その子と出会ったのは、とても小さな頃。
真っ白な壁に包まれた部屋の中心、フロアタイルが敷かれた場所にぺたんと座っていて、白と赤茶色の体毛をした犬のぬいぐるみを抱いていた。
当時の私は年齢相応の子供らしく好奇心が強くて、研究者の人に『この子が君の運命の相手だよ』なんて教えられて、すごく興味が湧いていた。
だからトテトテとそばまで歩いて行って、私が挨拶をしたらビクッと体を震わせ、そしてぷいっとそっぽを向いた。
その頃からこの子はハニーブロンドの髪がとてもきれいで、当時はお互いセミロングくらいの長さだったから、首を動かすとふわりと毛先が揺れてキラキラしていて。
こんなにもきれいな髪をしている女の子と仲良くなれるなんて嬉しかったから、私はその顔が見たくてそっぽを向いた方向へと回り込む。
でもそうしたらまたぷいっと逆方向を向いて、今度こそ顔を見ようと同じことをしたら、またぷいってされて。
何度も、何度も、何度も繰り返したら。やっと暗い赤色の瞳と目が合って、髪の毛とはまた違ったキラキラがとてもきれいだった。
『わたし、まどかっていうの。よろしくね!』
そのまま相手の前に座って、にっこりと笑いながらもう一度挨拶する。今思うと、この頃の私は本当に良く笑っていた。今も笑うことはあるけれど、多分、ここまでコロコロと笑顔とそれ以外の表情を切り替えることはしていない。
それに対してこの子は小さいときからあんまり笑わなくて、ちょっぴりつり目がちなこともあってか、今と同じように友達はいなかったみたい。
当時はそんなことなんて知らなくて、ただ運命の相手──もちろん詳しくは理解していない──と言われたこの子と仲良くなりたかった。まあ…子供によくある、とくに深い意味もない友愛表現だったのだろう。
『…えりか。よろ、しく』
そんな友愛が通じたのかどうか、もしくは『運命』に定められた相手だからなのかどうか、おそらくは後者なのだと思うけど。
この子…『絵里花』はようやく名前を教えてくれて、私はただそれだけのことをまっすぐに喜べて、飛び込むように絵里花へと抱きついた。
絵里花は「ちょ、ちょっと! ぬいぐるみ、つぶれちゃうでしょ!」なんて文句を言って離れようとしたけれど、私は全然離す気にはなれなくて、すぐ近くにいた白衣を着ている女の人が満足そうに頷いているのが見えたけど、どうでもよかった。
これからはぷいってされずに、いつでも顔を見ながらたくさん話したいな。そんなことを思ってずっと抱きついていたら、そのうち絵里花もクスクスと笑ってくれるようになって、初めての対面はお互いに笑顔があふれていた。
*
それからも私は絵里花と一緒に過ごしていて、ちょうど初等部の高学年…本格的な『訓練』も開始するようになった頃。
私も絵里花もいろんな言葉を理解できるようになったからなのか、研究所の人たちが教えてくれたことについても考えるようになった。
『あなたたちは因果で定められた、結ばれることで幸福が約束された存在なの』
因果。それはここで過ごしていると何度も耳にして、ちょっと前までは運命ってわかりやすい言葉で説明されていたけれど、私と絵里花が大きくなるにつれて因果という言葉に置き換えられていった。
でも当時の私たちにとって大体のことはまだ漠然としかわかっていなくて、その中で唯一はっきりとわかっていたことが『私にとって絵里花は特別な存在』というものだった。
私は絵里花と出会ったときからこの子が大切だって感じていたから、因果がどういうものなのかはっきりとわからなくても、ただこれからも一緒にいられそうで嬉しかったのだ。
絵里花は昔から照れ屋だったから、そんなふうに説明を受けてもモゴモゴと上手く返事ができなかったけれど。それでも耳と頬は真っ赤になっていて、私が「リンゴみたいだね」なんて笑いながらそれに触れてみたら、くすぐったそうに笑ってくれた。
多分この頃の記憶が、私が絵里花に対してとくに素直…『知らないことばかりだったからこそ純粋に向き合えていた最後のタイミング』だったと思う。
*
ちょうど中等教育を受け始めた頃、私は自分を取り巻く『因果律』について理解を深めていた。そして、自分たちの因果が作られたものであったことに対しても。
私と絵里花は小さな頃から研究所に育てられ、特殊な訓練も施され、因果すら操作された
つまり絵里花と私の出会いは必然であった以上に、与えられたものでもあった。それを論理的に理解できるようになると過去の自分をどこか冷めた目で見つめるようになって、無邪気なまでに楽しく向き合っていた勉強や訓練も淡々とこなすようになってしまった。
そして皮肉なことに、その頃から私の成績は飛躍的に向上したらしい。こうした変化を研究員たちは肯定的に受け止めて、多くの人が『個体番号005-M…円佳は冷静で優秀なエージェントになるだろう』と褒めてくれた。どうでもよかったけど。
