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第9話「絵里花と結衣」

 死にたくなる、とはこういうことなのだろう。


『……好きよ、円佳』


 先日、任務に失敗して佇んでいた無能な私。いや、正確には円佳と美咲のおかげで任務自体は成功して、ターゲットはすべて捕縛できた。

 けれども私は最後の一人を取り逃がしそうになってしまい、文字通りあの日もエージェントとしての存在価値がなかったのだ。円佳をサポートするどころか彼女の負担を増やしてしまい、それこそいつ見放されてもおかしくないのに。

 円佳は、本気で怒ってくれた。それは私の無能さを叱責するのではなくて、うじうじと「私なんかいないほうがいい」と極めて適切な自己評価を下した結果、普段は感情の揺らぎすらほとんど見せない円佳は全力でそれを否定して。

 ただひたすらに甘ったれていた私は、果たすべき義務すら怠っている自分を忘れたかのように、円佳への愛を絞り出してしまった。

「……死にたいわ……」

 そんな醜い告白に対して、円佳は夕日の沈んだ海のような穏やかな声で…同じ気持ちだと言ってくれた。それは私にとっては、この上なく嬉しい言葉のはずなのに。

 休日、自室のベッドの上で寝転んでいた私の口から出てきたのは、自己嫌悪に耐えかねた人間の嘆きだった。

 円佳は…本当に、どこまでも優しい。彼女が私を馬鹿にしたことなんか一度たりともなくて、むしろ私を馬鹿にする人間がいたら自分のこと以上に怒ってくれた。彼女と親しくない人間はあまりの落ち着きぶりに『感情とかなさそう』なんて感じることもあるだろうけど、そんなのは大間違いだった。

 円佳はいつも誰かのことを思いやっていて、他人のために行動できる人。そして因果律によって恋人になった私に対してはとくに気遣ってくれることが多くて、私はそんな彼女を支えたかったのに。

 実際はいつも支えられて、いつも甘えてしまって、迷惑ばかりかけている。それでもいやな顔一つしないあの人が、私はとっても。

「……好き、大好き……円佳……」

 きっと円佳は因果律が操作されたからこそ私の恋人になってくれて、そして全力で守ろうとしてくれているのだろう。それはとても幸せなことである以上に、私にとっては申し訳なかった。

 円佳は、多分…私のことを好きであっても、私の『好き』とはきっと違う。円佳にとっての好きは、子供の頃と同じような、どこまでも純粋な好意なのだろう。

 私の好き、それは…間違いなく恋人に向けるもので、はっきり言うのなら『結婚したい』という願望に近いのだろう。こうした気持ちは研究所で過ごしていた頃からあったけど、今となってはさらに大きくなってしまい、そのくせ彼女のそばにいるために必要なことすらこなせない結果、私の自己嫌悪をどこまでも加速させていた。

 つらい。私は円佳がこんなにも好きなのに、彼女の足を引っ張っているのが。

 そして…彼女と自分の『好き』が一致しなくなってしまった現状が、つらかった。

(…せめて、もうちょっとあの子のために役立てたなら…もっと仲良くなれるのかしら)

 私と円佳は恋人である以前からずっと一緒に過ごしていた…幼なじみとも言える。それでいて大きなケンカもなく、少なくとも私は一度たりとも彼女から離れたいとは思ってなくて、そういう意味だとすでに仲良しと言えなくもない。そうであったら嬉しい。

 でも…私にとっての『仲良し』というのは、そういうのともまた違う。ではそれはどんなものなのかと自問してみたけれど、明確な答えは出せなかった。

 円佳も「恋人関係ってさ、わからないことが多いよね」なんて話すことがあったけれど、それは私も同じだ。だけど私は、今の自分たちの関係が求めている仲良しとは異なる気がしていて、そこに先日のことも重なってうだうだと悩んでいる。

 …よくよく考えると円佳は無駄なことが嫌いだから、私がこうして悩んでいる様子を見たら今度こそ愛想を尽かされるんじゃないかしら…。

 そう思ったらようやく上半身を起こし、せっかくの休日なのだから普段は行き届かない場所の掃除でもしよう…なんて思っていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。

(…円佳はまだ帰ってこないから、宅配便かしら)

