「円佳、そろそろ起きなさい。朝ご飯が冷めるし、遅刻するわよ」
優しい声音と同時にカーテンが開かれる小気味いい音が鼓膜に飛び込んできて、私は朝日に顔をしかめつつもゆっくりと上半身を起こした。
いつだって日が昇るのは心地いい…けれど、それ以上にもっと眠っていたいと思うあたり、私は『研究所』から出てきて以降はなかなかにだらしなくなったのかもしれない。
それこそ、私を起こしてくれるのがこの声ではなく、携帯端末の機械音だったのなら…そのままスヌーズごとオフにして、二度寝にしゃれ込んでいたかもしれない。
「ふわぁ…おはよう、絵里花」
目を軽くこすり、私を起こしてくれた少女を見る。
ハニーブロンドのロングヘアを二つに結い、それをロープ結びにしていた。つり目がちな瞳はやや暗めの赤色で、それが朝日に照らされると早くも夕焼けが訪れたみたいにきれいだった。
全体的な雰囲気は勝ち気に見えるけれど、私に向ける表情は人工物のない高原地帯のように穏やかで、じっくり眺めているとまた眠ってしまいそう。そんなことをすれば怒られるから、私はすごすごとベッドから降りたけれど。
「はいはい、おはよう。まだ眠いなら顔を洗って、それからご飯を食べなさい。髪のセットは食後にしてあげるわ」
「うん、いつもありがとう」
私と違って早起きな彼女はすでに制服に着替えていて、その上にエプロンを着用している。そういえばクラスの男子が「制服の上にエプロンを着けている子っていいよな」なんて話していたけれど、うん。
絵里花は元々エプロンが似合うくらいには家事が得意だけど、制服の上だと…なんとなく、男子たちの気持ちがわかるような気がした。
でもそんなことを言ってしまうとまた女扱いされなさそうなので、余計なことは言わずに洗面所で顔を洗い、食堂も兼ねたリビングに向かう。
テーブルの上にはチーズを載せた食パン、ハムエッグ、シーザーサラダ、コンソメスープが置かれていて、寝起きであるにもかかわらず胃は活発に動き始めた。
「いただきます…うん、おいしい。絵里花、また腕を上げた?」
「別に、これくらい普通よ…でも、おいしいって言ってくれるのは、まあ…嬉しいわ」
食事を開始してまもなく、絵里花はコーヒーとヨーグルトをテーブルに置きつつ私の言葉にはにかむ。この子はそういう褒め言葉をあまり素直に受け取れないのだけど、私の前だと今みたいに笑ってくれることが多くて、こういう関係は今も昔も変わらない。
絵里花も一緒に食べ始め、その様子を眺めていると…やっぱり、無性に嬉しくなった。
(…本当なら、もっと変わらないといけないのだろうけど。私はこのままでもいいかな)
私と絵里花の関係、それは間違いなく『特別』だった。昔から変わらない、そしてこれからはもっと特別にならないといけない、そんな関係。
でも私は昔のままでも別にいいと感じていて、ずっと一緒にいられるのなら『任務』の結果だってどちらでもいいと思う。
(けど、それじゃあダメなんだよな…でも、どうするべきか)
絵里花とずっと一緒にいること、それは『一緒に任務を達成し続けること』を求められる。その事実はずいぶんと前から理解していたのに、こうして穏やかに過ごせる時間があるとどうしても忘れそうに…もとい、忘れたくなった。
(絵里花は、どうなんだろう)
静かに、そして上品に、でも気取った様子もなく食事を続ける絵里花を観察する。
絵里花は、とても可愛らしい女の子だ。成長することできれいになったけど、可愛らしさはまったく損なわれていなくて、私がいなければ今頃は男女問わずに声をかけられていただろう。
私と絵里花に『因果』がある以上は遅かれ早かれ出会っていたのだろうけど、私たちの場合はその出会いがあまりにも早くて、絵里花は狭い世界で私と生きることを余儀なくされた。
(…せめて、少しでも私が幸せにしないとな)
パンをかじる。焼きたての歯ごたえにとろけたチーズの感触が重なって、単純な私の頭は幸福感を訴える。
そしてこの幸せが少しでも絵里花に伝わって、同じように心をほころばせてくれるといいな。
