、自然に笑っている私こそが本来の自分だという自覚もあった。
CMCである以上、私と絵里花はずっと一緒にいて役割をこなさないといけないけれど。でもエージェントとしての仕事は荒事さえなければ0でもいいわけで、そんな世界になればいいと心から思う。
そうすれば…絵里花は、苦しみから解放されるだろうから。
「さて、今日は絵里花さんのぼっち脱出記念日ですから…売れない作曲家の私にケーキを奢ってくれるんですよね?」
「なんでよ!? 私のお祝いなんだから、あんたが奢るところでしょ!?」
「この前のノーブルゲストでお金を使い切っちゃって…今日は一番お手頃なミニクリームコロネでいいですよ」
「はーい、年下の学生にたかるのはやめようねー? 美咲の分は私が立て替えてツケにしといてあげるから、次のデートまでに返してくれればいいよ」
「えっ、おごりじゃないんですか…せっかく一食分浮くと思ってましたのに…」
「美咲さん、食費がギリギリだからってお菓子を食事にカウントするのやめてください…そんな生活していると、いつかは…っ」
そのとき、私たち…エージェント用の携帯端末が独自の振動パターンで震える。よほどのことがない限りはすぐに気づけるような、『仕事』の知らせが届いたときの通知。
もちろん絵里花も美咲さんも気づいていて、二人は私と同じように一瞬だけ表情がこわばる。けれども公共の場では目立たないように行動するよう訓練されているから、すぐに元の調子に戻った。
「…すみません、結衣お姉さん。この前の仕事のクライアントが緊急の修正を依頼してきたので、今日はおいとましますね」
「…そっか、残念です。じゃあみんなでケーキを食べるのは別の日にして、私たちも持ち帰りでお願いしよっか?」
「…ええ、そうね。結衣さん、これとこれ、包んでもらえますか?」
表情はにこやかに、だけど残念そうに。声は震わせず、なめらかに会話を紡ぐ。
美咲さんは端末を持ち上げて通知を確認し、架空の仕事をでっち上げてお店を後にする。ドアを開く直前に振り向いて結衣さんに笑顔で手を振る姿は、まだエージェントではなく愛する恋人との別れを惜しむ一人の女性だった。
「…そっか、残念! 円佳ちゃん、絵里花ちゃん、今度は四人でお祝いしようね」
「はい、もちろん。結衣さん、また来ますね」
「騒いでしまってすみません…結衣さん、ありがとうございました」
結衣さんは察しのいい女性だ。多分、私たちの変化…一瞬だけのこわばりにも気づいていただろう。こういうことは、初めてじゃなかったのだから。
だけどこれまで一度たりとも追求はしてこなくて、空気の変化に不愉快そうにしたこともない。結衣さんは聡明である以上に…優しすぎる、自分本位になれない人だった。
だから私たちは若干の申し訳なさを洗い流すように会計を済ませ、丁重にケーキ入りの箱を受け取る。結衣さんはそれを渡すときもにこやかなままで、まるでエージェントを送り出す母親のように見えてしまって。
罪悪感を緩和してくれたこの人もまた、私たちにとっては欠かせない協力者であるように思えた。