 円佳は昼食後に少し買い物へ出ると言っていたし、帰る前にはいつも連絡をくれていたから、おそらくは来客だろう。さすがに一人ではお留守番もできないほどの子供じゃないので、私はのろのろと起き上がってインターホンのあるリビングへと向かう。

 そしてインターホンの画面に映っていた人、それは。


 *


「絵里花ちゃん、休日なのにいきなりごめんね。ちょっと近くに来たから、少し顔を見たくて」

「いえ、気にしないでください…美咲だったらご飯をたかりに来たと思って居留守を使いますけど、結衣さんならいつでも歓迎します」

「あはは、最近の美咲は私の家で食べていってるから、二人のところには遠慮して来ないんじゃないかな。美咲、ああ見えて二人にはちゃんと気を使っているから」

「…結衣さんにも気を使って欲しいのだけど」

 私たちの正体を知る人間はごく限られていて、そうなると危害を加えるために訪れる存在はほとんどいない。それでもエージェントとして警戒するのは当たり前のことで、インターホンを押すまではリフレクターガンを手に持っていたけれど…さすがに結衣さんの顔を見ては安心するしかなかった。

 結衣さん…この人は研究所関連以外の大人としては貴重な、私みたいな人間ですら敬意を払えるほどの人格者だった。実は他人に対する関心が薄い円佳ですら、結衣さんのことは姉のように慕っている。

 …美咲、なんで結衣さんと付き合えたのかしら…。

 けれども結衣さんは美咲に甘えられることすら許容しているように、私の苦虫を噛み潰したような指摘にも「ま、私は恋人だしね。美咲もあれで結構苦労してるみたいだし、甘えられる相手は必要でしょ?」なんて笑顔で流していた。

 …恋人、か。

「これ、私が作ったケーキなんだけど…よかったら一緒に食べない? 仕事じゃなくてプライベートで作ったものだけど、味はちゃんと保証するよ」

「え、いいんですか? 今、あんまりいいお茶はないんですけど…」

「いいよいいよ、こっちはお邪魔させてもらっているんだから。お店に出すための試作品も兼ねているし、感想を聞かせてもらえると嬉しいな」

「…ありがとうございます。じゃあ、今お茶の準備をしますから」

 結衣さんはパティシエで、趣味もお菓子作り。どれくらい好きかというと、美咲曰く「結衣お姉さんはワーカーホリックです…」なんて話すほどお菓子を作る頻度が多いらしく、休みですら作っているらしい。

 もちろん趣味であろうと仕事であろうと常においしいお菓子を作るのがこの人の腕前で、試作品ということは多少冒険した内容かも知れないけれど、おいしさという面では一切の不安がなかった。

 だから私も上質なティータイムになることが確定したらつい顔がほころんでしまって、せめて少しでもおいしいお茶を入れるべくキッチンに向かう…やっぱり、結衣さんが来るのならちょっといいお茶っ葉が欲しかったわね…。

 けれども泣き言は言ってられないので、せめて少しでもおいしくなるようティーカップも熱湯で温めておく。円佳は「カップまで温めるの?」なんて心底不思議がっていたけれど、こういう小さな一手間がティータイムを向上させるのよね。

「お待たせしました」

「ありがとう…うん、いい香り。それじゃあこれ、一緒に食べようか」

「はい…あ、これ、クリームパイ…ですよね?」

「うん。ちょっとシンプルすぎた?」

「いえ、私ホイップもカスタードも好きなので…いただきます」

 結衣さんが持ち込んだ保冷バッグを開くと、そこから出てきたのはクリームパイだった。真っ白なホイップクリーム、鮮やかなカスタードクリーム、見るからにしっかりとした質感のパイ生地…どれも本人が言うようにシンプルで、試作品というわりには冒険していない気がする。

 けれどもどちらのクリームも好きな私は食べる前から唾液がしっかりと分泌されていて、この人が作ったということもあり、一切の不安なく一口サイズに切って口に入れた。

「!…おいしい。濃厚だけど優しくて、甘さがちょうどいい…」

「本当? よかった、今回はGI値の低い砂糖で作ってみたんだけど、気に入ってもらえてよかったよ」

「ああ、そうなんですね…血糖値が上がりにくいってことは、健康志向のお菓子ですか?」

「うん、その通り。お菓子はみんなを笑顔にするけど、食べ過ぎは体の負担になっちゃうからね…こういうちょっとした工夫がもっといろんな人に食べもらうことにつながるから」