そんなことを考えつつ、私は殊勝な誓いを立てていた。
*
「それじゃあ行きましょうか。身だしなみは大丈夫?」
「うん、きちんとチェックした」
食後は約束通り絵里花が髪のセットをしてくれて、この日はとくに結ばないストレートロングにした。その後はきちんと姿見の前に立ち、制服に着替えた自分の容姿を確認する。
小豆色の髪。
絵里花よりも若干明るく丸みを帯びた赤い瞳。
制服のジャケットは深い紺色、ボタンは銀色でメタリックな輝きがワンポイントになっていた。
シャツはシンプルなホワイトで着心地もよく、ワインレッドのリボンもきっちりと締めておく。
膝丈スカートは紺と灰色のシックなチェック模様で、動きやすさも問題なし。
「よし、今日も美人ね。これでねぼすけが直れば言うことないんだけど」
「そればっかりはね…あと美人ってほどじゃないと思うけど」
「それ、外で絶対に言っちゃダメよ。謙遜だとしても、女の敵を増やすだけだから」
絵里花はいつも私のことを美人と褒めてくれるけど、いくら何でも大げさすぎると思う。むしろ私としては絵里花のほうがきれいだと感じているのに、この点については徹底的に譲歩してくれなかった。
…まあ、絵里花に褒められるのであれば、身だしなみに気をつけるくらいどうってことないけど。
「…あの、円佳」
「ん?…ああ、はい。おいで」
あとはスクールバッグを持てば家を出るだけ、その段階になって…絵里花はジャケットの袖を握ってきて、チラリと上目遣いを向けてきた。
絵里花以外がするとあざとい仕草だけど、彼女がするとどうしようもなく可愛く見えるのが不思議だ…いや、不思議ってほどでもないか。
だって。
「私、絵里花の恋人だからね。甘えたいときは遠慮せず、何でも言ってくれていいから」
「…あ、ありがとう…」
大切な『恋人』が可愛く見えるのなんて、子猫が愛らしいのと同じくらい当たり前のことなのだから。
だから私は微笑んで絵里花の体を抱き寄せ、彼女もまた腕を背中に回して抱きつく。
いつも絵里花が清潔に保ってくれている制服からは洗濯石けんの香りがして、だけど絵里花の甘く優しい匂いのほうがもっと強くて、私も恍惚としかけた。
絵里花は少しの間は私の肩の辺りに顔を埋めて、寝息のように静かな呼吸を続けていた。
*
私たちの通う学校、『聖央高等学校』は偏差値こそ高いものの自由でおおらかな校風であり、それは今も校舎に向かう生徒たちの制服の着こなしからアピールされていた。よほどのひどい改造でもしない限り、髪型や小物での個性を出すことも許されている。
「絵里花、そろそろ…いい?」
「…ん」
校門が見えてきた頃、私はピタリと隣を歩く絵里花に問いかける。すると彼女はチラリと私を見たらその手を差し出してきて、私はするっと自然に自分の手を重ねた。
そう、聖央高等学校はおおらかだ。何せ、こうして恋人アピールをすることも…女同士であることにも、特に問題はないのだから。
まあ、『因果律』によって定められた相手が常に異性とは限らないのだから、今さらではあるけれど。
ともかく私たちはとくにそういうアピールが重要なので、少なくとも学内においては積極的な──ただし良識の範囲内で──愛情表現が必要だった。
「おはよう、三浦さんに辺見さん…あはは、ほんといっつも仲良しだね?」
「おはようございます、先輩…絵里花は大切な恋人ですから」
「…お、おはよう、ございます…」
校門の前には風紀委員の腕章をつけた女子の先輩がいて、私と絵里花を見つけると挨拶をしつつ微笑ましそうに笑っていた。
私もそれを笑顔で受け止め、絵里花は…先輩からは目を逸らし、それでもなんとか手はつないだまま、顔を赤くしてギリギリで挨拶を返す。
(…ほんと、絵里花って照れ屋だな…そんなところも可愛いと思うけど)
私たちが手をつなぐのなんてもはや当たり前のことで、日常生活にもすっかり溶け込んでいた。絵里花も二人きりのときはここまで照れないのだけど、人目がある場所だと今でもこのように恥じらっていて、離すことはなくとも見られるのをよしとはしていない。