対して絵里花は勉強は申し分なかったけれど、訓練…戦闘行為も含まれるそれについては、平均かそれ以下だったらしい。ある日、絵里花の訓練結果を見たとある研究員が『個体番号008-B、絵里花は戦闘向きじゃないかもしれません』なんて評価していた。
それもそうだろう。だって、絵里花は…この頃から、とても優しい人だったから。戦闘に不向きというのは当たり前で、すでに私は戦わせないほうがいいとすら思っていた。
けれど。次の言葉で、私は豹変した…らしい。
『今からでも遅くありません、もう一度因果を操作して別の組み合わせにしてみませんか?』
それが意味するところを理解するには、およそ5秒くらいかかったと思う。
そして私の中に出てきた結論は『私と絵里花が引き離されること』というもので、ここでいったんぷっつりと記憶が途絶えた。
次に意識が戻ったとき、私はぼんやりとした思考で天井を見つめていて、すぐそばにいた研究者や医師が『いくら何でも因果を強くしすぎた』とか『今さら引き離すと周囲に危害を及ぼすほどの誤作動が出るかもしれない』とか、わけのわからないことを話していたのを覚えている。
もちろんその会話内容はどうでもよくて、ベッドで眠っている私に泣きながらすがっている絵里花のほうがよっぽど大切だったから、途中からは聞き耳を立てることもなくただその頭を撫で続けていた。
その後、少しして『大丈夫だよ、君と絵里花はずっと一緒だ』なんて少しおびえた声で教えられて、私はそれに対して首をかしげつつ頷いていた。
*
もう少ししたら高校生、いよいよ『ここ』から世界へと羽ばたくタイミングになって。
私と絵里花は、恋人同士になった。
それは決められたことであり、異論を挟む余地はない。同時に私にはわずかな嫌悪感すらなくて、この決定事項を知らされたときは「恋人になってなにが変わるんだろう」という味付けなしのおせんべいみたいに素朴な疑問しかなかった。
いや、一応変わることはある。これからの私たちはとにかく仲良く過ごして、周囲がうらやむほどの恋人関係を作り上げないといけない。これまでもそこそこ仲良しだったとは思うけど、その先…ゴール地点が見えない登山が始まったような気分でもあった。
それと同時に『エージェント』としての仕事もこなさないといけないから、ここで勉強と訓練を繰り返していた日々よりも忙しくなることは確実だ。大きくなるにつれて若干の面倒くさがりが出てきた私は、最近になってよく話すようになった『監視役』に対してささやかに愚痴ることもあった。
絵里花はどう思っているんだろう、選択肢もないのにそんなことをふと考える。恋人になることを知らされてから初めて二人きりになった直後、それを質問しようとしたら。
『…私、あなたが恋人ならいやじゃないわ。これからもよろしく、円佳』
絵里花はぺこりと頭を下げて、慌てて私も頭を下げる。
そして顔を上げたとき、目が合った絵里花は嬉しそうに、くすぐったそうに、ちょっぴり泣きながら…確実に、喜んでいるように見えた。
私は、教わった内容以上のことを知らない。だから、恋人としてどう接するのか、知識としてはあってもまだ体は上手く動かなかった。
それでも、このときは自然と絵里花を抱きしめていた。
なんでだろう?
そうしたいから?
絵里花が泣いていたから?
わからないけど、これが恋人としての初めての役割だと考えたら…とても素敵なことだって、無性に信じたくなった。
これまでも絵里花は二人きりになると控えめに寄り添ってくることがあったけど、この日は小さな頃のように遠慮なくぎゅっと両腕で抱きついてきて、ああ、これからもこうやってハグをするのだろうなと思ったら…私の心臓からは『きゅるんっ』って感じの音がした。
そのまま絵里花を抱きしめながら、私はふと考える。
恋人というのは、お互いが好き合っているものだ。ましてや私たちは因果律にて結ばれることが決まっているらしいし、今の絵里花の態度…私と付き合うのがいやじゃないってことは、もしかしたら私が考えている以上に、私のことを好きでいてくれているのかもしれない。
私は、どうなんだろう? もしも『大切』って気持ちが好きって気持ちと同じであれば、絶対に私は絵里花が好きだけど。
研究所は恋愛についてそれなりにいろいろと教えてくれたくせに、好きの形についてははっきりとさせてくれなかった。だから私たちは、手探りで好きを探して行かないといけない。
だから、願った。私たちの因果に。
私たちの関係が、これから先もずっと続いていますように。
そして私も、彼女を好きになれますように。
そんな願いの果てに、どんな結末が待っているのだろう?
これは私と絵里花の、因果律にまつわるお話──。