「…すごいですね、結衣さんは」

 クリーム好きにとってはたまらないそのお菓子は、本当においしいとしか言いようがなかった。上部のホイップクリームは濃厚なミルクの風味が、その下のカスタードはたまごの風味がしっかりと感じられて、プレーンなパイ生地は歯ごたえが楽しい。

 その一方で血糖値が上がりにくくなるように工夫されているけれど、甘みを犠牲にしているわけでもない…見た目はシンプルなのに中身は詰まっている、実にこの人らしい逸品だった。

 …甘えることだけは一人前で、中身がスカスカの私とは真逆ね…。

「絵里花ちゃん、やっぱり円佳ちゃんがいないと寂しい?」

「んぐっ…そ、そんなことないです! 別に私は、円佳がいなくたって…いなく、たって…」

 内心で自虐しつつもクリームパイの甘さに舌鼓を打っていたら、突如とした不意打ちに私は一瞬だけ喉を詰まらせそうになった。結衣さん、エージェントでもないのに攻撃のタイミングが的確ね…。

 とはいえ、さすがに美咲相手でもないので睨んで抗議するわけにもいかなかったから、優しく笑うこの人に対してなるべく表情を変えずに返事をしようとしたら。

 どういうわけか私の口は否定の言葉を上手く紡げなくて、それを吐き出そうとしたら口の中からクリームの甘みが消えた気がした。

「…あはは、絵里花ちゃんって本当に円佳ちゃんが好きなんだね」

「だっ、だから、そんなんじゃ…あっいや、円佳とは恋人同士ですけど、結衣さんが言うほどじゃなくて…」

 私はこういうことを言われてしまった場合、どうしても口では否定してしまいそうになる。それは『恥ずかしいから』という私らしい身勝手な理由があって、こういうところもエージェントには向いていないのだとわかっていた。

 円佳といると幸せで、恋人でいられることも嬉しいのに。

 なのに私は自分のエゴで恥ずかしがって、彼女の足を引っ張って…なにを、やってるんだろう。

「絵里花ちゃんは照れ屋で初々しいね…実は私と美咲も、付き合い始めはそんな感じだったんだけど」

「…そう、なんですか?」

 私にとっての結衣さんはいつも落ち着いていて、面倒見がよくて、常に私と円佳を見守ってくれていた。今みたいに相談に乗ってくれることもあって、つい話してしまいたくなる雰囲気があって。

 そんな人にも私のような頃があったのか、そうした疑問は無限に続く自虐すら中断させた。

「美咲、女の子には見境なく声をかけてる感じだけど…ああ見えて、一線を越えるのにはそこそこ悩むんだよね。積極的なくせに一歩が重くて、口が軽いくせに秘密を抱えていて、面倒が嫌いなくせに責任を取りたがる…ほんと、どうしてあんな子になったんだか」

「…秘密…やっぱり、その、『恋人にも言えないこと』がある人間って、信頼できませんか?」

「難しい質問だね…私も立派な大人ってほどじゃないから、今もいろいろ悩みながら向き合っている最中だけど…でも、美咲は信頼できる人だよ。だって」

 美咲が結衣さんに言えないこと、それはとても重く口にできたものではなかった。だからその秘密を隠す美咲が自分勝手だとは思えないけれど、私のは違う。

 私が恋人…円佳に言えないこと、それはこうしたグチグチとした悩みばかり。けれど聡い円佳はどこかで気づいているかもしれないし、それでも私が口にしない限りは無理に踏み込んでこない。

 もしかしたら私への興味が薄いだけかもしれないけれど、それでも彼女は優しい人だと信じていた。だから、上手く言えない。自分の悩みも、本当の気持ちも、求めている関係も。

 そんなものを抱えている人間が信頼を得ようだなんて、最初から傲慢だった…なんて思っていたら。

 結衣さんは屈託なく笑って、私の悩みを吹き飛ばすように断言していた。

「恋人にすら言えないことなんて、きっと誰にでもあるからね。小さなことから大きなことまで、種類は数え切れないほどあるだろうけど…私にだってあるから、美咲のことばかり責められないよ。あ、もちろん浮気をしたらお仕置きするけどね?」