…本音を言うと、私も見せびらかしたいわけじゃない。それでも任務の達成には欠かせないことであるし、相手が絵里花なら間違いなくいやじゃないし、一緒にいるためであるのなら躊躇はなかった。
だから先輩への挨拶を済ませて校門を抜けたら、小さな声で絵里花に話しかける。
「絵里花、恥ずかしいのはわかるけど…もうちょっとだけ嬉しそうっていうか、幸せそうにして欲しいかも」
「む、無茶言わないで…だって、いろんな人が、見てるし」
「見せないといけないからね。ほら、あんなふうに」
校門を抜けた先、校舎へ続く道の途中にでかでかと設置された電子掲示板を見る。
『先日、インフルエンサーのチョッキーナさんが雑貨屋を営む女性と結婚されました。この二人は強い因果で結ばれていたことから出会った直後には熱烈な交際がスタートし、それから1年ほどで入籍を決めました。チョッキーナさんの動画チャンネルでも仲睦まじいデートの様子が何度も投稿され、同性同士であっても因果律に従えば幸せになれるという好例となりました』
掲示板では定期的に重要なニュースが放送されていて、今回は『インフルエンサーのような有名人が因果律に従った出会いを大切にすることで幸せになった』という、実にポジティブな内容だった。
そのインフルエンサーと結婚相手の女性が盛大に結婚式を挙げている映像も放送されて、足を止めて見とれている生徒も多い。そんな生徒の中に手をつなぐ私たちも混じったことで「やっぱり因果で結ばれた相手って違うんだね!」なんて周囲から笑顔で突っつかれた。もちろん絵里花は顔を真っ赤にしている。
その放送が終わると軽快な音楽と一緒に『つながりの力。因果律が守る、あなたと大切な人の未来』などのプロパガンダ…もといキャッチコピーが流れて、これでもかと学生たちに因果律へ従うことを推奨していた。
「…わかってるわよ。でも、私は…こういうのは、二人きりで」
「うん、私も同じ気持ち。だけどね」
一度手を離し、今度は指を絡めるように、いわゆる『恋人つなぎ』でつなぎ直す。絵里花はより一層顔を赤くしたけれど、完全にされるがままだった。
それは『つなぐこと自体は嬉しい』という彼女の本音を遠巻きに伝えてくれて、私も嬉しくなる。絵里花と一緒にいると、表情が変化しにくいと言われる私でも…多分、自然に笑えていた。
「これも一緒にいるために必要だから。無理をしろなんて言えないけど、私たちにできることを頑張ろうね」
「…う、ん。私も、頑張ってみる…」
絵里花も、笑ってくれた。控えめに、ぎこちなく、だけど幸せの片鱗を隠さずに笑っていた。
それからはちょっとだけ堂々としていたけれど、教室に近づくにつれて私たちの恋人つなぎを冷やかす生徒が増えて、絵里花はかわいそうになるくらい真っ赤になってしまった。
*
「さて、お昼を食べようか」
「ええ、そうね」
さすがに授業中にいちゃつくことはできないので、次に仲良く過ごせるタイミングとしては昼食時となる。だから私たちは昼休憩が訪れると同時に机を寄せて隣り合って座り、絵里花が作ってくれたおそろいのお弁当箱を開く。
今日の献立は雑穀ご飯、鶏もも肉の照り焼き、ほうれん草とベーコンのバターソテー、ふんわり卵焼き、パプリカとキュウリのピクルスだった。栄養バランスを考慮した『エージェント』の鏡みたいな構成で、それでいて彩りにも配慮しているあたりが実に家庭的な絵里花らしい。
見ているだけでも楽しめるけれど、まだまだ成長期の私たちがそれで満足するわけもなく、手を合わせてから照り焼きとご飯を口に入れた。
「ん、やっぱりおいしい。絵里花のご飯、毎日でも飽きないね」
「これでも一応献立には工夫しているもの。それに…あなたが自分で用意する場合、完全栄養食ばかりになるし」
「あれ、普通に便利なんだけどなぁ…代わり映えはないけど」
「食事はね、気持ちも大事なのよ」