「…言えないことは、誰にでもある…」

 そんなのは当たり前だ。人間は誰しも建て前と本音があって、それを許容しているからこそ社会が成り立っていて。

 個人レベルで見ればもっとたくさんの言えないことがちりばめられていて、私ですらそんなのは知っていたはずなのに…今の結衣さんの言葉は、まるで天啓のように脳天へと落ちてきた。

(…円佳も、たまに思い悩んでいるときがある。あなたも、私に言えないことがあるの…?)

 円佳は口数が多いほうじゃないから、黙って佇んでいることもそれなりにある。彼女ほど容姿が整っているとその様子ですら絵になるけれど、でもその瞳は思考の渦の中で泳いでいることも多くて、私が声をかけても「なんでもないよ」ってすぐに微笑んでくれるけれど、そのときは『恋人にも言えないこと』を考えているのかもしれない。

 それは…心の狭い私にとって、寂しいことだけど。

 私も円佳も同じ、そう思ったら…それ以上に、心が軽くなってくれた。

「…それにさ、絵里花ちゃんと円佳ちゃんには因果だってある。二人には目に見える絆だってあるんだから、たまにはそういうわかりやすいのを信じて仲良く過ごしてみなよ。私みたいな『因果のない人間』が言っても説得力ないかもだけど、一緒にいられる理由がたくさんあるのなら…それを全部使っちゃえばいいんだよ」

「結衣さん…」

 私と円佳、美咲と結衣さんの四人で集まったとき…そのタイミングでは、なるべく因果関連の話はしていなかった。理由は単純で、結衣さんには一切の因果がないからだ。

 結衣さんはどんなことでも冷静に受け止めて、私たちを包み込んでくれるけど…因果に関する話題が出てきたときは、やっぱり寂しいような、悲しいような…届かないものに手を伸ばそうとするような、私とは違う必死さを無理に押し殺しているように見えた。

 そんな結衣さんが私のためにそう言ってくれたのなら、私だってちゃんと向き合わないといけない。

 恥ずかしいだなんて…知ったことか。

「円佳ちゃんはね、絵里花ちゃんのことがきっと特別だよ。絵里花ちゃんを見るときの目は優しいし、絵里花ちゃんのことを話すときは楽しげだし、付き合い始めてそんなに経っていないとは思えないくらいだから…心配ないよ」

「…ありがとうございます。多分、私も円佳も相手への気持ちにわからない部分があるんだって思います。それは因果があったって、大きなハードルになるんでしょうけど」

 ぱくり、もう一度クリームパイを口に含む。優しい結衣さんが作ったお菓子は、この人と同じくらい優しい甘さを口内に残してくれた。

「いつか勇気を出せたら、もっといろんなことを円佳に伝えて…恥ずかしがらずに、あの子と向き合います。私は…円佳のこと、す、す、すっ…す、き、だから…」

「…ふふふっ、そっか。円佳ちゃんは優しくて頭のいい子だから、きっと伝わるって信じてる」

 そうだ、私だって勇気を出せば…もっと仲良くなれるんだ。結衣さんだって背中を押してくれた。

 …なのに、一人きりじゃない限りは『好き』という不変の事実も上手く口にできなくて。私の前途は多難らしい。

 少なくとも…円佳が戻ってきたら、あの日の『好き』という言葉については謝らないといけない。

(…だって、あのタイミングだと。『円佳なら許してくれるってわかっていたから』なんて形で伝わりそうだもの…)

 任務も恋人関係の構築も下手くそな私だけど、それだけは違うって断言できた。

 私が円佳を好きな理由、それは『都合がいいから』なんていう薄汚いものじゃない。

 私が円佳に好きだと言える理由、それは──。


「ただいまー…あれ? 絵里花、お客さんが来てるの?」


 その声が聞こえた瞬間、私の思考はすべてが中断されて。

 犬がご主人様の帰宅を迎えるかのごとき勢いで椅子から立って、玄関へと駆け出した。結衣さんはそれを生暖かく見守ってくれていた。


「おかえりなさい、円佳。結衣さんが来てるわよ」

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