食事当番については、ほとんどが絵里花だった。絵里花は家事万能なので放っておくと全部自分で済ませてしまうのだけど、さすがにパートナーとして一切家事をしないわけにもいかず、代わりに食器洗いが私の担当になっていた…明らかに絵里花の負担が多いな…。
なぜ絵里花ばかり料理するのかというと、彼女は家事が好きというのが一番。その次に『私は料理に無頓着なので完全栄養食で済ませようとする』という事情があるからで、仮に一人暮らしだと粉末タイプやブロックタイプの栄養食ばかり食べていただろう。
もちろんそれらよりも絵里花の料理がおいしいのだけど、単純に私が効率重視なだけである。だから私を見かねた絵里花が自発的に料理を担当するようになり、おかげさまで充実した食生活になっていた。愛しているよ、絵里花。
「この卵焼き、味だけじゃなくて焼き加減も完璧だな…ほら絵里花、あーん」
「あー…って、お互いメニューは同じでしょうが! そ、そんな恥ずかしいことができるわけ」
「絵里花、仕事仕事」
「あっ…ぐっ、あ、あーん…」
高校に入学してからすでに1ヶ月以上が経過して、私たちの関係はクラスどころか概ね校内に周知されていた。まあそれが狙いだし。
とはいえ、それで完全にいちゃつくのをやめたら周囲にあらぬ噂を立てられるわけで、そうなると『因果律で結ばれた関係でも破綻する』なんてイメージを持たれるかもしれない。
それだけは、許されない。だって因果律は今やこの国の持続的な発展に直結していて、建前上は当人同士の意思が重視されているけれど、実際は『因果律で結ばれることが決められた組み合わせ以外は認めるべきでない』という事情があるのだから。
私たちは幼い頃から強い因果によって結ばれた存在として、因果律に従うことの重要性をアピールする生きた広告塔…CMC。
だから卵焼きを絵里花に差し出して、彼女はそれをまたしても真っ赤な顔でパクリと食べた。その瞬間、やっぱり私たちを見ていた周囲から賞賛の声が上がる。
「うひゃあ…ここ教室なのに、あんなにラブラブとか…因果律で結ばれた相手ってすごいんだなぁ…」
「因果が強いほど絆も強くなるらしいから、あの二人が特別かもよ?」
「ああー、なんかわかる…ほかの因果律カップルも見たことあるけど、あそこまで仲良くなるのってレアケースらしいし」
「それに、小さな頃から因果律が発現するのも珍しいみたい。あーあ、あたしも早く因果のある相手が見つからないかなー」
「ねー。たまに因果律に逆らおうとする人がいるけど、わざわざ相性の悪い相手を選ぶ意味なんてないじゃんね」
「…女の子同士って…いいよな…」
「わかる…」
「やっぱり円佳×絵里花ですよ…」
私はあくまでも絵里花にだけ笑いかけつつ、そんな周囲の声を冷静に聞き分ける。少なくとも今の教室内には因果律に否定的な反応を示す人はいなくて、エージェントとしてマークする必要がないことに内心で安堵した。
同時に私と絵里花によって因果律に対する理解や共感が進んでいるようにも思えて、ひとまず『表の任務』は順調だと言えそうだ。
…なんか変な評価も聞こえた気がしたけど、まあそれはいいや。
「ふふっ…ね、絵里花。次は私にも食べさせて?」
「…も、もう許して…二人きりなら、いくらでも食べさせてあげるから…」
「ごめんね、私もそうしたいんだけど。今のうちに結果を出しておくと、多分あとも楽だろうから…お願い」
「……うぅ……あ、あーん」
「あーん…うん、絵里花が食べさせてくれるほうがおいしいよ」
私と絵里花が任務をこなせば、このままずっと一緒にいられる。この恋人関係が作られたものであるのは事実なのかもしれないけど、それが居心地の悪さと直結しているわけじゃない。
むしろ…私は、絵里花以外がパートナーになるなんて、考えられないから。
まだまだ『好きの形』が見えていない私だけど、そう思えるうちはこの子のそばにいたい。
そんな気持ちを込めて、絵里花にも同じことをしてもらって食べた卵焼きは…どうしてだか、自分で食べたのよりも甘かった。そしてまたしても教室には生ぬるい空気が漂い、絵里花の顔は爆発一歩手前まで赤くなっていた。